第18話 ただの自分(1)

「あの・・」


萌香は重い口を開いた。


「え?」


「なんで・・聞かないんですか?」


「なにを?」


斯波は怪訝な顔をした。


「・・私のこと、」



斯波は


3日前から何も言わずに自分のオーナーのマンションに居させてくれて、生活に不自由ないようにと全てを用意してくれて。


パトロンのあの男から逃げたがっている自分のことを何一つ詮索してこない。


「別に。 誰にだって過去はある。 それがいいことだったかは別にして。 栗栖は仕事もちゃんとしてるし、おれはそれで十分だと思うけど。」


斯波はいつものようにボソボソとそう言った。


その時


言いようのない気持ちで胸がいっぱいになり


萌香は思わずポロっと涙をこぼしてしまった。



「え・・」


斯波は驚いた。



会社では


あんなに強気で、どんな陰口を叩かれても


涙なんか見せたことがない彼女が。


鋼鉄の鎧が外れたように


今は普通の24歳の女性になって。


自分の前で泣いている。



素顔の彼女は


本当に無口で


そこにいることもわからないほど


おとなしい女性だった。



そして


死ぬほど


いい女だった。


「泣いてんじゃねえよ、」


斯波は自分の心の動揺を抑えるように彼女から目をそらして言った。


「何があったか知らないけど・・人生、いっくらだってやり直しできるし、」



ぶっきらぼうだが


優しい優しい


言葉だった。


「ありがとうございます、」


萌香は手で涙を押さえながら静かにそう言った。



余計なお世話が嫌いな自分が


あの時ウソを言ってまで彼女を助けた理由が


自分でもわからずに


斯波は戸惑っていた。




萌香はここにきて


生まれて初めて


ゆっくり眠ることができている自分に気づいていた。


ひとりで


生きてきて。


誰に追われることもなく


こんなに落ち着いた空間に身を置くことも


生まれて初めてのような気がしていた。



その翌日のことだった。


「あのう、」


萌香は遠慮がちに斯波に話しかけた。


「なに?」


「ほんと・・申し訳ないんですが。」


斯波はパソコンから目を離して彼女を見た。


みんな外出中で気がついたら彼女と二人だけだった。


「あの部屋に・・住んでもいいですか?」


萌香は神妙な顔で言った。


「え・・いいけど。 引っ越すの?」


「なんか・・よくわからないんですけど・・落ち着くって言うか、」


萌香は少し恥ずかしそうに彼から目線を外して言った。


「いいよ。 何だったら、荷物だけまとめてくれれば。 引越しの手配もするし。 ・・もう、あの男は帰ったの?」


「たぶん・・でも、」


萌香はため息をつく。


「引っ越しても・・すぐにつきとめるでしょうが、」


斯波は彼女の気持ちを思い、


「そう。 じゃあ、荷物まとめる時も、一緒に行くから。」


と言った。



萌香はぱっと一瞬明るい顔になり、


「いいんですか?」


彼に聞いた。


「怖いんだろ? 一人で戻るのが。」


彼女は黙って頷く。


だんだんと


彼女との距離が、よくわからないうちに近づいている。


斯波は


それがわかって、戸惑っていた。



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