第10話

 僕たちは駅を出ると、急いで探偵事務所に戻ってきた。


 僕は、ちょうど冷房の風が当たるところに立って、明日香さんが入れてくれたアイスコーヒーを、氷が溶ける間もないくらいに一気に飲み干した。

「ふぅ……」

 僕は、ようやく落ち着いた。

 汗だくで着替えたいところだけど、もちろん着替えなど持ってきていないので、そういうわけにもいかない。

 ずっとここに立っていると、汗が冷えて本当に風邪をひきそうだ。

 僕は、明日香さんから借りたタオルで、汗を拭った。

「明宏君、アイスコーヒーもう一杯飲む?」

 と、明日香さんが聞いた。

「――はい、飲みます」

 僕は少し迷ったけど、もう一杯飲むことにした。

 やっぱり、明日香さんが入れてくれると、アイスコーヒーの味も格別だ。

「お待たせ」

「ありがとうございます」

 僕は、今度は一気に飲まずに、少しずつ飲むことにした。

「それじゃあ、私が部屋にミルクを取りに戻っている間に、清水さんから電話があったのね。そして明宏君は、私を騙して駅に行った――そういうことね?」

「はい、そうです。明日香さん、嘘をついて、すみませんでした」

 僕は、明日香さんに嘘をついて一人で駅に行ったことを、とても後悔していた。最初から、明日香さんには正直に話して一緒に行っていれば、こうはならなかったかもしれない。

「でも亜依ちゃんは、いったい僕にどんな話があったんでしょうか? 電話では話せないことって、いったい……」

 僕には、想像がつかなかった。

「そうね――明宏君、これはあくまでも、私の勘なんだけど。清水さんが明宏君に話したかったことは、写真のことじゃないかしら?」

「写真って、亜依ちゃんが犯行現場から持ち出した、例の写真のことですか?」

「ええ。いったい、どんな写真なのかしら? 気になるわ」

 他に現場に残されていた写真は、不倫現場だったり、薬物取引の現場と思われるような写真ばかりだったが――

 しかし、まさか亜依ちゃんが――

 いやいや、亜依ちゃんに限って、そんなことは絶対にありえないだろう。亜依ちゃんがそんなことをするなんて、まったく想像がつかない。

「その写真を明宏君に見せて、何か相談したいことでもあったんじゃないかしら?」

 僕は、もう一度、亜依ちゃんの携帯電話にかけてみたが、やはり亜依ちゃんが出ることはなかった。


 僕たちが探偵事務所に戻って数十分後、探偵事務所の電話が鳴った。

 僕は急いで、受話器を取った。それは待ちに待った、鞘師警部からの電話だった。

「もしもし、鞘師警部!」

「ああ、明宏君か? 鞘師だ、連絡が遅くなって申し訳ないね。工藤と、なかなか連絡がつかなくてね」

「鞘師警部、警察はまた亜依ちゃんを疑っているんですか?」

「ああ、そのようだな。やはり写真を持ち出したことから考えても、怪しいと思われるのは仕方がないかもしれない。捜査本部では、彼女の実家や会社や友人関係、その他に彼女が立ち寄りそうな場所を探しているようだな」

「そうですか……」

 亜依ちゃんの両親も、すごく心配をしているだろう。

「明宏君、ちょっと私にかわってくれる?」

「鞘師警部、明日香さんに、かわります」

 僕は、明日香さんに受話器を渡した。

「鞘師警部、桜井です」

「ああ、明日香ちゃんか」

「実は――」

 明日香さんは、先ほどのことを、鞘師警部に話した。さすがに、黙っているわけにはいかないか。

「そうか、分かった。私の方から、荻野にも伝えておこう。もしかしたら、そちらにも荻野から連絡があるかもしれない」

「分かりました。よろしくお願いします」

 明日香さんは、電話を切った。


 そして、その人物はやって来た。

 僕と明日香さんが、今後のことを話し合っていた夕方のことだった。

 突然、探偵事務所のドアが乱暴に開けられると、荻野警部がズカズカと入ってきた。古い建物なので、もっと丁寧に扱ってほしいのだが(もちろん、新しければいいというわけではないけど)。

