第4話

 昼食を終え、自席で居眠りしていた新之助は突然、ばしっと背中を

叩かれた。目を開け、見上げると、横に牛島が豪傑笑いしながら立っ

ている。

「眠っている場合か、捜査に行くぞ」

「当てはあるのか?」新之助は立ち上がった。

「まずはC組で山際と一番親しかった人間からだ。ついてこい」

 牛島は言って、歩き始めた。A組の教室から校庭に面したベランダ

に出ると、C組へ向かった。新之助は牛島の背中に問いかけた。

「一番親しかった人間って誰だ?」

「戸田直子と今村富士子だ」

 牛島はB組の前を通り過ぎた。新之助は後ろを歩きながら、B組の

教室の中から針のような視線が数本、自分に向かい飛んできたのを感

じた。

 戸田直子と今村富士子は他の女生徒三人とともにC組の教室の中で、

お喋りに花を咲かせていた。牛島がベランダから弁慶のような大音声

で尋ねたいことがあると言うと、驚いた様子で教室から出てきた。

 戸田は小太り、今村は痩せぎすで、容貌もそれほど魅力的な方では

ない。どちらかというと、醜女の方だろう。学校一の美貌を謳われた

山際涼子と最も親しかったというのが、不思議な感じさえする。二人

は新之助を見て、恐れの表情をあらわにした。

「二人ともこの鹿島新之助が、山際さんを殺したと思っているのか?」

 牛島が怒気を含んだ声音で訊いた。戸田も今村も慌てて首を横に振

った。牛島は恐い顔を仏さんのような顔に変え、「そうだろう、そう

だろう」と言った。

「この牛島達郎が誓って言うが、鹿島新之助は人を殺して、知らん

顔ができるような人間ではない。やったらやったと言う、やらなか

ったらやらなかったと言う。白黒をはっきりつけられる人間だ。こ

いつはやっていないと言っているから、犯人じゃない。分かるな?」

 二人は何度もうなずいた。

「おれはこいつの濡れ衣を晴らすために真犯人を捕まえたい。つい

ては山際さんと親しかったあんたたちに訊きたいことがある。正直

に話してほしい。山際さんが殺された五月十四日、何かおかしなこ

ととか、不審なことはなかったかな?」

 戸田と今村はお互いに見合い、二人同時に「別になかった」と言

った。

「放課後、誰かに会うとか?」

「言ってなかった。あの日、わたしと今村さんはソフトボール部の

練習に出て、部活のない涼子は、真っ直ぐ家に帰ったはず」戸田が

答えた。

「山際さんと交際していた男子はいたかな?」

 二人は見合い、首を振り、今村が答えた。「涼子は男子に人気が

あったから、いつも多くの男子に囲まれていたけれど、彼氏、彼女

と呼べるような交際相手はいなかったと思う」

 牛島は他に山際涼子が県庁勤めの父と中学の数学教師の母との間

に生まれた長女で、中学三年の弟との四人暮らし、去年から両親が

ローンで購入した広い庭付きの一戸建て住宅に住んでいたことなど

を訊きだすと、二人に礼を言い、何か気づいたことがあったら、ど

んなことでも良いから自分に教えてくれないかと言った。二人はど

んなことでも教えると約束した。

 ついでだから担任の早川にも話を聴くかと牛島が提案、新之助が

応諾して、二人は職員室に向かった。三十代の国語教師の早川は自

席で図書新聞を読んでいたが、牛島が用件を告げると、立ち上がり、

二人を職員室隣の六畳ほどの面会室へ連れていった。

 石川啄木を髣髴させる坊ちゃん顔で貧相な体つきの早川は、二人

を部屋中央の黒革のソファーに座らせると、自分はガラステーブル

を挟んだ反対側に座り、胸ポケットから取り出したチョコレート色

のハマキにジッポーで火をつけた。

 部屋の中に甘い香りが立ち込め、新之助は初めて嗅ぐ匂いに吐き

そうになったので、早川の許可を得て、中庭に面した窓を開けると、

湿り気を含んだ新鮮な空気が流れ込んできて、気分が幾分か楽にな

った。

 早川には教え子を殺された担任としての、悲壮感や切迫感はあま

り感じられなかった。牛島もそれを感じたようで、やや苛立った口

