第2話

 明日香さんは躊躇せずに、ドアを開けて102号室の中に入っていった。

 僕は、郵便受けのところに書かれた、『山元やまもと』という名字を確認した。

「亜依ちゃんは、ここで待っていて。絶対に、動かないでね」

 と、僕が言うと、亜依ちゃんは小さく頷いた。

 僕も、ドアを開けて部屋の中に入った。


 玄関のところからは、倒れている人の足だけが見える。

 下駄箱の上には、小さな小包が置いたままになっている。宛名の文字を見ると、山元さんの名前は、陽子ようこという名前のようだ。

 102号室は、西川さんの部屋とは違って、タバコの臭いはしなかった――しかし、何か違う臭いがするような……。

 そして、障子も、とても真っ白で汚れていないからだろうか、西川さんの部屋よりも明るく感じる。

 部屋に上がって遺体を見た僕は、妙なことに気が付いた。遺体は何故か、ブルーシートの上に倒れていた。

 40代くらいの、女性だろうか? 遺体は、胸から血を流して倒れていた。血は、ブルーシートの上に流れていて、畳には付いていないようだ。

「刃物で刺されたみたいだけど、目に付く範囲には凶器は見当たらないわね」

 と、明日香さんは言いながら、押し入れの中を見ている。

「どうして、ブルーシートの上に倒れているんですかね?」

「そんなこと、知らないわよ」

 と、明日香さんは冷たく言った。

「明日香さん、何をしているんですか?」

「写真を見ているのよ」

 と、明日香さんは、当然のように言った。

「写真ですか?」

 いったい、何の写真を?

 まさか、明日香さんが遺体の写真を撮ったのかと思ったが、そうではなかった。

「その前に明宏君、警察に通報して」

「まだ、通報していないんですか?」

「ちょっと、写真が目に入ったからね。もちろん、触っていないわよ。散らばっているのを見ているだけよ」

 と、明日香さんは、またも当然のように言った。


 僕は携帯電話を取り出すと、110番にかけようと思ったが、思い直して鞘師さやし警部に電話をかけた。

 後で、『どうしてすぐに、110番をしなかったのか』と、警察に聞かれるようなことになると面倒なので、鞘師警部に連絡をすれば、鞘師警部がうまくやってくれるだろう。

 鞘師警部とは、警視庁の警部で、35歳の独身イケメン警部だ。

 僕と違って、身長が185センチもある。

 鞘師警部は、明日香さんの父親の大学時代の後輩の息子で、僕たちの調査にも協力してくれる、優しい警部だ。

「もしもし、明宏君どうした?」

「鞘師警部、実は仕事で来ていたアパートの1階で、刺殺された遺体を見付けたんです」

「刺殺? そうか、分かった」

「アパートの、場所は――」

「君たちは、誰も入らないように見ていてくれ。それと、明日香ちゃんには、現場検証はほどほどにと、一応言っておいてくれ」

「分かりました」

 僕は、電話を切った。

 さすがに鞘師警部も、明日香さんの性格を分かっている。


「明日香さん、鞘師警部に連絡しました。それで、何の写真ですか?」

 僕は、押し入れの前に散らばった写真を見た。写真と一緒に、白い封筒も散らばっている。

「何ですか、これ?」

 その写真は、男女がラブホテルから出てくる写真だった。

「不倫の、証拠写真かしら? こっちのは、薬物か何かの取り引きの瞬間かしら」

 と、明日香さんは言った。

「いったい、どうしてこんな写真が?」

「どうやら、一人ずつ封筒に入れてあったようね。この写真を元に、お金でもゆすっていたのかしら?」

「この女性がですか?」

 と、言いながら、僕は遺体の方を見た。

 一見、普通の主婦のような女性が、ゆすりを?

「明宏君、これを見て」

「なんですか?」

 僕は、明日香さんが指差す、写真を見た。

「誰ですか?」

 その写真は、50代半ばくらいの男性が、20代くらいの綺麗な女性とキスをしている写真だった。不倫の写真だろうか?

「その男性に、見覚えがない?」

「見覚えですか?」

 僕は、もう一度その写真を、よく見てみた。

 ――言われてみれば、見たことがあるような……。

 しかも、ついさっき見たような気がする。

「あっ! これって、さっきの大家さんですか? 甲斐田さんって、呼ばれていましたっけ」

 しかし、あの大家さんが、こんな若くて綺麗な女性とね――

「自分のアパートの大家を、ゆすっていたのかしら? この写真を撮った、カメラはどこかしら?」

 と、明日香さんは、押し入れの中を見ている。

「明日香さん、鞘師警部が現場検証はほどほどにと」

「分かっているわよ――それよりも、誰なのよ」

「えっ? 何がですか?」

「その、あ――」

 と、明日香さんが言い掛けたとき、「あっくん――」と、呼ぶ声が聞こえた。

 そういえば、亜依ちゃんを外に待たせたままだ。

「明日香さん、もう出ましょうか」

「――そうね。後は、警察の仕事ね」


「亜依ちゃん、ごめん。すっかり、忘れてた」

 と、僕は言った。

「ううん。昔から、あっくんって、そういうところがあるよね」

 と、亜依ちゃんは微笑んだ。

「亜依ちゃんに、明日香さんから、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「清水さんでしたっけ? 山元さんとは、どういう関係でしょうか? それと、今日は何をしにこちらへ?」

