第4話

 翌日――


 結局、昨日の夜は明日香さんから電話はかかってこなかった。

 昨夜は、亜依ちゃんのことが気になって、遅くまで眠ることができずに寝不足だ。何度か、亜依ちゃんに電話をかけてみたが、繋がらなかった。

「明日香さん、おはようございます」

 僕は、いつものように、午前8時前に探偵事務所に出勤してきた。

 本当は、少し早めに来ようかと思っていたのだが、なかなか起きることができなかった。それでも、なんとか遅刻はせずに、やって来た。

「明宏さん、おはよう」

「あれ? 明日菜ちゃん、こんなに早い時間からどうしたの?」

 探偵事務所にいたのは明日香さんではなく、明日香さんの妹の明日菜ちゃんだった。

「ちょっとした事情で、昨日はお姉ちゃんの部屋に泊まったんだ。お姉ちゃんなら、さっき部屋に戻ったよ」

「そう」

 明日菜ちゃんは、別のマンション(明日香さんのところよりも、遥かに高級)に一人で住んでいる。

 明日菜ちゃんは21歳で、アスナというカタカナの芸名でモデルをやっている。

 最近では、テレビのバラエティー番組などでも大人気だ。初めて出たテレビのクイズ番組での、おバカな回答連発により、アスナちゃんって面白くてかわいいと大人気になった。

 明日菜ちゃんは、身長が僕よりも5センチも高い174センチもある――うらやましい。

 そんな明日菜ちゃんは、姉の明日香さんのことを尊敬していて、探偵事務所にも、よくやって来る。

 明日香さんは、テレビでの、おバカな発言を繰り返す明日菜ちゃんを、恥ずかしいと言っているけど、誰よりも明日菜ちゃんのことを応援しているのだ。

「お姉ちゃんが言っていたんだけど、明宏さんの元カノが事件に関係しているんだって?」

 と、明日菜ちゃんが、いきなりとんでもないことを言い出した。

「も、元カノ!? 明日香さんが、そんなことを?」

 いったい、明日香さんは何を言っているんだ?

「違うの?」

「違うよ!」

 と、僕は全力で首を横に振った。

「なんだ、つまんないの」

「亜依ちゃんは、ただの高校時代の同級生だよ」

 ああ、首を振りすぎて、頭がくらくらしてきた。

「まあ、お姉ちゃんが、元カノだって言ったわけじゃないけどね」

「えっ? どういうこと?」

「ただ、お姉ちゃんの話を聞いていたら、元カノが現れて、嫉妬を――」

 と、明日菜ちゃんが言い掛けた瞬間、急に探偵事務所のドアが開いて、明日香さんが入ってきた。

「明宏君、おはよう!」

 と、いつもよりも、明らかに大きな声で明日香さんが言った。

「あ、明日香さん、おはようございます」

「明日菜、余計なことは言わなくていいの」

 と、明日香さんは、明日菜ちゃんを睨み付けている。

「お姉ちゃん、そんな怖い顔をしないでよ、明宏さんに嫌われるよ」

「いや、僕は、別に――」

 僕が、明日香さんを嫌うなんていうことは、絶対にあるわけがない。

「それよりも明日菜ちゃん、さっきなんて言ったの? 元カノが現れて、なんとかって」

 と、僕は聞いた。

「えっとね――」

「明日菜! あなた、仕事があるんでしょう? 早く、行きなさいよ」

 と、明日香さんが、僕たちの間に割って入った。

「そんな、自分で呼びつけたくせに――分かったわ。それじゃあ、いったんマンションに帰るわ。明宏さん、またね」

「う、うん」

「それじゃあ、お姉ちゃん。お仕事、がんばってね」

 明日菜ちゃんは、帰っていった。

 しかし、明日香さんが嫉妬をしているって、聞こえたような気がしたけど、そんなわけないか。明日香さんが、嫉妬をする理由なんてないからな。

 明日菜ちゃんは、いったいなんて言ったんだろう? また今度、聞いてみようか。


「明日香さん、鞘師警部から電話はありましたか?」

「なかったわ。あったら、明宏君に連絡をするって言ったでしょう」

「そうでしたね」

 明日香さんから連絡がなかったということは、鞘師警部からの電話はなかったということだ。

「そうそう、鞘師警部からの電話はなかったけど、荻野警部から電話があったわ」

「荻野警部から?」

「ええ、西川さんのアリバイを聞かれたわ」

「西川さんが、疑われているんですか?」

「アパートの住人全員に、聞いているんでしょう。荻野警部の口振りからすると、山元さんが亡くなったのは、私たちが西川さんの部屋にいたときのようね」

「そうだったんですね」

 なんてことだ、僕たちのすぐそばで殺人事件が起きていたのに、気が付かなかったなんて……。


 その後、鞘師警部からの連絡もなく、時刻は午後7時を過ぎていた。他にやることもないので、帰ってもいいのだけど、帰る気にはなれなかった。

 もう一度、亜依ちゃんに電話をかけてみたが、やはり繋がらなかった。

 いったい、どうしたんだろうか?