調で警察の捜査はどの程度まで進んでいるのかと尋ねた。現場に残

されていたのは、新之助の片側の靴だけで、他の遺留品が見つから

ず、体液や体毛などDNAを抽出できる物も見つからず、捜査は膠

着状態に陥っているようだと早川は言い、新之助をちらっと見た。

その眼の中には明らかに猜疑の刃があった。

 新之助は内臓が焼け爛れるような激しい怒りを感じた。思わず言

葉が口を突いて出た。

「あの靴は四月におれの靴箱から盗まれたものです。このことは警

察にも話して、理解してもらいました。今頃になって、おれが犯人

みたいな噂が出ているようですが、先生が噂を流したのではないで

しょうね?」

「とんでもない!」早川は目を剥き、慌てて左手を横に振った。新

之助をなだめようと媚を含んだ笑みを浮かべた。「わたしが噂を流

したなどと濡れ衣も良いところだ。わたしは鹿島君が犯人だと思っ

たことは一度もない」

「本当ですか?」新之助は睨みつけた。

 早川はどもりながら、「もちろんだ」と答えた。

「山際さんを憎んでいた人とか心当たりはありませんか?」

 牛島が尋ねた。

 早川は首を振った。「全くない」

「それなら山際さんに片想いしていた人は?」

「それは君たちの方が詳しいんじゃないのか? あれだけの美人だ

ったんだから、片想いしていた男子がいない方がおかしい」

「おれが訊いているのは、職員室の先生方の中にそういう人はいな

かったかということです。最近、生徒に手を出すインモラルな先生

が増えているらしいですから。もちろん先生がそうじゃないことは

良く分かっています」

「そんな破廉恥な先生がうちの高校にいるとは思えないけどなあ」

 早川はハマキをクリスタルの灰皿に置き、両腕を組み、考え込ん

だ。

「山際さんに好意を寄せていたらしい先生とかいませんでした?」

 早川は細い溜め息をついた。「悪いが、全く心当たりがないなあ」

 牛島が新之助を見て、何か訊くことはないかと言った。新之助は

ないと答えた。

「鹿島があらぬ疑いをかけられて迷惑しています。早く犯人を逮捕

するよう先生の方から警察の尻を叩いてください」牛島がお願いし

て、二人は腰を上げた。

 渡り廊下を歩きながら牛島は、犯人が捕まるまでの辛抱だと言っ

た。新之助は徒労の二文字を思い浮かべながら、永久に犯人は捕ま

らない気がすると答えた。

 新之助は午後の授業を終えると、柔道場へ直行して、汗を流した。

牛島と氏家、有希と三人の理解者がいるとはいえ、新之助は四面楚

歌だった。今日一日、火のついた焚き木を背負い長い坂道を登って

いるような気分だった。少年のこころはずたずたに傷つき、破裂寸

前だった。そういう状態から救われるためには、柔道が唯一の拠り

所だった。己の限界まで身体を動かし、汗を流し、何もかも忘れる

必要があった。先に来ていた二年生部員五人を相手に乱取りをし、

部活が始まってからも副主将の牛島が呆れるほどの、総当たり乱取

りと寝技練習をこなした。顔から塩を噴くほどの猛練習のおかげで

終わりの黙想の時間には、自分のこころが白紙の状態に戻ったのを

新之助は実感していた。

 下級生部員が全員退室していき、新之助と牛島が道場の真ん中に

あぐらをかき、雑談していると、入口の方から「オス」と声が聞こ

え、佐田と富樫、松田が道場に入ってきた。三人とも空手着姿だっ

た。新之助は昨夜、氏家から忠告されていたから、来たかと思った。

「何だお前ら、空手部から柔道部へ鞍替えするつもりか?」

 牛島が呆れ顔で訊いた。三人は傍まで歩いてきて、真ん中の佐田

が違うと答えた。三人の目は新之助の顔に留まったままだ。

「じゃあ何だ? まさかお前ら柔道部にけんか売りに来たんじゃな

いだろうな?」

 牛島は眼光を鋭く光らせ、立ち上がった。新之助も立ち上がった。

「そうじゃない」と佐田は言った。「おれは鹿島に一対一の決闘を申

し込む。身に覚えがあるだろう?」佐田は愛する者を奪われた悲劇

