第12話
昼食を食べ終えた後、僕たちは劇場に戻って舞台の稽古を見学していた。
素人の僕の目から見ても、中井架純さんの演技はとても素晴らしかった。この舞台に出ている人の中で――いや、僕が知っている女優の中で、おそらく一番じゃないだろうか?
「明日香さん。中井さんの演技は、凄いですね。主役の探偵役の人よりも、上手いんじゃないですか?」
と、僕は興奮しながら言った。
「ちょっと明宏君、あんまり大声を出さないでよ。主役の人に聞こえたら、気を悪くするわよ」
「す、すみません」
まあ、舞台上まで聞こえるわけはないけど、そんなことまでは、まったく考えていなかった。
「そうだよ、明宏さん。これで主役の人が怒っちゃって、架純ちゃんが毎日いじめられるようになったら、明宏さんのせいだからね。責任を取ってよ」
と、明日菜ちゃんが、真面目な顔をして言った。
「えっ? まさか、そんなことで、いじめなんてしないでしょう?」
「明宏さん――」
明日菜ちゃんは、意味深な目で僕をじっと見ている。
えっ? そうなの? 芸能界って、怖い……。
「すみません。見学の方は、ここまでお願いします」
と、舞台の監督らしい人が言った。
「えっ? 最後まで、見られないんですか?」
と、僕は聞いた。
「申し訳ありませんが、ここまででお願いします」
と、監督は繰り返した。
「こんな、中途半端なところで?」
「明宏君、ただで最後の結末まで知ろうなんて、図々しいわよ。出ましょうか」
と、明日香さんが言った。
「はい、分かりました」
舞台の方を見ると、中井さんが笑顔でこっちの方に向かって、手を振っているのが見えた。
僕も、笑顔で手を振り返した。
「明宏君、なにをやっているのよ」
と、明日香さんが冷めた目で、僕を見ている。
「えっ?」
「架純ちゃん! またね!」
と、明日菜ちゃんが、手を振りながら叫んだ。
そう、中井さんが手を振っていたのは、当然のことながら僕に対してではなくて、僕の隣にいた明日菜ちゃんに対してだった――
そして、笑顔で手を振るマヌケな勘違い男に気が付いた中井さんが、僕の方にも手を振り返してくれたのが、逆にとても恥ずかしかった……。
「明日香さん、これからどうしますか?」
と、僕は聞いた。
「そうね。樋田さんの話を聞きたいところだけど、まだ稽古は終わりそうにないわね」
と、明日香さんは、携帯電話の時刻を見ながら言った。
「ここで、樋田さんが出てくるまで待ちますか?」
「そうね――明日菜が一緒じゃなければ、それでもいいんだけど。一度、事務所に戻りましょうか。樋田さんの自宅は、分かっているんだから」
「そうですね」
さすがに、明日菜ちゃんを一緒に連れて行くわけにはいかない。
「私だったら、全然気にしなくてもいいよ。一緒に、待ってるから」
と、当の明日菜ちゃんは、ニコニコしている。
「だめよ、明日菜。あなたは、探偵じゃないんだから」
「えぇー。明宏さんだって、探偵ではないでしょ」
と、明日菜ちゃんは不満そうだ。
「それはそうだけど、あれでも一応、助手なのよ」
「私にも、お姉ちゃんの助手くらいできるよ」
何故か、僕が悲しくなってきた。早く、一人前の探偵になりたい――
「もう、分かったわよ。帰ればいいんでしょ」
と、明日菜ちゃんは、しぶしぶ言った。
「まあ、お姉ちゃんも、明宏さんと二人きりの方が色々と楽しいだろうし」
と、明日菜ちゃんは、ぼそっと呟いた。
「明日菜、何か言った?」
「別に」
いや、僕は明日香さんと二人きりは嬉しいが、明日香さんはそうでもないだろう。結局僕たちは、探偵事務所に戻ることにした。
僕たちは、探偵事務所に戻ってきた。
「それじゃあ明日菜、さっき言ったことお願いね。絶対に忘れないでよ」
