第8話

「明宏君、一つ勘違いしないでほしいのは、あくまでも清水さんは、写真を持ち出したっていうだけよ。前にも言ったけど、山元さんを殺害したのは別人だと思うわ。あのときの清水さんの様子は、とても人を殺してきたような、感じではなかったわ。返り血も、まったく付着していなかったしね」

 と、明日香さんは、僕を励ますように優しく言った。

「はい、分かっています」

 と、僕は頷いた。

「さて、明日香ちゃん。この後は、どうする?」

 と、鞘師警部が聞いた。

「もう一度、現場の中が見たいですけど、無理ですよね?」

「そうだな。当然、鍵が掛かっているだろうし。甲斐田さんに頼んで開けてもらうという方法はあるが、管轄外の私が、そこまでやるのはな。甲斐田さんに見張りがついていなければ、できなくはないが」

 鞘師警部としては、他の署と揉め事は起こしたくはないだろう。

 甲斐田さんに見張りがついていれば、鞘師警部が、よその事件に首を突っ込んでいるのが分かってしまう。

「いえ、無理を言ってすみません」

「まあ、真田課長にも頼まれていることだし。ちょっと、待っていてくれ」

 と、鞘師警部は言うと、携帯電話を取り出して、どこかにメールを打ち始めた。

 鞘師警部がメールを送って数分後に、返信が届いた。

「明日香ちゃん、朗報だ。今から30分後には、現場に入れるぞ」

「ありがとうございます」

「鞘師警部、いったい誰にメールを送ったんですか?」

 と、僕は聞いた。

 まさか、甲斐田さんというわけはないだろうが――


 そして、30分後――


「初めまして。鞘師警部の後輩の、工藤くどうと申します」

 現場にやって来たのは、30代前半くらいの刑事だった。

「工藤は、私の大学時代の後輩でね。今は、荻野の部下だ」

 と、鞘師警部が、工藤刑事を紹介した。

「初めまして。私は、探偵の桜井明日香です」

「桜井の助手の、坂井明宏です」

「あなたが、桜井さんですか。鞘師先輩から、いろいろと、お話は聞いています。いろんな事件を解決している、優秀な探偵だと。いやぁ、鞘師先輩のおっしゃる通り、本当に綺麗な方ですね」

 と、工藤刑事は、エロい目で明日香さんを見つめている(※あくまでも、明宏の個人的な感想です)。

「鞘師警部、そんなことを言っているんですか?」

 と、明日香さんが、照れるように鞘師警部を見つめた(※あくまでも、明宏の――以下同文)。

 ここだけの話、僕は、鞘師警部は明日香さんのことを好きなんじゃないかと疑っている。そうでもなければ、鞘師警部のようなイケメンが、未だに独身のわけがないだろう(※あくまでも――以下同文)。

「あの……、桜井さんは、お付き合いされている男性は?」

 と、工藤刑事が聞いた。

「おいおい、工藤。今は、仕事中だぞ」

「す、すみません、鞘師先輩」

「それに、明日香ちゃんには――」

 と、鞘師警部が、チラッと僕の方を見た。

「なるほど、そうでしたか……」

 と、工藤刑事は、何故かがっかりしている。

「ちょっ、ちょっと、鞘師警部! そ、そんなんじゃないですからっ!」

 と、明日香さんは顔を赤くして、めちゃくちゃ動揺している。

 しかし今の僕には、工藤刑事のエロい目が気になって、三人の会話は全然頭に入ってこなかった。


「さあ、無駄話はこれくらいにして。工藤、鍵を開けてくれ」

 と、鞘師警部が言った。

「はい」

 工藤刑事はポケットから鍵を取り出すと、山元さんの部屋の鍵を開けた。

「どうぞ。中は、ほぼそのままになっています。一応、鑑識作業は一通り終わっていますが、指紋は付かないようにお願いします」

「分かりました」

 僕はポケットから白い手袋を取り出すと、両手にはめた。こういうときのために、白い手袋はいつも持っているのだ。明日香さんと鞘師警部は、工藤刑事に言われる前から、手袋をはめていた。

「工藤さん、荻野警部は、このことを知っているんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「まあ、そこは気にしないでください。いざとなったら、鞘師先輩に脅されたって言いますから」

 と、工藤刑事は、鞘師警部の方を見ながら笑った。

「私は誠心誠意、全力で否定するがな」

 と、鞘師警部が言った。

 僕たちは、山元さんの部屋に入った。


 確かに、部屋の中は、あの日とほぼ同じままのようだった。唯一違うのは、山元さんの遺体とブルーシートがないことだ。

「さすがに、暑いな」

 と、鞘師警部が言った。

 冷房を入れるわけにもいかないから仕方がないけど、確かに暑い。

「窓を、開けましょうか」

 と、僕は言った。

 僕は、障子を開けようとして、ふと思った。

「明日香さん、この障子って、もしかして新しく張り替えたばかりじゃないでしょうか?」

「そうね。あのときは、西川さんの部屋と比べて、明るい部屋だわくらいにしか思わなかったけれど――」

「二人とも、何か気付いたことがあるのか?」

 と、鞘師警部が聞いた。

「鞘師警部、この障子なんですけど、事件の直前に張り替えたばかりだったんじゃないでしょうか? それなら、ブルーシートがあったことの説明もつきます」

 と、明日香さんが言った。

「なるほど。山元さんはブルーシートを敷いて、障子の張り替えを行っていたというわけか」

 と、鞘師警部は頷いた。

「工藤さん、この部屋から、障子の張り替えを行っていた痕跡は、見付かっていませんか? 紙の切れ端とか、糊の跡とか」

 と、明日香さんが聞いた。

「ちょっと、待ってください。本部に、確認をしてみます」

 と、工藤刑事は、携帯電話を取り出した。

「工藤です。ちょっと、確認をしたいことがあるんですが――」


「お待たせしました。僅かですが、ブルーシートから糊が検出されているそうです。紙の切れ端などは、見付かっていません」

「ということは、山元さんはブルーシートの上で障子の張り替えを行っている途中で、殺害されたということですね」

 と、僕は言った。

「そうかしら? おそらく、張り替えが終わった後に、殺害されたんじゃないかしら? パッと見た感じ、綺麗に張り替えられているから。まさか犯人が、殺害した後に張り替えたっていうことはないでしょうから」