のヒーローを自分に仮託しているのか、滑稽なくらい悲壮感溢れる

顔をしていた。

 新之助は身に覚えはないが、最近むしゃくしゃしたことが多いか

ら、一対一の決闘は大歓迎だと答えた。牛島が愉快そうに笑い、そ

れでこそおれの親友だと言った。そして審判役は自分がやると申し

出て、三人にも認めさせた。

 新之助と佐田が正対すると、間に立った牛島は富樫と松田を壁際

に下がらせ、噛みつきと目突き、金玉攻撃は禁止する、どちらかが

失神するか、まいったを言うまでだ、それで良いかと二人に尋ねた。

 新之助はそれで良いと答えた。佐田もうなずいた。佐田は百七十

センチの新之助より十五センチ高い百八十五センチの長身痩躯、空

手部では主将の山田、副主将の中村に次いで、三番手の実力の持ち

主だと噂で聞いたことがある。

「どちらが勝っても負けても遺恨はなしだ。始め!」牛島が右拳を

前に突き出し、合図した。

 新之助は両手を軽く前に出し、腰を低く落とした構えで相手の隙

を窺った。佐田は両掌を顔の高さで前に突き出し、小刻みに交互に

上下させながら、前後左右に軽くステップを踏み始めた。

 新之助は一対一の闘いでは相手が空手だろうがボクシングだろう

が、柔道が一番強いと固く信じていた。キックボクシングもそうだ

が、立ち技系の格闘技は寝技に持ち込まれると、羽をむしられた小

鳥のように脆くなる傾向がある。だからクリンチでも何でも良いか

ら相手にしがみついて、倒してしまえばこちらの思う壺だ。

 危険なのは離れた状態が続き、相手の攻撃を受け続けることであ

る。相手の攻撃を受けたら、即相手に抱きついて寝技に持ち込む。

それさえ忘れなければ、負けはない。寝技に入ったら、関節技でも

絞め技でもそのときの状況に応じて自由自在に決める自信があるか

ら、新之助の必勝の信念は揺るがない。

 佐田はつかまれたら、不利だと自覚しているのか、新之助が前に

出る度に後退し、あるいは横に跳び、間合いを空けてきた。

 新之助は前に出るのをやめ、相手の攻撃を待った。

 佐田もフットワークを止め、静止して、新之助の様子を窺い始め

た。

 互いに見合った状態が五分ほど続き、牛島が声を荒げた。「明日の

朝まで続けるつもりか。さっさと打ち合わんか」

 その声に呼応するように佐田が前に出てきた。大きく踏み込み、

左ハイキックを放ってきた。

 新之助は上体を折って、それをかわした。日本刀を一振りしたよ

うな空気を切り裂く凄まじい風音が頭上でして、佐田の身体が回転

した。

 佐田は背中を向けた状態で、今度は右の後ろ蹴りを繰り出してき

た。新之助は両腕でブロックしようとしたが、遅かった。かかとが

腹を直撃した。息が詰まった。しかし耐えられないほどではない。

後ろから佐田に抱きつき、そのまま仰向けに畳に倒れ込んだ。

 佐田は倒れながら右の肘打ちを繰り出してきたが、腕を上から押

さえられていたため、威力が半減して、ほとんど新之助にダメージ

を与えられなかった。

 新之助は寝技に入ってから素早く動いた。佐田の後ろに回り、右

手首を両手でつかみ、右脇から右脚を入れ、左肩の上から首を絞め

るように左脚を回し、両足首を佐田の胸の上で交差させ、首を絞め

る三角絞めの体勢に入った。

 新之助は渾身の力を両脚に集め、絞めつけた。

 佐田は必死の形相でもがき暴れ、逃れようとしたが、その度に技

が固く絞まっていき、まるで蜘蛛の巣にからまった蝶も同然だった。

 牛島がまいったかと訊いたが、返事はなかった。新之助は更に全

身の力を振り絞り、骨も砕けよとばかりに絞め続けた。

 数秒後、佐田の身体から力が抜け、フランス人形のようになった。

新之助は絞めつけていた両脚をほどき、上体を起こし、佐田を見た。

 佐田は白目を剥いた状態で、完全に失神していた。

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