 そして荻野警部の後ろには、工藤刑事の姿もある。工藤刑事は荻野警部の様子とは対照的に、とても申し訳なさそうにしている。

「おい! 女探偵!」

 と、荻野警部は、いきなり怒鳴りだした。

「まさかとは思うが、お前たち、殺人事件の容疑者をかくまっていたのか?」

 と、荻野警部は、とんでもないことを言い出した。

「いいえ、そんなことはしていません」

 と、明日香さんが言った。

「荻野警部、僕たちも亜依ちゃんの居場所は全然知らなくて、今日、突然電話がかかってきたんです」

 と、僕は言った。

「突然だと? まあ、いい。それで、その女は、今どこにいるんだ? これ以上隠しだてすると、お前たちのためにもよくないぞ」

「ですから、僕たちも本当に知らないんです」

 荻野警部は、僕と明日香さんの顔を交互にじろじろと見ていたが、「チッ」と、舌打ちをした。

 その荻野警部の後ろでは、工藤刑事が申し訳なさそうに頭を下げた。工藤刑事も、こんな上司で大変そうだな。

「いいか、お前たち。今度その女から何か連絡があったら、絶対に我々に連絡するんだぞ。いいか、分かったな! 隠しだてするようなら、お前たちも共犯とみなすぞ!」

 と、荻野警部は、ジロリと僕たちを睨み付けた。

「はい、分かりました」

 と、明日香さんが言った。

「それにしても、汚い部屋だな」

 と、荻野警部が、探偵事務所の中をじろじろと見ながら言った。

 いえいえ、荻野警部の顔ほどでは――と、僕は言ってやりたかったが、もちろん怖いので言わなかった。

「おい、工藤。さっさと帰るぞ! こんな汚い部屋にいたら、気分が悪くなりそうだ」

「はい!」

 荻野警部は、再び乱暴にドアを開けると、「クソッ! なんで、こんなに暑いんだ」と、ぶつぶつ言いながら、探偵事務所から出ていった。

「夏だから、暑いんですよ」

 と、僕は、聞こえないように呟いた。

「お二人とも、大変申し訳ありませんでした。荻野警部の言ったことは、あんまり気にしないでください。本当にお二人が共犯だなんて、思っていませんから」

 と、工藤刑事が、再び頭を下げた。

「ええ、そんなに気にしていませんから。工藤さんの方こそ、大変そうですね」

 と、明日香さんが微笑んだ。

「おい! 工藤! 何を、やってるんだ!」

 外から、荻野警部の怒鳴り声が聞こえた。

「それじゃあ、これで失礼いたします。もし何か分かれば、鞘師先輩にでもよろしいので、連絡をください」

「分かりました」

「おい! 工藤!!」

「はい!!」

 工藤刑事は、急いで探偵事務所から出ていった。


 荻野警部が帰った後の探偵事務所は、急に静けさを取り戻した。

「明宏君、今日は、もう帰っていいわよ。今後のことは、明日また考えましょう」

 と、明日香さんが言った。

「そうですね……」

 これから何かをするにしても、何も情報がない。

「また、鞘師警部から、何か連絡があるかもしれないしね。清水さんからも、明宏君にまた連絡があるかもしれないわ」

「連絡があれば、いいんですけどね……」

 僕は不安な気持ちのまま、今日は帰ることにした。


 今日は、とても疲れた。

 僕は自宅に帰ると、すぐにシャワーを浴びて汗を流した。

 帰りにコンビニで買った弁当を食べ、なんとなくテレビを見ていたが、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。