「そういえば、明日菜ちゃん、昨日は泊まっていったんですね」

「ええ、そうよ」

「珍しいですね」

 明日菜ちゃんが探偵事務所に来ることは、別に珍しくもないけれど、泊まっていくのは珍しい。

「別に、いいでしょう」

「そういえば、明日香さんが明日菜ちゃんを呼んだんですか?」

「ど、どうして、私が明日菜を呼ぶのよ。明日菜が、勝手に来たのよ」

 明日香さんは、何故か動揺しているように見える。

「えっ? でも、さっき明日菜ちゃんが、自分で呼びつけてって――」

「明日菜の、勘違いよ。もう、そんなことは、どうでもいいでしょう!」

「は、はい」

 やっぱり、昨日、亜依ちゃんに会ってから、明日香さんの様子がおかしい――

 そんなとき、探偵事務所のドアが開いた。


「やあ、騒がしいな」

「あっ、鞘師警部こんばんは」

 探偵事務所にやって来たのは、鞘師警部だった。

「明宏君も、まだいたんだな。遅くなって、申し訳ない。電話で済ませようとも思ったんだが、近くでちょっと用事があったんでね。せっかくだから、直接訪ねることにしたよ」

「鞘師警部、何か分かりましたか」

 と、明日香さんが聞いた。

「ああ、ある程度のことならな。まずは、明宏君が気になっているであろう、清水亜依さんのことだが。警察署の方で話を聞いて、一応は帰されたようだ」

「一応というのは?」

 と、僕は聞いた。

「彼女の話に、少し矛盾するようなところがあったようでね。清水さんの話では、山元さんの部屋に入ってすぐに、山元さんが死んでいるのが見えたのでパニックになって、下駄箱の上に自分のバッグが置いてあったので、それを持って慌てて部屋から出たそうだ。しかし、玄関のところからでは、山元さんが死んでいるのか分からないんじゃないかってね」

「それは、私も思いました」

 と、明日香さんが言った。

「どうやら、本当は部屋に上がったらしい。だけど、自分が疑われるかもしれないと思って、そう言ってしまったようだな。まあ、その気持ちは分かるよ。しかし、彼女には返り血も付着していなかったし、バッグの中も調べて、凶器になるようなものも持っていなかったようで、帰されたようだ。もちろん、バッグは一応証拠品として、警察署の方で預かっているそうだ」

「鞘師警部、清水さんのバッグの中には、何が入っていたんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「何も、入っていなかったそうだ」

「何も? 空っぽだったんですか?」

「ああ、そう聞いている」

「荻野警部に、聞いたんですか?」

「いや、荻野は私には教えてくれないからね。荻野の部下に、私の後輩がいてね。そこからの情報だよ」

「そうですか……。でも、それって妙じゃないでしょうか? 明宏君、清水さんは、バッグを旅行に持っていっていたのよね?」

「はい。確か、そう言っていましたけど」

「旅行に持っていっていて、中身が空っぽなんていうことが、あるのかしら?」

「確かに、明日香ちゃんの言う通りだな」

「鞘師警部、その旅行でバッグを忘れたという件に関しては、何か聞いていないんでしょうか?」

「それについては、私は何も聞いていないが。後で、後輩に聞いておこう」

「よろしく、お願いします」


「そして、肝心の山元さんを殺害した犯人なんだが、まずは死亡推定時刻は、午後1時15分から、君たちが遺体を発見する2時までの間だ」

「1時15分って、そんな細かく分かるんですか?」

 と、僕は聞いた。

「ああ、その時間に宅配業者が、荷物を配達しているんだ。そのとき、山元さん本人が、荷物を受け取っている」

 下駄箱の上にあった、あれのことか。

「捜査本部の方では、アパートの大家が有力な容疑者だと考えているようだな。動機としては、不倫を写真に撮られて、脅されていたとみているようだな」

「えっ? 甲斐田さんがですか?」

「明宏君、大家を知っているのかい?」

「はい。山元さんの遺体を発見する直前に、会いました」

 僕は、西川さんの部屋で会ったことや、その後、部屋の外で話し掛けられたことを話した。

「鞘師警部、捜査本部が甲斐田さんを有力な容疑者だと考えているのは、もしかしてブルーシートの上に、山元さんの遺体があったからでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「さすがに明日香ちゃんだ、察しがいいな。もちろん、それだけではないが」

