第35話 涙(2)

「思い切って彼から独立したい・・と言うと。 『きみは一生私から逃れられないよ、』って。 いつものように落ち着いた・・でも、ものすごく厳しい顔でそう言われて・・。」


萌香は涙を手で拭いながら話を続けた。


「どんどん苦しくなって。 本当にもう逃げたくなって。 あの人に感謝はしているけど・・私は新しい人生を歩き出したいのに・・それを許してくれなくて。 そんな時・・畠山専務に誘われて。」


志藤はハッとした。


「最初は自棄の気持ちで彼とつき合っていましたが、だんだんと・・この人との不倫がばれたらどうなるんだろうと思うようになって。 ひょっとして・・何か新しい道が開けるような気がして。 一か八かで・・わざと専務を会社内で・・誘って。」



彼女が


畠山との不倫を利用しようとした、と言うのは


本当のようだった。


「社内を騒がせることになりましたが思惑どおり私は・・東京へ出ることができました。 そして会長にそのことを言うと。 最初は会社を辞めるようにと言われましたが、私がそれを頑なに拒否をしたら、・・じゃあ、東京で住むマンションも借りてやるから、と。 それも断りましたが。 やっぱり追ってきて・・」


だんだんと呂律も回らなくなるほど、彼女は酔っていた。


「それに・・私2度も・・子供を堕ろしているんです。 あの人の、」


「え・・」


志藤は小さな声をあげた。


「産みたかったら産んでもいいと言われましたが。 好きでもない人の子供なんか絶対に産みたくないって。 今になってそのことを思い出すだけで・・もう・・心がおしつぶされそうで・・」


萌香は両手で自分の耳を押さえた。



何か


言ってあげなくちゃ・・



志藤はそう思えば思うほど


何も言葉が出てこなかった。



楽しくて明るい時間のはずの


思春期を


彼女は地獄のような生活をしてきた。


普通の女の子のように


恋や愛を楽しむことも


きっと一度もなかったのだろう。



「バチが当たったんです。 会長や・・畠山専務を利用してこの苦しみから逃れようとしてきた。 私、ほんまにサイテーや・・」


彼女の京都弁を初めて聞いた。


「サイテーやないよ。 大人が・・悪い。」


志藤はやっとそう言うことができた。


「大人を・・利用しようとした・・私が、アホでした・・」


と、また嗚咽が漏れるほど泣き出した。


「十和田会長にスポンサーになってもらうのは・・つらいやろ?」


志藤はそんな彼女に優しく声をかけた。


「だから・・もう私をクビにしてください。 私のためにこの話を断るようなことはしないで下さい、」


萌香はテーブルにつっぷした。



「クビになんかするか、」


志藤は萌香にそう言った。


「あの人は私を追いつめて喜んでいるだけなんです。 黙って引越しをして、また裏切るようなマネをした私を。 もう、私はこの人生を・・歩くしか・・」


もう


かわいそうすぎて声がかけられなくなってしまった。





「な、なんで・・彼女だけそんな思いをしなくちゃならないんですか?」


ゆうこも言葉を詰まらせた。


「おれだってなあ・・もう、どないしてええのかわからん、」


志藤はつかれきったように言った。


「そのスポンサーの話も社長を通してのことやから、断るにしても社長に全部話をせんとアカンし。 これ以上彼女のことをあまり公にしたくないし、 あ~~~、イヤやなあ。 もう。」


志藤は子供のようにダイニングテーブルにオデコをくっつけてそう言った。





ん・・・



萌香はゆっくりと目を開けた。


見知らぬ部屋



え・・?


どこ・・



頭が重い。



すると襖がスっと開いて、ゆうこが入ってきた。


「あ、おはようございます、」


とニッコリ微笑まれた。



だれ・・?



もうわからないことだらけだった。



「あ、覚えてないかもしれませんね。 あたし、志藤の妻のゆうこと言います。 栗栖さんですよね?」


と優しく言われて、


「・・本部長の、」


萌香はようやくゆうべ、志藤と一緒に飲んでいたことを思い出した。


「昨日、主人が飲ませすぎてしまったみたいで。 ごめんなさい。 よかったら、これで顔を洗ってきてください。気分は悪くないですか?」



「いえ・・」


ゆうこにタオルと洗面用具を手渡されて頷いた。



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