第138話 母(4)

斯波は何も話さずにワインをちょっと口にした。


もう


寒くなり、眼下に広がる夜景も透明感を増した輝きを放つ。


萌香は彼の言葉を待っていた。



「今日。 オフクロの相手の人が来たんだ。 おれを訪ねて。」


重い口をようやく開いた。


「え・・」


萌香は小さな声を上げた。


「・・すんごい。 いい人だった。穏やかで。 オフクロのことも・・本気みたいだった。」


斯波は手元に視線を移した。


「そう、ですか・・」


「今まで・・オフクロから紹介された男は何人かいたけど。 おれのところにわざわざ会いに来てくれた人は初めてだったし。 それが全てなのかと想うし、」


萌香は黙って彼の言葉を聞いていた。


斯波は3分の1ほど入っていたグラスのワインをグイっと一気に飲んでしまった。


「清四郎さん、」


宥めるように萌香が言うが、


「・・おれ・・すっげえ動揺してる。」


頭の中がぼーってしてきた斯波はそう言った。


「動揺・・?」


「何だかわからないけど・・すっごく落ち着かなくて。 イライラして。 自分でもなんかよくわかんなくって、」


彼の声は震えていた。


「・・また・・置いていかれてしまうって。 怖くて、」


斯波は意外な言葉を口にした。



「え・・」


「この年になって、恥ずかしいけど。すっげえ・・怖い。」


斯波は飲めないワインをどんどん飲んでしまった。




子供のころの


あの気持ちが


今になって蘇って・・


彼は


動揺している。


そして


その自分の気持ちにも驚いている・・




萌香は何だか悲しい気持ちになって


「・・今度は・・別れるわけじゃないわ、」


そっとテーブルの上の彼の手を握った。


「萌・・」


「お母さん・・幸せになるために行くんですもの。 昨日も本当に幸せそうやった。 だから、大丈夫。」


彼女の黒い濡れたような瞳に吸い込まれそうだった。


「今は・・私がいる、」



その瞳が潤んだかと思うと


それが涙となってこぼれ落ちた。


斯波は彼女の手をぎゅっと握り返した。




私は


あなたに


生まれ変わらせてもらえることが


できた


愛してるって初めて思えることが


できた


あなたのおかげで


私は


自分を取り戻すことが


できた


だから


あなたが悲しい時は


私が


あなたの寂しい心の中をうめてあげたい・・




萌香は狂おしいほどのキスをして


全身で彼を愛するように。



そのレストランの下にある


ホテルにそのまま泊まってしまった。



私たちは


不思議な運命に流されて


こうして出会うことができた


自分の過去を恨んだことはあったけど


それがなかったら


きっと


私たちは出会えなかった


それを思うと


その時間さえ


愛しい。




「萌・・」


彼女の豊かな胸に顔を埋めて


抱きついている時が


一番幸せだった。



温かくて


柔らかくて


本当に


ホッとできた。



オフクロも


ずっと


さびしかったんだろう。


いろんな男に騙されて


それでも


誰かを愛したくて。


ようやく


本当にオフクロを愛してくれる男が


現れたのなら


それは


喜んであげなくてはならないのかもしれない



『きみのいない生活は考えられないって・・』


西沢の言っていた言葉を思い出す。



涙が・・出てしまった。



萌香の胸の上で


子供のように泣いてしまった。



「・・清四郎さん・・」


愛しい子供を抱くように萌香は彼を抱きしめた。


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