 と、明日香さんが聞いた。

「――えっと、個人的に知っているわけではないんですけど。実は、このバッグを駅に忘れてしまって、山元さんが拾ってくださって、中に社員証が入れてあったので、会社経由で連絡があって取りに来たんです」

「そうなんですね」

 と、明日香さんは頷いた。

「でも、珍しいですね。駅で拾われたのなら、駅員さんにでも届けそうなものですけど」

 と、明日香さんが言った。

「あっ、都内じゃなくて、地方の無人駅なんですよ。たまたま同時期に、私も山元さんも旅行に行っていたみたいで」

「地方って、どこでしょうか?」

「なんか、警察みたいですね。そんなことまで、聞くんですか?」

 と、亜依ちゃんが言った。

「ごめんね亜依ちゃん。気を悪くしないでね。明日香さんの、職業病みたいなものだから」

 と、僕は言った。

「明宏君、余計なことは言わなくてもいいわよ」

「それで、ここに来たら、山元さんが殺されていたんですね?」

 と、明日香さんが聞いた。

「はい。チャイムを鳴らしても、返事がなくて。それで、ドアが開いたので入ってみたら……」

「山元さんが、殺されていたんだ」

 と、僕は言った。

「うん」

 と、亜依ちゃんは頷いた。

「清水さん、そのバッグはどこにあったんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「下駄箱の上にあったので、部屋には上がらずに、すぐに取って慌てて出てきたんです」

「それじゃあ清水さん、あなたはバッグを殺人現場から、勝手に持ってきたんですね?」

「えっ? 勝手にって――これ、私のですよ」

 と、亜依ちゃんが不思議そうに言った。

「明日香さん、そんな言い方をしなくても――亜依ちゃん、自分のっていうのは分かるけど。後で警察にも聞かれると思うけど、そのバッグも調べられるかもしれないよ。殺人現場に、あったものだから」

「――そう」

 亜依ちゃんは、不満があるみたいだ。

「ねえ、あっくん。私、トイレに行きたくなっちゃった」

 えっ? 急に?

 まあ、仕方がないか。

「殺人現場のを使うわけにはいかないし、上の西川さんのところで借りようか」

 あんな臭い部屋に亜依ちゃんを入れたくないけど、仕方がない。

「そこのコンビニで、借りればいいじゃない」

 と、明日香さんが言った。

「ああ、そうですね。亜依ちゃん、行こうか」

「明宏君、あなた女性がトイレに行くのに、ついて行くつもり? そういう趣味があるわけ?」

「い、いえ――そういう意味では……」

 なんか、さっきから明日香さんの機嫌が悪いみたいだ。よっぽど、西川さんの部屋の臭いが嫌だったのだろうか?

「あっくん、ありがとう大丈夫よ。私、一人で行ってくるから」

 亜依ちゃんはそう言うと、コンビニの方に歩いていった。


「明宏君――」

「なんですか? 明日香さん」

「清水さんとは――やっぱり、いいわ」

 明日香さんが何か言っているが、声が小さくてよく聞こえない。

「なんですか?」

「――清水さんとは、どういう関係なの?」

 と、今度は、はっきりと聞こえる声で言った。

「亜依ちゃんとですか? 高校の同級生ですよ」

「ふーん……。ただの同級生が、抱き付いたりするんだ」

「いや、それは――怖い思いをしたところに、たまたま知り合いの僕がいたから、思わず抱き付いてしまっただけだと思います」

「そう。私はてっきり、彼女か何かかと思ったわ」

「そ、そんな彼女だなんて――」

 僕は、明日香さん一筋だ。

「だいたい、高校を卒業してから、2回しか会ってませんし。地元での成人式と、去年の同窓会で会っただけですから。それ以来、会っていないですし、連絡先も知らな――」

 あっ、同窓会で、連絡先の交換はしたのか。

 僕の携帯電話には、亜依ちゃんの電話番号が入っている。亜依ちゃんの携帯電話にも、僕の電話番号が入っている。かけたことも、かかってきたこともないけど。

 そういえば、他の東京に出てきている同級生数人とも、連絡先を交換したな。他の同級生にも、かけていないけど。

「そう。連絡先は、知っているんだ」

「いや、それは知っていましたけど――」

 本当に、今日の明日香さんは変だ。

 コンビニの方を見たけど、亜依ちゃんはまだ出てこない。

 そんなとき、僕の携帯電話が鳴った。

「明日香さん、ちょっとすみません」

 僕は、携帯電話を取り出した。非通知か、誰だろう?

 僕は、元々非通知の電話には出なかったのだが、この仕事をするようになってからは、出るようにしていた。もしかしたら、自分の電話番号を知られたくない、仕事関係の電話がかかってくるかもしれないからだ。

 まあ、明日香さんではなく、僕にかかってくることなんて、ほとんどないのだけど。

「もしもし」

「…………」

「もしもし?」

「…………」

「もしもし? どなたですか?」

「明宏君、どうしたの?」

「それが、無言電話みたいで――」

「無言電話?」

「はい」

「番号は?」

「非通知です――あっ、切れた」

 なんだったんだ?

「間違い電話なんじゃない?」

 と、明日香さんが言った。

「多分、そうですね」

「清水さん、戻ってきたわよ」

 コンビニの方を振り返ると、亜依ちゃんが歩いてくるのが見えた。

 そして、亜依ちゃんの後ろに、数台のパトカーが見えた。

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