第8話
新之助は去年のある出来事を思い出していた。
十一月三日の文化の日、自宅でインターネット映画を観賞してい
た新之助は、氏家に電話でハイキングに誘われ三輪田山に登った。
三輪田山は市の中心部から北東へ十キロ地点にある標高五百メー
トルほどの低山で、九合目まで車で登れるため観光スポットとして
人気が高く休日はもちろん、平日も多くの観光客やハイキング客で
賑わっている。
新之助は第二高校前電停で氏家と待ち合わせ、市電とバスを乗り
継いで、三輪田山登山口まで行った。途中、バスの中で氏家がデイ
パックの中に入れ、持参したにぎりや稲荷、巻き寿司と紅茶をご馳
走になった。
申し訳ない気がしたが、昼食を食べてから行くと言った新之助に
昼食は自分が用意するから、何も持たずにすぐに出てこいと半ば強
引に誘った結果であるから仕方ない。
午後二時前、バスが三輪田山登山口に到着して、二人は大勢の乗
客とともにバスを降りた。新之助が人数を数えると二十八人、全員
がハイキング客のようだ。バスを降り、車の往来の激しい国道を横
断して、三輪田山へ向かった。
周りの早足につられて歩き出した新之助を「レースじゃないんだ
から、ゆっくり行こう」と氏家が制止して、二人は人々の背中を見
ながら最後列をのんびりと歩いた。
いきなり呼び出された新之助は、上下とも紺のジャージに白のラ
ンニングシューズをはいただけのラフな格好をしていた。
氏家は白と茶色の横縞の入ったラガーシャツにベージュの綿パン
姿で、足元は茶褐色のトレッキングシューズ、背中に青のデイパッ
クを背負っていた。
しばらく歩いて登山口に着き、二人は赤土剥き出しの急勾配のハ
イキング専用道路を登り始めた。新之助は登り始めて数分も経たな
いうちに汗をかき始め、タオルを持参しなかった怠慢を後悔した。
下着がびしょ濡れになり、大粒の汗が額から流れ落ち、目に入るの
でその度に掌で汗を拭わなければならなかった。
真っ白なスポーツタオルで時折、顔の汗を拭いながら前を歩いて
いた氏家が振り返り、新之助が目の汗を拭っているのを見て、呆れ
顔で「タオルを持ってこなかったのか?」と言った。「ああ、これ
くらいの山は楽勝だと思って油断した」と新之助は答えた。
氏家は「五百メートルの高さしかないけど、それなりにきついよ」
と笑い、綿パンの後ろポケットから紫のハンカチを取り出し、新之
助に差し出した。新之助はハンカチを受け取り、顔の汗を拭った。
肌触りの良い上質のハンカチからは、これまでに嗅いだことのない
香水の香りがした。
途中で三回の休憩を挟みながら二人は、いつの間にかほとんどの
ハイキング客を追い抜き、三時過ぎに三輪田山の頂上まで辿り着い
た。頂上には先客が数十人いた。そのうち徒歩で登ってきた見覚え
のあるハイキング客は一人だけで、後はバスや自家用車で九合目の
駐車場まで来て、そこから歩いてきた人々のようだった。
二人はほとんどの人がいる有料望遠鏡が設置された展望台とその
周囲から離れた、数メートル高い場所にある小さな岩棚に並んで腰
を下ろした。岩棚の周囲は潅木が生い茂り、二人より高いところに
は誰もいないので気分が良かった。
新之助は氏家が「水分補給しよう」と、デイパックから取り出し
た五百CC入りのスポーツドリンク・ペットボトルを「悪いな」と
受け取り、一息で飲み干した。喉の渇きは癒されたが、大量に発汗
したため、まだ幾らでも飲めそうな気がした。
氏家は眼下の長閑な田園風景と遠くの街並みを眺めながら、一口
ずつ味わうように飲んでいた。自分と違い、保健体育の教科書に写
真入りで載せられそうな、正しい水分補給の仕方だと新之助は思っ
た。
晩秋の黄色い光の中、冷やりとした風が絶え間なく吹いてきて、
熱く火照った身体には心地良かった。
氏家は山に登って気持ちが開放的になったのか、珍しく愚痴をこ
ぼした。国公立大学の医学部を志望しているのだが、この前受けた
全国模擬試験の結果は散々なもので、とても受かりそうにないから、
私大医学部に志望を変えようか悩んでいると。
新之助は受験までまだ一年以上ある、自分と違い地頭の良い氏家
なら、これから幾らでも挽回できるから、諦めずに初志を貫けとア
ドバイスした。
氏家は運のない自分なんかどれだけ努力しても報われないと愚痴
をこぼし続けたが、新之助が運は努力次第でついてくると言うと、
嬉しそうな笑みを見せ、鹿島はどこの大学を受けるのかと訊いてき
た。
新之助は特に行きたい大学もないから、高卒で一、二年働いて金
を貯めて、世界一周放浪の旅に出ようか迷っていると答えた。氏家
は一瞬、羨ましそうな表情を見せた。微笑して、自分の好きなこと
ができるお前は幸せ者だと言った。
二人は小一時間ほど休憩して、身体が冷えてきたので腰を上げた。
灰色の厚い雲に覆われた太陽は西の空へ傾き、山頂の周囲に薄い霧
が出始めていた。岩棚から数メートル下の展望台まで下りてくると、
登山客は誰もおらず、皆引き上げたようだった。数十メートル下の
駐車場を覗くと、車は一台も残っていなかった。
二人は展望台脇のハイキング専用道路を下り始めた。
今度は新之助が前に立った。上りに比べると下りは膝に少々の負
担がかかるのを除けば、遥かに楽だった。蛇行した赤土の道を滑る
ように下っていき、十分ほどで木造の中間標識の立てられた地点ま
で下りた。
ここで事件は起きた。
新之助が「ここまで来たら、休まずに一気に下りるぞ」と、下り
始めた直後だった。
後ろから背中を思い切り突き飛ばされたのだ。
不意をつかれた新之助はバランスを崩し、前のめりに倒れ、急勾
配の道から外れ、山の斜面を数十メートル下まで転がり落ちていっ
た。
幸運だったのは、頭を打たず、切り立った崖の数メートル手前で
身体が滑り止まったことだった。
崖の五十メートルほど下は岩場になっていて、そのまま転落して
いたら、命を落としていただろう。
新之助が幸運を神に感謝しながらハイキング専用道路へ戻ってく
ると、氏家は真っ青な顔で駆け下りてきて、ひざまづくやいなや、
頭を地面にこすりつけ、震える声で謝った。「ごめん。足が滑って、
ぶつかってしまった」
新之助は突き飛ばされたのは確かだったから、氏家をぶっとばそ
うと思っていたのだが、白い額を赤土に塗れさせながら何度も謝り
続ける氏家を見ているうちに、夕日が山陰に沈むように怒りが静ま
っていき、本当に足が滑って、ぶつかっただけなのかもしれないと
思い始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます