第139話 母(5)

年末に向けて


事業部も忙しさを極める頃


斯波の母は西沢と共に竹富島に発った。


別に見送りに行くだとか


そんなこともなく。



前日に電話があったので


「身体に気をつけて」


とひとこと言っただけだった。



もう


心配することはないんだ。


あの人にも


頼れる人がいる。


おれはもう


必要ない。



斯波はそう思うと心からホッとできた。




「進行表、まとめておきました。」


萌香がスッと横から手を出した。


「ああ・・ありがとう。」


それを少し笑顔を見せて受け取った。


萌香も静かに優しく微笑む。


おれには


彼女がいる。


自分を信じてくれている


彼女がいる・・





そして


年が明けてすぐ


「え? ロンドンに?」


萌香は帰ってきた斯波の着ていたコートをハンガーに掛けながら言った。


「急遽、決まって。 ロンドンのウインザード交響楽団からオファーが来て。 真尋がベートーヴェンの『皇帝』でコンチェルトで参加することになった。 」


「いつ、ですか?」


「来月の10日、」


「あと1ヶ月もないじゃないですか、」


「まあ・・誰かにキャンセルされて、代役っぽいけど。 でもロンドンは初めてだし、ウインザードみたいな大きなオケとやるのもチャンスかなって。 幸い、スケジュールはあいてるし、さっそく今週末からロンドンへ行って・・」


「清四郎さんが?」


「・・志藤さんもできればおれに言って欲しいって。 八神じゃ、まだまだ他の交渉ごと心配だし、玉田は春のオケの公演のことで手一杯だし。」


「そう、ですか。 長くなるんですね。」


「うん・・」



一緒に暮らし始めてから、そんなに離れるのははじめてのことで。


二人とも何となく寂しさが募った。


「真尋はウイーンの音楽院を4年で卒業できずに中退して。 沢藤絵梨沙のお父さんでピアニストでもあり、彼らの音楽院の講師でもあったマーク・フェルナンド氏の勧めもあって、とある先生につくことになったんだ。」


斯波はベッドに寝転びながら本を読んでいたが、傍らにいた萌香に話し始めた。


「・・その人はリヒャルト・シェーンベルグ氏と言って、もう伝説のピアニストでね。 肺の病気になってピアニストは辞めちゃったけど、弟子の中にはもう、有名なピアニストがゴロゴロいて。 各国のピアニストたちが『シェーンベルグ詣』をするほど、その人に教えて欲しいってくらい、すっごい先生だった。 真尋は、自力でその人の弟子になってね。 実質・・2年位かな。 その間にウイーンの超有名楽団でコンチェルトをやらせてもらえることになって。 その頃の真尋なんか海のものとも山のものともわからない存在だったのに、その先生のおかげで、そんなチャンスが巡ってきてね。 その公演を成功させるために必死で、死ぬほど頑張って。 そのときの楽曲が今回の楽曲の『ベートーヴェン・皇帝』だった。」


萌香は彼の話を静かに聞いていた。



「実際。 おれはその頃はまだホクトにいたわけじゃなかったから。 その公演も聴いてないし、そんなバックグラウンドも知らなかったんだけど・・まあ、すっごい演奏だったらしい。 それでがウイーンで真尋が活動できる礎になったって言っていいくらいだったって。」


「・・そうなんですか・・」


「でも。 その公演が終わってすぐに、そのシェーンベルグ先生が亡くなってしまって。 真尋は『最期の弟子』になったんだ。」


「え・・?」


「先生は自分の命を真尋に賭けた。 志藤さんの話だと、真尋はそっからプロになったなあって。 それまでは趣味で弾いてますって感じだったけど・・って。」


斯波は萌香に微笑みかけた。


「・・今度の公演の演目を聴いたとき、なんかすっごく聴きたくなって。」


彼の気持ちが


溢れてくるのがわかる。


「成功すると・・いいですね。」


萌香は静かにそう言って微笑んだ。


「うん・・、」


斯波はゆっくりと起き上がって彼女の背中に手を回し


優しいキスをした。






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