「どういう意味ですか? ブルーシートが、何か?」

 と、僕は聞いた。

「まあ、単純なことだよ明宏君。床が血で汚れないように、ブルーシートの上で刺した――ということらしいな。床に血痕が付着しては、次の住人に貸すさいに、掃除などが面倒だからね」

「それじゃあ、甲斐田さんがブルーシートを敷いて、その上に山元さんを誘導して、そこで刺したっていうことですか?」

 僕は、その場面を想像してみた。

 しかし、山元さんが素直に、ブルーシートの上に乗るだろうか? そもそも、ブルーシートをどういう理由で敷かせてくれるのだろうか?

「捜査本部では、山元さんを一度気絶させてから、ブルーシートを敷いたと考えているようだ」

「でも鞘師警部、甲斐田さんが犯人だったら、写真をそのままにしていくでしょうか?」

 と、明日香さんが言った。

「そこはまだ、捜査本部でも答が出ていないようだ」

「甲斐田さん本人は、なんと言っているんですか?」

 と、僕は聞いた。

「それが、行方が分からないらしい」

「分からない?」

「ああ、自宅にはいなかったようだ。近所の人の話では、午後1時30分頃に車に荷物をたくさん積んで、出るところを目撃されている。明日香ちゃんたちがいた、アパートに向かったんだろう」

「荷物をたくさんですか? そういえば、遠出をするって言っていましたね」

「捜査本部では、山元さんを殺害した後、逃亡したと考えているようだ」

「明日香さん、あのときの甲斐田さんですけど、とても人を殺害した直後とは思えなかったんですけど」

「そうね。人を殺害した直後に、わざわざ家賃の催促にやって来て、私たちが部屋から出てくるのを待って、おしゃべりしていくっていうのも考えにくいわね。本当に殺害したのなら、一刻も早く逃亡するんじゃないかしら。鞘師警部、甲斐田さんのご家族は?」

 と、明日香さんが聞いた。

「それなんだが。甲斐田さんは、奥さんとは数年前から別居中らしい。子供は、娘が一人いるようだが、沖縄の方に嫁いでいて、甲斐田さんは一人暮らしのようだ」

「別居中ですか。別居中なら、不倫の写真を撮られたくらいで殺しますかね?」

 と、僕は言った。

「しかし、明宏君。甲斐田さんにも、他に怪しい点があるんだ」

「怪しい点?」

「あのアパートには防犯カメラがないから、コンビニの防犯カメラを調べて分かったようなんだが。午後1時46分に、コンビニの前を甲斐田さんの車が通っているんだ。その時間にアパートに到着していたのなら、西川さんの部屋に行くまでの間に、約10分の空白の時間があるんだ」

「他の部屋にも、行っていたんじゃないですか?」

「いや、平日の昼間だ。あの時間帯に部屋にいたのは、山元さんと西川さん、それに樋田さんという俳優の三人だけだったようだ。他の部屋の住人は、会社や学校に行っていたようだ。アリバイの確認も取れている。西川さんのアリバイは、君たちが証人になってくれるだろう。後は、樋田さんなんだが、彼のところには午前中に訪ねて来たが、その後は来ていないそうだ。犯行の時間帯は、台本を読んだ後、洗濯をして、それから舞台の稽古に行ったそうだ」

「そういえば、洗濯機の音が聞こえていましたね」

 と、僕は頷いた。

「しかし、その間ずっと自分の部屋にいたという証拠はないがな」

「僕たち、亜依ちゃんに会う直前に、樋田さんにも会ったんですけど、舞台のTシャツを着て、リュックを背負って出掛けて行きましたよ」

「その後、午後3時から舞台の稽古があって、深夜に帰宅したようだ。捜査本部としては、甲斐田さんを第一の容疑者として行方を追うとともに、他の写真に写っていた人物も調べているようだ」


「鞘師警部、そもそも山元さんとは、どういう人物なんでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「山元陽子さんは42歳の独身女性で、あのアパートで一人暮らしだ。君たちも気付いていると思うが、複数の人物を脅して、金を稼いでいたようだな。今、話せるのは、これくらいだな」

「充分です。でも、鞘師警部の後輩の方も、よくそんなに話してくれましたね。荻野警部に、怒られませんか?」

「ああ、荻野も、そこは分かっていて、知らないふりをしているのさ」

「知らないふりですか? どうしてですか?」

 と、僕は聞いた。

「さあ、それは分からないな」

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