第19話 ただの自分(2)

「これでよし、」


引越しはあっという間に行われた。


夜逃げのように一瞬で。


こんなことをしてもあの人から逃れられるとは思えないけど。


今はこうするしかない。


萌香はそう思った。



「ほんと荷物少ないな、」


斯波は言った。


「まだ、少ししか住んでいなかったし、」


「敷金・礼金もったいねえな。 敷金はそんなに住んでなくてもほとんど戻ってこないだろ?」


「いいんです。 それで、そっちの家賃と・・敷金と礼金を、」


と車に乗り込みながら言うと、



「ああ・・家賃は8万。 敷金礼金は、いいよ。」


斯波は言った。


「でも・・そんなわけには、」


「こんな短い期間にそんなの2回も払うのたいへんだろ? 自分の給料だけでやってんだろ?」


「ここの家賃や・・そのほかもあの人が出すと言ったけど・・断ったから、」


「だから、いいよ。」


「でも。 お父さまに怒られてしまうんじゃないですか?」


「ああ。 あの人、あんまりこういうこと興味ないし。 不動産屋にはおれから適当に言っておくから。」


斯波は車を運転しながらタバコを吸った。



「じゃあ・・とりあえず貸しておいて下さい。 必ずお返しします、」


「だから。 いいから。」


斯波はふっと笑った。


荷物を部屋に運び込んだ後、


「あのう、」


萌香は斯波に声をかける。


「ん?」


「たいしたものはできませんが。 夕飯をごちそうさせてください、」


「え・・」


「今は・・そのくらいしか、できません。」




小さな声でうつむき加減にそう言う彼女に


みぞおち辺りが


きゅっと掴まれるような


そんな感覚にとらわれた。



思わずそこに手をやった。


「・・あんたが作るの?」


と言うと、萌香は黙って頷く。


「じゃあ・・ごちそうになろうかな、」




彼女は料理を手際よく作っていく。


斯波はそれを黙って口にした。


「本当にたいしたものではないんですが、」


萌香は恥ずかしそうに言った。


「・・うまい、」


斯波は静かにそう言った。


「ほんと、ですか?」


萌香は嬉しそうに彼を見た。


「うん。いつも料理をしている感じの味だ、」


「自分でやるしかありませんでしたから、」


寂しそうに言う彼女に、


「ずっと一人暮らしなの?」


初めて彼女の中に入り込む質問だった。



「・・高校1年のときに・・家を出て。」


「高校1年で・・」


「ずっと、ひとりで。」


「親は?」


と聞くと萌香は黙り込んでしまった。


斯波はハッとして


「ごめん・・詮索するつもり、なかったのに。」


と我に返る。


「母はいるけれど・・父はわかりません。」


萌香はボソっとその質問に素直に答えた。


「え・・」


「どこの誰だか。」



そして


小さなため息をついた。



『私の言うことを聞いていれば。 大学まで出してやれる。 いい大学を出れば、一流企業にも就職できる。 そうすれば、きみの忌まわしい過去からも逃げ出せる、』



あの人に


そう言われて。


まだ


『少女』だった


私は


あの人の


『愛人』になった。




萌香は嫌でも自分のかなぐり捨てたい過去が蘇り、茶碗を持つ手が止まってしまった。


会社にいるときの彼女とは


全く別人の


化粧っ気はほとんどないが、透きとおるような美しい彼女の素顔を


見ていると心が揺さぶられた。



何だろう


この気持ちは。



会話が途切れてシンとなった食卓で


斯波はぼんやりとそんな風に考えていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る