第1話
「それでは、以上で調査報告を終了させていただきます」
と、
「分かりました。どうも、ありがとうございました」
と、
「それでは、料金の方ですが――」
と、僕が言ったのが、もうかれこれ30分くらい前のことだ。
僕たちがここに来たのが、月曜日の午後1時ちょうどだった。現在は、午後1時55分だ。
僕たちは、依頼人である西川さん(50代男性)のアパートに、調査報告にやって来ていた。本当は西川さんの方が、探偵事務所に来る予定だったのだが、急用で来られないということで、僕たちの方が西川さんのアパートにやって来ていた。
そして、調査報告の後、料金をもらって早く帰ろうと思っていたのだが、そこから西川さんの世間話――いや、愚痴が止まらないのである。
西川さんが入れてくれたアイスコーヒーも、すっかり氷が溶けてぬるくなっていた。
氷が溶ける前に、飲んでしまえばよかった。今更そう思っても、もう後の祭りだが――
自己紹介が遅れたが、僕の名前は、
僕と一緒にいるかわいい女性が、
僕は、明日香さんに雇われている。
僕が明日香さんの探偵事務所で働くことになった理由は、今から2年くらい前に、僕がとある事件に巻き込まれて、明日香さんに助けてもらったことがきっかけだ。
どうして、それで働くことになったのかって? それは、僕にもよく分からないのだが……。
僕は、明日香さんに惚れていたこともあって、明日香さんの『助手にならない?』の一言に、犬よりも早く飛び付いたのだ。
明日香さんは、とてもかわいい女性で、探偵としての腕も一流だ(明日香さん以外の探偵を知らないけど)。
僕は明日香さんと付き合いたいのだが、明日香さんには、その気はないらしい。
明日香さんの年齢は、25歳の僕よりは少し上だと思うけれど、何故か教えてくれないのだ。30代前半の兄と、21歳の妹がいるので、その間(20代後半くらいかな?)なのは間違いない。
明日香さんの妹のモデルの
それと、明日香さんの身長だが、明日香さんは、『168センチくらい』と、言っているが、どう見ても169センチの僕よりも、少し高いのだ。明日菜ちゃんが174センチだけど、それよりは少し低い。
年齢のことも身長のことも、どうして教えてくれないのか謎である。
先ほども言ったように、今日は8月の暑い中、仕事でここまで来ている。そして、どうして早く帰ろうと思っていたのかだけど。
別に、このおんぼろアパート――いや、ちょっと古いアパート(20分くらい前には、真下の部屋から洗濯機の音が聞こえていた。それくらい壁――というか床が薄いのか? 西川さんの話では、真下に住んでいるのは、あまり有名ではないが俳優だそうだ)が、暑くて我慢できないわけではない。ちゃんと、冷房がきいている。
僕たちが早く帰りたい理由は、別にあった。
それは、臭いである。
臭いの正体は、西川さんがオナラをしたというわけではなく――タバコの臭いである。
西川さんの部屋に入った瞬間から、僕は明日香さんと顔を見合わせた。明日香さんも、臭いを嫌がっているのは明白だ。
しかし、だからといって帰るわけにはいかない。ちゃんと仕事をして、料金をもらって帰らなくては。
仕方なく、部屋に上がって中を見渡すと、襖や障子なども汚れが酷い。タバコが原因なのは、明白だ。
なんか、部屋の中も暗く感じる。
テーブルの上に置かれた灰皿も、タバコの灰と吸殻で溢れそうだ。僕たちと話しているときも、数本吸っていた。
まあ、そういうわけで早くこの部屋から出たいのである。
「ちょっと、明宏君」
と、明日香さんが、僕にそっと耳打ちしてきた。
「な、何ですか?」
僕は、突然明日香さんに急接近されたため、ドキドキしてきた。
ま、まさか、こんなタイミングで愛の告白とか?
