第9話

 僕は電話を切ると、どうするべきかを考えた。

 約束したからには、僕一人で亜依ちゃんに会いに行くべきだろうか?

 それとも、明日香さんには亜依ちゃんから電話があったことを話して、二人で会いに行くべきか?

 しかし、僕が約束を破ったと分かれば、亜依ちゃんはどうするだろうか?

 しかし、明日香さんに黙って僕一人で行く場合、なんと言ってここから出て行こうか?

 うーん……。時間は、あまりない。早くしないと、明日香さんが事務所に戻ってきてしまう。


「明宏君、お待たせ」

 僕の考えがまとまらないうちに、明日香さんがミルクを持って戻ってきた。

「それじゃあ、アイスコーヒーを入れるわね」

 と、明日香さんが、再び冷蔵庫を開けた。

「あ、明日香さん」

「何?」

「えっと……」

 どうする?

「何よ。もしかして、ホットの方がよかった?」

「あ、いえ。明日香さん、ちょっとお願いがあるんですけど」

「なによ、急に?」

「今から、一時間くらい出てきてもいいですか?」

 僕は、やっぱり約束は守るべきだと、一人で行く決心をして言った。

「今から? どうして?」

 明日香さんは、不思議そうに僕を見つめている。

 ――か、かわいい。

 そんなに見つめられると、恥ずかしくなってくる――って、今は、それどころじゃなかった。

 僕は、普段から、仕事中に抜けさせてくれなんて言ったことがないから、明日香さんも不思議に思っているのだろう。

 僕は、数秒間で必死に考えた。この名探偵を欺く、素晴らしくて華麗な言い訳を。

「じ、実は……」

 このときの僕は、ほんの一瞬の間に、二つのパターンの言い訳を考えていたのだ。

 まず一つ目は、お腹が痛くて、病院に行かせてほしいという、よくあるベタな言い訳だ(ちなみに、あれは小学生の頃だったと思うけれど、学校を休みたくて母親に使ったときは、見事に失敗をしている。さすがは、母親だ)。

 しかし、これだと明日香さんが心配をして、『病院まで、送って行こうか?』と、言ってくれるかもしれない。

 言ってくれるかもしれないなんていうと、まるで言ってほしいみたいに思われるかもしれないけれど、残念だが今はそれどころではない。

 そしてもう一つは、僕の妹の明美あけみが、鳥取から急に東京に出て来たから、迎えに行かせてほしいという言い訳だ。

 しかし、これだと明日香さんが、『私も会いたいから、一緒に行くわ』と、言い出すかもしれない――っていうか、絶対に言いそうだ。

 どっちにしろ、明日香さんも一緒に来るかもしれないということだが――

 そこで、僕が出した答えは――

「あ、あの……、朝からお腹の調子が悪くて……。ちょっと……、病院に行ってきても……、いいですか?」

 と、僕は体調が悪そうなふりをして、お腹を押さえながら言った。

 結局、こちらの言い訳を選択した。

 こっちの方が、明日香さんが一緒に来る可能性が低いだろうという結論に至ったわけだが――

「朝から? 明宏君、そんなにトイレに行っていたかしら?」

 と、明日香さんは、不思議そうに言った。

 しまった!

 確かに、そうだ。お腹が痛くてたまらないのに、出勤してからトイレに行ったのは、3、4回だけだ。

 しかも、いずれもすぐに出ているから、明らかに大の方ではなく小の方だ。

 明日香さんは、僕の方をじっと見つめている。

 なんとか、ごまかさないと――

「あ、朝からというか……。午前中の、午後に近い時間で……、ついさっきからで……」

「ついさっきから? お昼に食べたものが、悪かったのかしら?」

 しまった!

 これでは、明日香さんが、さっきのお店に苦情を入れるかもしれない。そうなったら、大変だ。

 そんな嘘の申告をして、お店に損害をあたえたら、明日香さんの地位も名誉も傷付いてしまう。

 僕は、そんな想像をして、顔が青ざめ汗も出てきた。

「確かに、顔色が悪いわね。分かったわ、行ってきていいわよ」

 と、明日香さんは、僕の顔色を勘違いして言った。

「えっ? いいんですか? ありがとうございます。あの、お店に苦情の電話とか、かけないでくださいね」

「そんなこと、するわけないでしょ。何の証拠もないのに」

 よかった。僕は、少しホッとした。

「あら? 顔色が、少しよくなったんじゃない?」

「あ、行ってきます」

 僕は、慌てて探偵事務所を飛び出した。


 僕は探偵事務所を出ると、急いで駅の方に向かって走り出した。

 真夏の昼過ぎで、外は暑かった。

 僕は、汗をかきながら駅に到着した。僕は、駅の中を見渡した。

 亜依ちゃんは、いったいこの駅のどこにいるんだろうか? そこまでは、聞かなかったな。

 僕は、駅の中にある時計を見た。もうすぐ、約束の時間になってしまう。

 そのとき、僕の携帯電話にメールが届いた。

 亜依ちゃんからかもしれない。僕は、急いで携帯電話を取り出した。

 やはり、亜依ちゃんからのメールだった。

『あっくん、1番ホームで待っていて』

 メールには、たった一行それだけが書かれていた。

 僕は携帯電話をしまうと、急いで1番ホームに向かった。


 亜依ちゃん、どこだ?

