第6話

 七月に入り、夏休みが間近に迫ってきた。

 警察から犯人逮捕の朗報はもたらされず、新之助の四方八方から

針の視線が飛んでくるような苦難の高校生活は続いていた。

 小中高とこれまでの学校生活で嫌なこと、苦しいことは数え切れ

ないくらいあったが、今回ほど苦しく、自分の弱さを思い知らされ

た事態はなかった。

 梅雨が明け、セミの音が鮮明に聞こえだした日曜日の昼下がり、

新之助は有希にケータイで呼び出され、市の繁華街でハリウッド3

Dアクション映画を観た。その後、有希のショッピングに付き合い、

ショートケーキを食べながらコーヒーを飲み、有希を家まで送って

から帰宅した。夕食と入浴を済ませ、二階の自室のベッドに寝転び、

有希から借りたベートーヴェンの「月光」と「悲愴」が入ったCD

をカセット・レコーダーで聴いた。

 有希は最近、クラシックに目覚めたようで、デート中にもブラー

ムスやベートーヴェンの話題を持ち出すことが度々あり、新之助に

も聴くよう頻りに勧めるようになった。

 上品で高尚なクラシックは自分の肌に合わないと新之助が断ると、

三分で終わる歌謡曲より何十分も聴けるクラシックの方が得だろ

う? 何度も繰り返して聴いているうちに良さが分かってくるから

騙されたと思って聴け、と半ば強引に渡されたのが、このCDであ

る。

 確かに三分良い気持ちでいられるより何十分も良い気持ちでいら

れる方が得と言えば、得ではあるが、問題は良い気持ちになれるか

どうかである。

 新之助はこのCDを聴くのは三度目だが、一度も良い気持ちには

なれなかった。今回もそうだが、聴き始めた途端に学校での級友た

ちの視線が脳裏に蘇り、内臓が口から飛び出しそうなほどの吐き気

に襲われ、眩暈さえしてきた。

 視線といっても一様ではない。冷えた水のような視線から氷のよ

うな視線、針のような視線から槍のような視線、棘を含んだ視線、

ライフルの銃弾のような視線まで様々だ。

 その一つ一つを思い出す度に新之助は、自分の人生が崩壊し、価

値観が覆り、人格が分裂しそうな恐怖に襲われ、二階から飛び降り

たくなる。

 最初の頃はそんな視線を向けられる度に激昂して、睨みつけ、難

詰したものだった。しかし今はそれもしない。泥のような虚無感の

中でただ耐えるだけだ。

 難詰される度にあいつらは頭を下げ、謝った。しかし、しばらく

すると、再び同じ視線を向けてくるのだ。同じことの繰り返しで徒

労と苛立ちが募るだけである。ハイエナを追い払うライオンの気持

ちが分かったような気さえした。

 新之助はCDを聴くのをやめ、十四型カラーテレビのスイッチを

入れた。

 画面にお笑い芸人の司会するバラエティー番組が現れた。すぐに

リモコンでチャンネルを変えた。今度は数十人のアイドルグループ

が歌っている歌謡番組が出た。

 再びリモコンを操作する。報道特別番組。リモコン操作。時代劇。

しばらく眺め、リモコン操作すると、クリント・イーストウッドの

主演する西部劇が現れた。ストーリーを追わずに目線を画面に置い

ただけで眺めていると、階下から親父の自分を呼ぶ声が聞こえた。

誰か来客があったようだ。玄関の方で話し声がする。

 新之助は一階に下りる途中、聞こえてきた割れ鐘のような話し声

から牛島の来訪を知った。居間の横を通り、玄関に出ると、浴衣姿

の親父と黒のTシャツにジーンズ姿の牛島が話していた。牛島は新

之助を見ると、よおと片手を上げ、ゴルゴダの丘に向かうキリスト

のような笑みを見せた。親父は上がってもらいなさいと言い残し、

居間へ戻っていった。

 新之助は牛島に先に二階の部屋へ入るよう言って、キッチンに行

き、インスタント・コーヒーを二人分作り、母親が出してくれたカ

ルカン饅頭とともにトレイに載せ二階に運んだ。牛島はイスに座り、

深刻な表情でテレビに目をやっていたが、新之助が勉強机にトレイ

を置くと、表情をやわらげ、「ラッキー! おれはこれが大好きな

んだ」と、カルカン饅頭に手を出した。

「親父の鹿児島土産だ」新之助は一口舐めたコーヒーカップをベッ

ドヘッドに置き、ベッドに腰を下ろした。

 牛島はカルカン饅頭を二個食べ、コーヒーをすすると、太い溜め

息をついた。

「悩み事か?」

「ああ、気がかりなことがある。ケータイで言っても良かったんだ

が、ことの重大性を考えると直接話した方が良いと思ってな」牛島

はコーヒーカップを勉強机に置いた。

「恋の悩みか?」

「ばかを言え」牛島は苦笑いした。

「何だ?」

「氏家のことだ」

「氏家の?」

 牛島は再び太い溜め息をついた。「今日おれは城南高で柔道部の

連中と合同練習をしてきたんだが、練習の後の雑談中に中学時代の

同級生から気がかりなことを聞いた。おれと氏家と山際涼子が城南

中の出身だということは知っているよな?」

 新之助はうなずいた。新之助は城東中の出身だ。

「そいつは北島というんだが、北島は山際が殺された五月十四日の

夜、ゲームセンターの帰りに氏家と山際が一緒にいるところを目撃

したというんだ」

 新之助は灰を舐めたみたいな嫌な感じがした。「そいつの見間違

いじゃないのか? 氏家はそんなこと一言も言ってないぞ」

「そうだ。だからおれは何度も北島に確認した。お前の見間違いじ

ゃないのかってな。そうしたら、やつは絶対に間違いじゃないと請

け合った。五月十四日の夜十一時過ぎ、ゲームセンターで遊んだ後、

上通り商店街を歩いているとき、喫茶店オアシスの窓越しに中で氏

家と山際が向かい合っているところを見たと」

「本当に五月十四日なのか? 五月十三日の間違いじゃないのか?」

 牛島は苦しそうに首を横に振った。

「いや、絶対に五月十四日だと」

「どうしてそう言い切れる? 人間というのは忘れる生きものだろ

う? まして二カ月も前のことをどうして断言できる?」

「北島は遊び人のくせに律儀なやつで、毎日日記をつけているそう

だ。さっき日記を確認した北島からおれのケータイに連絡があった。

あいつの日記帳の五月十四日の欄には、夜十一時過ぎ、上通り商店

街の喫茶店オアシスにいる氏家と山際を見かけたと書かれていた」

「氏家に確認する必要があるな」

「ああ、明日学校で確認しよう」

「どうして黙っていたんだろう?」

「分からん。全くの闇だ」

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