「西川さんの話。なんとかしてよ」
違った……。当たり前か。こんなタイミングじゃなくても、明日香さんが愛の告白などしてくるはずがなかった。
明日香さんには、僕なんか眼中にないみたいだし。
「な、なんとかしてよと言われても……」
僕の方こそ、明日香さんに助けを求めたい。
しかし、探偵の明日香さんでも、西川さんの愚痴を終わらせる術は心得ていないようだ。
仕方がない――
ここはわざとらしいかもしれないが、『あーっ! 忘れていた。この後、他にも調査報告に行かないといけなかったんだ!』と、叫んでみるか。
ここへ来たときに、西川さんに、『わざわざ来ていただいて、ありがとうございます』と、言われ、僕が、『いえいえ。どうせ、僕たち暇ですから』と、笑ってこたえ、明日香さんに睨まれるというようなことが、あったような気もするが。
よし、言うか!
「あーっ!」
と、僕が叫んだ瞬間、いきなりドアが開く音がした。
まさか、僕の声に反応してドアが開いたのか?
いつから、僕にこんな特殊な能力が備わったのか――と、思ったが、一人の男性が部屋に上がり込んできて、顔を覗かせた。
なんだ、特殊能力じゃなかったのか……。まあ、こんな能力があっても、あまり役に立つとは思わないけど。
「いたいた、西川さん。困るよ、家賃をちゃんと振り込んでくれないと。
と、男性は言った。
どうやら、このアパートの大家さんのようだ。
年齢は、50代半ばくらいだろうか? 身長は僕と同じくらいで、ちょっと太っている。
「
と、西川さんが言った。
「どうせいないかと思ってノブを回したら、ドアが開いたんだよ。あなた、いつも電話にも出ないし。午前中も一度来たけど、留守だったし――おや? お客さんかい?」
と、甲斐田さんは、僕たちに気付いて言った。
「ええ、まあ」
「あ、大丈夫ですよ。私たち、帰るところでしたから」
と、明日香さんは、今がチャンスだと颯爽と立ち上がった。
「いえ、私もそれを言いに来ただけだから」
と、甲斐田さんは、明日香さんを制した。
「分かりましたよ。明日中には、振り込みますから」
と、西川さんは渋々言った。
「絶対だよ。これ以上遅れたら、出ていってもらうからね」
と、甲斐田さんは言うと、ドアを閉めて帰っていった。
「さあ、明宏君。私たちも、失礼しましょう」
「は、はい」
「それでは西川さん、失礼します。また何かありましたら、いつでもご依頼お待ちしています」
「えっ? いや、まだ話の――分かりました。ありがとうございました」
僕たちは、西川さんの臭い――いや、狭い部屋から出てきた。
「ふーっ」
と、僕は一息ついた。新鮮な空気が、こんなに美味しいとは。階段のところには、甲斐田さんがまだいて、僕たちを手招きした。
「なんですか?」
と、僕は聞いた。
「失礼ですが、あなた方は借金取りか何かですか?」
と、甲斐田さんが聞いた。
「いえ、違いますけど」
僕たちが探偵だということは、言わないでおこう。
「そうですか。それなら、いいです。いやね、西川さんと真下の部屋の樋田さんは、家賃の支払いが遅れがちなんですよ」
「樋田さんというのは――」
「ああ、失礼。
「樋田哲雄? 知らないわね」
と、明日香さんが言った。
「まあ、今はあんまりテレビとかは出ていなくて、舞台とかに出ているみたいですよ。彼は、いつも今やっている舞台のシャツを作って着ているんですけどね。今日も、なんとかかんとか3だったかな? いや、2だったかも。いや、やっぱり3かな? とにかく、舞台のシャツを着ていましたよ。それじゃあ私は、これで。これから、遠出しなきゃいけないので」
と、甲斐田さんは言うと、ドタドタと階段を駆け下りていった。
「明宏君、樋田哲雄って知ってる?」
と、明日香さんが聞いた。
「うーん……。聞いたことがあるような、ないような――」
「知らないなら、いいわ」
ふと下の方を覗き込むと、甲斐田さんが、アパートの前に停めていた車に乗り込むところが見えた。
このアパートは2階建てで、各階に4部屋ある。真ん中に階段があり、エレベーターはない。
