第3話

 新之助は帰宅すると、カラスの行水で入浴した後、居間で両親、

祖母、妹とともに食卓を囲んだ。

 メニューは玄米入り白飯に豚肉の生姜焼き、カツオのたたき、キ

ャベツとトマトとレタスのサラダ、ツワブキのお吸い物だった。

 豚肉の生姜焼きは新之助の大好物だ。激しい柔道練習の後に豚肉

の生姜焼きを食すると、数時間のうちに肉の栄養分が体細胞に吸収

されていき、血となり、肉となり、己の肉体が強化される感覚があ

った。

 鶏肉や牛肉でも良いのだが、軽い鶏肉は豚肉より短時間で胃腸に

吸収されもの足りず、牛肉は消化に時間がかかりすぎる。だから自

分の身体には豚肉がベストだと思っている。栄養学的知見があるわ

けではない。独断と偏見かもしれない。ただ自分の身体の奥底に眠

る野生の本能は、豚肉を摂るよう促しているような確信がある。

 母は新之助が豚肉の生姜焼きが大好物だと気づいたのか、最近は

少なくても週に三度はメニューに豚肉の生姜焼きを加えるようにな

った。豚肉より鶏肉の好きな中学二年の妹は、それが不満らしく、

度々母に愚痴をこぼしている。

 新之助は食事を終えると、二階の自室へ戻り、CDラジカセで英

語のリスニングCDを聴きながら、明日の予習を始めた。

 柔道部の三年部員が五人、受験勉強に専念するため五月に引退し、

牛島とともに二人だけ部活を続けているが、一応大学受験はするつ

もりだ。東京の海洋大学を受けるつもりだが、落ちたら浪人などせ

ずにアルバイトでも良いから、一年ほど働いて金を貯め、世界一周

の旅に出るつもりでいる。そうなると、大学に行っても行かなくて

も、英会話習得の必要に迫られるわけだから、他の教科以上に英語

の勉強には力を入れていた。

 しかし、今夜は昨夜までとは違い、机に向かい数分もしないうち

に、自分に対するクラスメートたちの宇宙から飛来した病原体でも

見るような、恐れを含んだ猜疑と好奇の眼差しが、次々に脳裏に蘇

ってきた。胃酸が喉元まで込み上げてきて、茶碗一杯のワサビを飲

み込んだようなおそろしく不快な気分になった。

 くそっと思う。皆を渾身の力で殴りつけてやりたいと思った。今

日、三人のクラスメートにおれに言いたいことがあるのなら、はっ

きり言えと言ってやった。

 言われたやつらは一様に目を伏せ、別に言うことはないと答えた。

そしてしばらくすると、再び異物を見るような眼をおれに向け始め

たのだ。

 おれは山際を殺していない、おれは犯人じゃないとはっきり言っ

てやった。あいつらは、もちろんそうだ、誰も鹿島を犯人だとは思

っていない、神に誓っても絶対に犯人だとは思っていないと答えた。

しかしそれは嘘だ。あいつらはおれを犯人だと思っている。あの恐

れを含んだ異物を見るような眼がそれを物語っている。

 氏家は噂は七十五日だと言い、牛島は消えてなくなるアイスクリ

ームみたいなものだと言った。本当にそうだろうか? もし犯人が

逮捕されなかったら、おれに対する疑惑はいつまでもついて回るの

ではないのか? 高校を卒業した後も死ぬまで後ろ指をさされ続け

るのではないのか? たまったものではない。おれだけでなく、両

親、祖母、妹、おれの子供、妹の子供の名誉はどうなる? 