 と、明日香さんが言った。

「しかし、そう考えるとおかしいな。障子の紙は、ちょうど使いきったんだろうか? いくらか、残っていてもよさそうなものだが。それに、使っていた糊やハケは、いったいどこにいったんだ? 消えて無くなるわけはないが」

 と、鞘師警部が言った。

「きっと、犯人が持ち出したんでしょうね。甲斐田さんが床に血痕が付かないようにブルーシートを敷いて、山元さんを殺害したんだと思わせるために」

 と、明日香さんが言った。


 僕たちは、山元さんの部屋から出てきた。

 結局、他に証拠になりそうなものは、何も見付からなかった。

「鞘師先輩、すみませんが、これで失礼します。さすがに、そろそろ戻らないとまずいんで。ブルーシートの謎が解けた件は、捜査本部に報告しておきますので」

 と、工藤刑事が言った。

「ああ、工藤ありがとう助かったよ。一応、荻野にも、よろしく言っておいてくれ」

「工藤さん、ありがとうございました」

 と、明日香さんが頭を下げた。

「また、必要なことがあれば、いつでも声を掛けてください。それでは、これで失礼します」

 工藤刑事は、帰っていった。


「さて、明日香ちゃん。この後はどうする?」

 と、鞘師警部が聞いた。

「そうですね。アパートの住人に、話を聞いてみましょうか」


 数分後――


「全員、留守でしたね」

 と、僕は言った。

 平日の午前中だし、仕方がないか。西川さんも、事件の日に見掛けた樋田哲雄さんも、留守だった。

「仕方がないわね。一度、事務所に戻りましょうか」

 と、明日香さんが言った。


 僕たちは帰る途中で、軽く早めの昼食を済ませてから(もちろん、鞘師警部のおごりだ)、探偵事務所に帰ってきた。


「明日香ちゃん、申し訳ないが、私はこれで帰らせてもらうよ」

 と、鞘師警部が言った。

「分かりました。鞘師警部、今日はありがとうございました。真田さんにも、よろしくお伝えください」

「ああ、もし何か分かったら、連絡をするよ。それじゃあ」

 鞘師警部は、帰っていった。


 僕たちは、探偵事務所の中に入った。

「冷房を、入れますね」

 僕は、エアコンのリモコンの電源ボタンを押した。さっきまで、冷房のきいた鞘師警部の車の中にいたから、探偵事務所の中は暑くてたまらない。

「アイスコーヒーでも、入れるわ」

 と、明日香さんが、冷蔵庫を開けた。

 本当なら、そういうことは、助手である僕がやるべきなんじゃないかと思うんだけど、明日香さんが入れてくれることが多い(もちろん、僕が入れることもあるけど)。

「あら、ミルクがないわね」

「なくても、いいですよ」

「私が、欲しいのよ。ちょっと待ってて、部屋から取ってくるわ」

 明日香さんはそう言うと、探偵事務所から出ていった。

 そして、探偵事務所の中には、僕が一人残された。部屋の中には、エアコンの音だけが聞こえていた。

 そんなとき、僕の携帯電話が鳴り響いた。まるで、僕が一人になるのを見計らってかけてきたんじゃないのかと、思うようなタイミングだった。

 誰からだろう? 明日香さんのわけは、ないだろうし。

 明日菜ちゃんかな? 基本的には、それくらいしかかかってこないけど。

 僕は、ポケットから携帯電話を取り出した。

 うん?

 非通知か――

 まさか……。

 僕は、急いで電話に出た。


「もしもし」

「…………」

 相手は、無言だった。

「もしもし――亜依ちゃんだよね?」

「…………」

「亜依ちゃんでしょ?」

「――あっくん」

 電話の向こうから、亜依ちゃんのか細い声が聞こえてきた。

「亜依ちゃん、今どこにいるの? みんな、心配しているよ」

「あっくん、今、一人?」

「うん、一人だよ」

「私から、電話があったって、誰にも言わないでくれる?」

「うん、分かった」

 こう言わないと、電話を切られてしまいそうだ。

 しかし、明日香さんには、話さないわけには――

「亜依ちゃん、今どこにいるの?」

 と、僕は再び聞いた。

「詳しくは言えないけど、知り合いのところにいるの」

「亜依ちゃん、どうして隠れているの?」

「それは――きっと警察は、私を疑っているわ。私が、あの人を殺したって」

「そんなことないよ。亜依ちゃんが人を殺すなんて、誰も思っていないよ。亜依ちゃんは、自分の写真を持ち出しただけでしょう?」

「――どうして、私の写真のことを?」

「それは、明日香さんの推理で、そうなんじゃないかって」

「そう……。確かに、頭が良さそうな人だったわね」

「亜依ちゃん、このまま隠れていても、いいことはないよ。とにかく、一度会えないかな?」

「――あっくん。誰にも内緒で、一人で来てくれる?」

「分かった、一人で行くよ、約束する」

「それじゃあ、30分後に――」

 亜依ちゃんが指定してきたのは、探偵事務所の最寄りの駅だった。亜依ちゃんは、おそらく探偵事務所の住所を調べたのだろう。

「分かった。必ず、一人で行くから」

 僕は、電話を切った。

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