「分かってるってば。それじゃあ、帰るね。明宏さん、またね」
明日菜ちゃんは、まだ不満そうだったけど、帰っていった。
「明日香さん、明日菜ちゃんに何か頼んだんですか?」
と、僕は聞いた。
「ええ。中井さんに、舞台の稽古が終わったら連絡をしてもらうようにってね。連絡が来てから、出かけましょう」
「分かりました。でも、深夜とかじゃないですよね?」
「そんなこと、私に分かるわけないでしょ。まあ、そのときは、そのときよ。明宏君は、ここで寝てればいいわ」
明日菜ちゃんから連絡が来たのは、僕が思っていたよりも早くて、午後7時を少し過ぎた頃だった。
「お姉ちゃん、さっき架純ちゃんから連絡があったよ。稽古は6時30分頃には終わって、樋田さんはすぐに帰ったって」
「そう、分かったわ。ありがとう」
「これから、樋田さんのところに行くの? 私も、この後は空いてるよ」
「はいはい。分かったから、あなたはもう寝なさい」
「まだ、7時過ぎだよ。子供じゃないんだから」
子供でも、こんなに早くは寝ないだろうが。
「とにかく、ありがとうね。中井さんに、よろしく言っておいてね」
と、明日香さんは言うと、電話を切った。
「明日香さん、さっそく行きますか?」
「そうね――どこにも寄らずに、直接帰ってるとは限らないから、もう少ししてから行きましょうか」
僕たちは、午後8時30分頃にアパートにやって来た。
樋田さんの部屋から、灯りが見えている。どうやら、樋田さんは部屋に居るみたいだ。
明日香さんが、樋田さんの部屋のチャイムを押した。
「はい、どなた?」
チャイムを鳴らしてすぐに、樋田さんがドアを開けた。
「こんばんは。遅くに、失礼します」
「あんたたちは――」
「どうも。探偵の桜井です」
「知ってるよ。いったい、俺に何の用だ? わざわざ、こんなところまで訪ねて来やがって」
「少し、お話を聞かせてほしいのですが、よろしいでしょうか?」
「――断る」
「何故でしょうか? 聞かれたら、困ることでも?」
「困ることなんか、何もない。分かった。少しだけなら、聞いてやる。さっさと入ってくれ。部屋の中が、暑くなる」
「失礼します」
樋田さんは、僕が思っていたよりも、あっさりと部屋に入れてくれた。
樋田さんの部屋は、とにかく散らかっていた。部屋中に、色々なものが散乱している。
中井さんが言っていたように、なんでも捨てられない人なのだろう。
「お食事中でしたか」
と、明日香さんが聞いた。
「ああ、たった今、食べ終わって、洗い物をすませたところだ」
古そうな食器乾燥機の中には、茶碗と皿とコップ、そして果物ナイフが入っている。
「樋田さん、ご自分で料理をされるんですか?」
と、僕は聞いた。
「悪いか? まあ、自分でするといっても、飯を炊くだけで、おかずはスーパーで買ってくるがな」
「そのキャベツは?」
と、明日香さんが、出しっぱなしのキャベツを見つけて聞いた。
「これは、さっき食って、これからしまおうと思っていたんだ。俺はこう見えても、キャベツの千切りが得意なんだ」
と、樋田さんは、自慢気に言った。
ふーん。人は見かけによらないな。
僕は包丁なんて、ほとんど握ったことがない。
「なんだ、俺に料理のことを聞きに来たのか? それなら、違う人をあたった方がいいんじゃないか?」
「いえ、樋田さんにお聞きしたいのは、山元陽子さんのことです」
「山元? 誰だ? ああ、あの殺された女か」
「はい。樋田さんは、山元さんのことは、ご存じですよね?」
「まあ、同じアパートの人間だからな。顔と名前だけは知っているが、それ以外のことは何も知らないぜ」
「個人的な、お付き合いは?」
「まったくないな。顔を合わせたら、挨拶をする程度だ」