西川さんの部屋は、2階の204号室だ。
「明日香さん、もう2時過ぎていますよ。結局、1時間以上かかりましたね」
「ああ、服に臭いがしみつきそうだわ」
と、明日香さんは、袖の臭いを嗅いで顔をしかめた。
「バスで来て、正解だったわね」
と、明日香さんは言った。
西川さんに、アパートには駐車場がないと聞いていたので(1台だけ駐車できるスペースがあるが、そこは大家さんや宅配便のトラックなどが、駐車するところだそうだ)、僕たちはバスで来ていた。
「明宏君、早く帰りましょう。シャワーを浴びて、着替えたいわ」
僕たちは、1階まで階段を下りてきた。
アパートから出て左側に数十メートル行くとコンビニがあって、コンビニの入り口の近くには郵便ポストがある。そして、すぐ近くにバス停がある。
僕たちが、アパートを出ようとすると、西川さんの真下の部屋の104号室のドアが開いて、30代半ばくらいのリュックを背負った白いTシャツを着た男性が出てきた。Tシャツには、『探偵、梅井今日子2』と、書いてあった(ミステリーだろうか? しかし、甲斐田さんは迷ったあげく、3と言っていたけど、実際は2のようだ)。
男性は、僕たちの方を見て、ちょっと驚いたような表情を見せたが、そのままコンビニ側に向かって歩いていった。
「明日香さん、今の男性が樋田さんでしょうか?」
と、僕は聞いた。どこかで見たことがあるような気がしなくもない。
僕が考えていると、102号室のドアがゆっくりと開いて、若い女性が顔を覗かせた。
その若い女性は、僕と目が合うと、とても驚いたような表情を見せた。
一瞬、ドアを閉めるそぶりを見せたが、その若い女性はゆっくりと部屋から出てきた。
その若い女性は、白いTシャツに水色のスカートという、夏らしい爽やかな服装で、肩から小さなバッグを掛けていた。しかし、その表情は服装とは違って、少し青く見えた。
「どうかされましたか?」
と、僕は思わず声を掛けた。
「顔色が、悪いですよ」
と、明日香さんも心配そうに声を掛けた。
その若い女性は、僕の顔をじっと見つめている。
「あ、あの……。僕の顔に、何か?」
ま、まさか、僕に一目惚れをしたとか?
いやぁ、モテる男は辛いなぁ。でも、僕には明日香さんがいるからな。
そんなとき、明日香さんの視線を感じて振り向くと、明日香さんが怖い顔で僕を睨んでいるような気がした。
「もしかして――あっくん?」
と、その若い女性は言った。
「――あ、あっくん?」
と、聞き返したのは、僕ではなく明日香さんだった。
「やっぱり、あっくんでしょ?」
と、その若い女性は繰り返した。
僕は、改めてその若い女性の顔を見つめた。
「――えっ? も、もしかして、
僕は、その若い女性に見覚えがあった。
「うん」
と、その若い女性――清水亜依は頷いた。
「亜依ちゃん? 誰よ」
と、明日香さんが呟いた。
「あっくんって、確か探偵を――」
「うん。探偵といっても、助手だけど。こちらが、探偵の桜井明日香さん――」
と、僕が、明日香さんを紹介しようとしたときだった――
「あっくん、助けて――」
と、亜依ちゃんが僕に突然抱き付いて、声を上げて泣き出した。
「ちょっ、ちょっと、亜依ちゃん――」
急に、どうしたんだ?
「ふーん……。明宏君、女の子を泣かせるようなことをしたんだ」
と、明日香さんが冷たく言った。
「えっ? いや、僕は別に何も――亜依ちゃんは、高校時代のただの同級生で」
「ただの同級生が、どうして泣きながら抱き付くのよ」
と、明日香さんが何故か不機嫌そうに言った。
「そ、そんなこと、僕に言われても――」
いったい、何だっていうんだ。それよりも、どうしてこんなところに亜依ちゃんがいるんだ?
「人が――人が、殺されているの……」
と、亜依ちゃんが言った。
「なんだ、そんなことか。人がね――って、殺されている!? あ、明日香さん!」
僕が呼び掛けるよりも早く、明日香さんは102号室のドアを開けていた――
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