第144話 遡る(2)

斯波は志藤に頼んで、ホテルからピアノのあるコンドミニアムに宿泊を変えてもらうことにした。


幸い、すぐに見つかったのでそこを借りることになった。


ホテルと違って炊事や掃除などもしなくてはならないが、


真尋があの調子なのが心配で


外食ばかりでは体が参ってしまう気がしていた。




「そんなに・・大変なの?」


萌香に電話をしたのも1週間ぶりだった。


「なんか珍しく精神的に追いつめられてるっていうか。 まあ、おれも少しは炊事はできるし。 なるべく手をかけてやりたい気がして。」


「そう・・」


斯波の心配が


伝わってくるようだった。




「竜生、どう?」


夜分、帰宅した南は絵梨沙のところに行った。


「ええ。 解熱剤で熱は下がっているんですけど・・なにしろ40℃も出てしまうと心配で、」


昨日からインフルエンザにかかり、竜生が寝込んでいた。


「・・かわいそうになあ。 小さいのに、」


南はそっと寝室に入って、竜生の寝顔を見た。


真鈴がおなかが空いてぐずりだす。


「ハイハイ。 ちょっと待っててね。」


絵梨沙はミルクの仕度をするのにキッチンに立った。


「よしよし・・待っててな~、真鈴はいい子だから、」


南が抱っこしてあやした。



絵梨沙は子供たちのことで手一杯で。


志藤から真尋の様子を聞いて、本当はすぐにでもロンドンに行きたかった。



南はそんな絵梨沙のジレンマもわかっていた。


「大丈夫。 真尋には斯波ちゃんがついてるから。 今回は満を持して彼が行ったわけやし、」


笑顔で彼女に言う。


「ええ・・」


絵梨沙は真鈴にミルクを飲ませながら不安そうにうなずいた。




2年前。


まだ小さかった竜生を抱えながら


絵梨沙はくじけそうになる真尋を必死で支えた。


たくさんの重圧にも


歯を食いしばって頑張っていた真尋を


優しく見守りながら。



「私が行ってもできることはないんですけど。 でも・・また苦しんでいるのかなあって、」


「でも今回の仕事を最終的に決めたのは真尋やん。 これも覚悟で行ったと思うで。 あの時が真尋のピアニスト人生のスタートやって、あたしも思ってるから。 それを乗り越えて、もっともっと頑張らなアカンって。 真尋もそう思ってる、」


「ええ・・」


絵梨沙は小さなため息をついた。




練習を進めていき、来週にはオケとも併せることになるのだが


真尋はよく寝ている最中にうなされるようになっていた。



『わしのことには・・構うな! どうせ神に召される命なら・・おまえにくれてやる!』



・・やめろ・・


おれなんかに


命なんか


簡単に賭けるな・・!



真尋はガバっと起き上がった。


「・・大丈夫か?」


その声で隣の部屋で休んでいた斯波がやって来た。


「へ・・?」


すごい汗をかいている。



「ああ・・うん・・。」


真尋は起き上がって、水を飲みに行った。




翌朝



「今日は・・練習を休もう。」


朝食の仕度をしてやった斯波は真尋に言った。



「え・・?」


「一日、ボーっとしよう。」


斯波は優しくそう微笑んだ。



真尋はベッドに大の字になってゆったりとしていた。


いつの間にかウトウトしていたようだった。



遠くに


ピアノの音が聴こえる。



ムソルグスキー


『展覧会の絵・・キエフの大門』



そのピアノの音が


真尋の身体を包み込むようだった。


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