 僕は、携帯電話の着信音で目を覚ました。

「うーん……。誰だよ、こんな時間に……」

 こんな時間にとぶつぶつ言いながら、今が何時なのか分かっていないのだが。

 テレビ画面を見ると、ちょうどCMが流れていたので、何時か分からない。部屋には、目覚まし時計もあるのだが、そこまで頭が回らない。

「もしもし……」

 と、僕は、携帯電話の画面も見ずに、電話に出た。

「…………」

 相手は、無言だった。

「もしもし……、どなたですか?」

「…………。あっ――」

「もしもし? 明日香さん……ですか?」

 相手が何か言いかけるのと同時に、僕は、『明日香さんですか?』 と、聞いた。

「…………」

 すると、一瞬、また無言になった後、電話は切れてしまった。

「――なんだ、間違い電話かな?」

 携帯電話の画面を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。

 僕は、そのまま眠りに落ちた。しかし、無意識のうちにテレビの電源は、ちゃんと切っていた――


 翌朝――


 僕は、目覚まし時計の音で、目を覚ました。まだ眠たいけど、起きなければ遅刻をしてしまう。

「あれっ?」

 部屋の灯りを消さずに、眠ってしまったみたいだ。

「電気代の無駄だな」

 と、僕は呟きながら、灯りを消した。


 僕は、顔を洗いながら、昨日のことを考えていた。

 そういえば、夜中に電話がかかってきたような気がする。

 あれは、夢だったのだろうか?

 僕は顔を洗い終えると、携帯電話をチェックしてみた。

 非通知から着信があるな。そして、僕はその電話に出ている。

 ――なんということだ。

 あれは、夢ではなかったのだ。

 非通知からということは、たぶん亜依ちゃんからだったのだろう。

 しかし、亜依ちゃんは、どうして非通知で電話をかけてくるのだろうか?

 僕が亜依ちゃんの電話番号を知っていることは、亜依ちゃんだって知っているのだが。


 僕は、いつも通りの時間に探偵事務所に出勤すると、明日香さんに昨夜のことを話した。

「そう、分かったわ」

「明日香さん、すみません。せっかく、いろいろ聞き出すチャンスだったのに……」

「まあ、仕方がないわね。終わったことを、今さら言っても。何か、また考えましょう」

「なになに? 何を、考えるの?」

 突然、探偵事務所のドアが開いて、明日菜ちゃんがそう言いながら入ってきた。

「明日菜ちゃん、おはよう」

「明宏さん、おはよう」

「明日菜、今日は何の用? 私たち、忙しいのよ」

 と、明日香さんが聞いた。

「お姉ちゃん、おはよう。用がなきゃ、来ちゃいけないの? お姉ちゃん、冷たいなぁ」

「明日菜ちゃん、今日は仕事は休みなの?」

 と、僕は聞いた。

「うん。今日は、お休みなんだけど。これから、知り合いの元モデルの人が出ている舞台の稽古を見に行くの。ぜひ見にきてほしいって、誘われちゃって」

「そうなんだ。どんな舞台なの?」

「探偵、梅井今日子3っていう、ミステリーの舞台だよ」

「ふーん。探偵、梅井今日子か――うん? どこかで、聞いたことがあるような……」

 それも、数日前に聞いたような気がする。

「樋田哲雄さんが、出ている舞台ね」

 と、明日香さんが言った。

「あっ、事件の日に会った、あの人ですか――あれっ? でも、3じゃなくて、2なんじゃ」

「そうね。樋田さんは、2のTシャツを着ていたけど」

「明日菜ちゃん、3じゃなくて、2じゃないの?」

「3だよ。舞台のチラシを持ってるもん」

 と、明日菜ちゃんは、カバンから舞台のチラシを取り出した。

「本当だ。明日香さん、2じゃなくて、3ですよ」

 と、僕はチラシを見ながら言った。

「明宏君、私にも見せて」

 明日香さんは、僕からチラシを受け取ると、しばらく見ていたが、「ねえ、明日菜。私たちも、一緒に行ってもいいかしら?」

 と、明日菜ちゃんに聞いた。

「友達も連れてきてって言われていたから、たぶんいいと思うけど。本当は、友達と一緒に行く予定だったけど、急に仕事が入っちゃって、行けなくなったから。でも、お姉ちゃんって、舞台とか興味あったっけ?」

「うん、ちょっとね」

 いや、明日香さんが興味があるのは、舞台そのものではなく、樋田哲雄さんだろう。


 こうして、僕たちは明日菜ちゃんと一緒に、舞台の稽古を見に行くことになったのである。

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