「山元さんの部屋に、入ったことは?」
「あるわけ、ないだろう。だいたい、あの女は何者なんだ? 大家に聞いたが、写真を撮って脅迫したりしていたんだろう? そんな人だ、誰かに恨まれて、殺されたんだろう」
「警察にも聞かれたと思うんですけど、山元さんが殺害された時間帯に、樋田さんは自宅に居たんですよね?」
「ああ、そうだな。あの日は、舞台の稽古が午後からだったからな」
「ちなみに、何をされていたんですか?」
「――別に、何かってことは。ただ、テレビを見ていたくらいだ」
「実は、あの日、私たちも、このアパートにいたんですよ。樋田さんの真上の、西川さんの部屋に」
「もしかして、あのとき俺が部屋から出てきたときに――」
「はい。そのときに、お会いしました。私たちが西川さんの部屋に居たとき、樋田さんの部屋から洗濯機の音が聞こえてきたんです」
「あ、ああ、そうだったな。洗濯をしていたんだ。忘れていたよ」
樋田さんは、少し動揺しているように見えた。
「ちなみに、どうして洗濯を?」
「いつ洗濯をしようが、そんなの俺の勝手だろう! 真夜中にやって、迷惑を掛けたわけじゃない」
「大家の甲斐田さんの話では、樋田さんに午前中に会ったときは、今やっている舞台のTシャツを着ていたそうですが、私たちと会ったときは、前作のTシャツを着ていました。それは、どうしてでしょうか?」
「それは――ケチャップだ! オムレツを食べていて、ケチャップがTシャツについたんだ。それで仕方なく、前のやつを着ていったんだ! ただ、それだけだ。もういいだろう! 俺は舞台の稽古で疲れているんだ、もう帰ってくれ!」
樋田さんは、急にイライラし始めた。
「分かりました。明宏君、失礼しましょう」
「はい。分かりました」
「樋田さん、これで失礼します」
僕たちは、樋田さんの部屋を後にした。
「明日香さん、いいんですか?」
と、僕は聞いた。
僕たちは、明日香さんの車の中に戻って、話をしていた。
「明宏君、気がついた?」
明日香さんは、質問に質問で返してきた。
「何をですか?」
「想像をしていた通りのこたえね」
と、明日香さんは、ため息をついた。
「明宏君、キャベツを切るときは、何で切る?」
「キャベツですか? 包丁に決まっているじゃないですか」
そんなこと、僕だって分かる。
「そうね。それじゃあ、食器乾燥機の中に入っていたのは?」
「食器乾燥機の中ですか? 確か――茶碗と皿とコップでしたっけ?」
「それだけ?」
「後は――あっ、果物ナイフがありました」
「そうよ。おかしいわよね? キャベツを切ったのなら、果物ナイフじゃなくて、包丁で切るはずよ。だけど樋田さんは、果物ナイフを使った」
「どうしてでしょうか?」
「包丁が、なかったからよ」
「つまり、樋田さんが持っていた包丁が、凶器ということですか?」
「その可能性が、高いわね。その包丁、どこにあるのかしら?」
「もう、捨てているんじゃないですか?」
「そうね……。もしくは――」
「あれっ? 明日香さん、あの人、樋田さんじゃないですか?」
樋田さんが道路の反対側を、後ろの方をチラチラ見ながら、早足で歩いている。
「本当ね」
「何をやっているんでしょうか? どこかに行くんでしょうか?」
樋田さんは、僕たちには気付いていないみたいだ。
「明日香さん、話し掛けてみますか?」
「待って。もしかしたら――」
そのとき、樋田さんが手を上げた。樋田さんの前にタクシーが止まると、樋田さんはすぐに乗り込んだ。
「明宏君、尾行して!」
「は、はい」
僕は、急いで車を発進させた。
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