 僕は、1番ホームにやって来た。人はそれなりに多いが、亜依ちゃんの姿はどこにも見当たらない。

 本当に、ここにいるのか? それとも、まだ来ていないのだろうか?

 そういえば、メールには、待っていてと書かれていた。ということは、亜依ちゃんもまだ来ていないのか。

 もしかして、これから到着する電車に乗って来るのかもしれない。

 僕は、時計を見た。後3分もすれば、次の電車が1番ホームにやって来るだろう。


 そのとき、再び携帯電話にメールが届いた。また、亜依ちゃんからだ。

『あっくん、向かい側のホームを見て』

 メールには、またもや一行それだけが書かれていた。

 向かい側のホーム? どういうことだ?

 僕は、向かい側のホームに目をやった。

 そこへ、電車が入ってきた。

 電車がゆっくりと止まると、ドアが開いた。

 そして――


 ドアが開くと、数人の人たちが電車から降りてきた。

 そして、最後に降りてきたのが――亜依ちゃんだった。

 亜依ちゃんは、帽子を深くかぶり、周囲を気にしているようなそぶりを見せた。

 しかし、どうして向かいのホームに? 亜依ちゃんが、ホームの番号を間違えたのだろうか?

 しかし、それが亜依ちゃんの間違いではなかったことを、僕はすぐに知ることになる。

「亜依ちゃん!」

 僕は、向かい側のホームに向かって、両手を大きく振った。数人が僕の方をチラッと見てきたが、僕は気にせずに、もう一度亜依ちゃんの名前を呼んだ。

「亜依ちゃん!」

 亜依ちゃんは僕に何かを言おうとしたが、何かを見付けたようにハッとすると、慌てて今降りてきた電車に、再び飛び乗った。

 えっ!?

 僕は、何がなんだか分からなかった。

 そして、ドアが閉まる瞬間、こっちを振り向いた亜依ちゃんの口元が、こう動いたような気がした。


『嘘つき』


 ドアが閉まると、電車は再びゆっくりと動き出した。そして、あっという間にホームから見えなくなった……。

 僕は慌てて携帯電話を取り出すと、亜依ちゃんに電話をかけたが、亜依ちゃんが電話に出ることはなかった……。


「亜依ちゃん、どうして……」

 僕は、亜依ちゃんが見ていた方に目をやった。

 そこにいたのは――明日香さんだった。

 どうして、明日香さんが? まさか、僕の後を尾行していたのだろうか?

「あ、明日香さん!? どうして、ここにいるんですか?」

「明宏君こそ、どうして、こんなところにいるのよ? お腹が痛くて、病院に行ったんじゃないの? わざわざ電車に乗らなくても、近くに内科の病院があるじゃない」

「そ、それは――」

「明宏君、お腹が痛くて病院に行きたいなんて、嘘なんでしょ? 清水さんに、会いに来たんでしょう?」

「…………」

「私を騙そうなんて、後100年早いわよ。明宏君、あなた明らかに、挙動不審だったわよ。あれで騙される人がいるとしたら、明日菜くらいのものよ」

「明日香さん、すみません。実は、明日香さんが事務所にいない間に、亜依ちゃんから、この駅に僕一人で来てほしいと連絡があって」

 と、僕は頭を下げた。

「そんなことだと思ったわ。まあ、いいわ。それに、私の方も謝らなきゃいけないわね。清水さんに見付かったのは、私が不注意だったわ。まさか、あっちから来るとは、私も想定外だったわ」

 と、明日香さんは、反対側のホームの方を見つめた。

 さすがに明日香さんも、亜依ちゃんからのメールの内容は分からないから、ホームで待っていると思ったのだろう。

「亜依ちゃんは、僕をわざと反対側のホームに来させたんでしょうか?」

「そうでしょうね。明宏君が、本当に一人で来るのかを、確かめるためでしょうね。そして、私の姿を見付けた。明宏君が、自分を騙したと思った清水さんは、再び電車に乗った――そんなところでしょうね」

「でも、どうして亜依ちゃんは、僕を呼び出したんでしょうか? 話があるのなら、電話で言ってくれたらよかったのに」

「危険をおかしてでも、明宏君に直接会いたい理由があったんでしょうね」

「危険――ですか?」

「ええ。明宏君を尾行している途中で、辻田さんから電話があったの。警察が、また清水さんを探しにやって来たってね」

「警察が、亜依ちゃんを探しに? どういうことですか?」

「鞘師警部に電話をして、確認してもらっているわ。連絡があると思うから、一度、探偵事務所に戻りましょう」

 僕たちは、急いで探偵事務所に戻ることにした。

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