 そう考えた新之助は、方向感覚のつかめない暗黒の無重力空間に

でも放り出されたような、激しい苛立ちと怖れに囚われた。とても

勉強などしていられないと思った。気分転換に氏家から借りた「バ

イオ・ハザードⅣ」のDVDを観ようと思い、カバンの中からディ

スクを取り出し、ブルー・レイDVDレコーダーにセットした。予

告編が終わり、本編が始まったところで、カバンの中のケータイが

鳴った。

 新之助はカバンの中からケータイを取り出し、通話ボタンをプッ

シュして、耳に当てた。

「はい、鹿島です」

「もしもし、九時半にいつもの所で。早く来いよ」

 朝丘有希のぶっきらぼうな声が聞こえ、一方的に通話が切れた。

女のくせに男以上の早電話である。全く有希らしいと思った。有希

と付き合い始めて九カ月になるが、長電話したことは一度もない。

ほとんど有希が言いたいことを言って、一方的に切るからである。

 第二高校三年D組の有希とは去年の夏休み、模擬試験会場の工業

高校で席が隣同士になり、一本だけ持参した鉛筆の芯を折ってしま

った新之助が、有希に鉛筆を借りたのが縁で、親しく口をきくよう

になった。

 九月の下旬、学園祭の準備作業で一緒になったとき、「彼女がい

ないのはかわいそうだから、おれが彼女になってやるよ」と有希の

方から言い出して、交際が始まった。有希は身長百六十五センチの

スリムな体型に茶髪のショートヘアーである。脚の線が美しく、一

度デートのとき、ピンクのミニスカートをはいてきた有希をそのこ

とでほめたら、気分を害したのか、それからはジーンズしかはいて

こなくなった。

 有希の容貌は普通のちょっと上ぐらいだと新之助は思っているが、

有希とは遠縁の牛島に言わせると、山際涼子の上で第二では一番の

美形だと言う。縁故関係にある牛島の欲目だとしても、自分の交際

相手がそう言われるのは、新之助としては悪い気はしなかった。

 ベッド・ヘッドの目覚まし時計を見ると、九時五分を指している。

有希が言った、いつもの所というのは、新之助の家から歩いて十五

分のところにある商店街のゲームセンターのことである。二カ月前、

映画が始まるまでの時間つぶしに二人で入ったその店で、有希はシ

ューティングゲームに魅せられ、それ以来、その店の常連になった。

 新之助は有希がシューティングゲームに熱中し始めたのは、自分

のせいだと思い、あの日有希をゲームセンターに誘ったことを後悔

していた。最近では自分のことが、彼女を不良にして後悔する半端

男みたいにさえ思えてきて、自己嫌悪におちいることがしばしばだ。

 新之助はトレパンを脱ぎ、洗いざらしのブルージーンズをはき、

Tシャツの上からダークブルーのボタンダウンシャツを着た。一階

に下り、玄関でコンバースのバスケットシューズに足を通したとこ

ろで、居間から母が顔を覗かせ、どこに行くのか訊いてきたが、天

体観測会に行ってくると言い残し、外に出た。

 国道に面したアーケード街入口のビルの一階に、ゲームセンター

「キング」はある。正面入口の自動ドアからゲーム機の電子音の鳴

り響く店内に入った新之助は、左手首のディズニーの腕時計を見た。

九時二十七分だった。新之助は舌打ちした。有希は新之助が待ち合

わせ時刻の五分以上前に到着していないと機嫌が悪いのだ。自分は

いつも五分以上遅刻するくせに。

 店の中は通路の左右に雑然と数十台のゲーム機が置かれ、その九

割ほどに客がついていた。客層はローティーンから三十代のサラリ

ーマンまで様々だが、最も多いのが二十歳前の精力を持て余した連

中だ。新之助は左右交互に見ながら、有希の姿を探し始めた。

 フロアの中央まで来て、新之助は背後から軽く尻を蹴られた。振

り返ると、薄緑のポロシャツにブルージーンズ姿で、真っ白なジョ

ギングシューズをはいた有希が咲きかけの胡蝶蘭のような笑みを浮

かべ、立っている。

 有希の後ろから来た高校生風の金髪の女が、驚いた顔で有希を見

ながら、通り過ぎ、新之助の横の台に座った。

 有希はついてくるよう目配せして、踵を返し、正面入口の方へ歩

き始めた。新之助は後をついていった。有希は入口の自動ドアから

外へ出ると、大きく息を吐き出し、肩を落とした。そして、「今日

は楽しくない」と言った。新之助は「いくら使った」と訊いた。

「一万円。金がなくなったから、コーヒーおごって」

 有希はゲームセンターが入っているビルの外階段を登り始めた。

 二人はビルの二階の喫茶店に入ると、アーケード街が見下ろせる

窓際のボックス席に座り、水を運んできたさざえさんそっくりの中

年のウエートレスに、ホットコーヒーとアイスコーヒーを注文した。

客は隣のボックス席に若いOL風の二人と、カウンターにサラリー

マン風の中年男一人がいた。

 店の中はBGMにモーツァルトの「トルコ行進曲」が流れていて、

新之助は中学時代、運動会の予行演習で、この曲を繰り返し聴かさ

れた経験を懐かしく思い出した。有希は物憂い顔でアーケード街を

見下ろしていた。

 新之助は運ばれてきたアイスコーヒーを一口舐め、切り出した。

「そろそろゲームはやめた方がいいぞ。身ぐるみはがされても知ら

んぞ」

「鹿島の忠告に従って、明日からゲームは金輪際しない」

 有希は胸ポケットからチョコレートのパッケージを取り出し、封

を切ると、取り出した一個を口に入れ、もう一個を新之助の前に置

いた。新之助はそれを取り、口の中に放り込んだ。

「お前、やめると言って、何度反故にしたと思っているんだ?」

 有希は首をかしげた。「二回かな」

「違う。五回だ。今度こそ本当にやめるんだろうな」

「うん。やめる」

 有希はうなずき、くすりと笑った。表情を改め、心配そうにじっと

新之助を見た。「良く言うよ。鹿島はおれのことより自分のことはど

うなんだ? 変な噂が立っているだろう」

 新之助は苦笑した。おれのことを心配してくれていたのかと思うと、

枯れ木のように乾いていたこころが瞬時に潤された。

「早いな。もうD組まで噂が流れているのか?」

「いや、放送部の部活でB組の八木沢から教えてもらった。D組で知

っているのはおれを含めても二、三人ぐらいだろう。でも噂が回るの

は早いから、すぐにみんな知るだろうな」

「だろうな。全く死にたいよ」

 有希はむっとした顔をした。「お前が犯人なのか?」

「犯人のわけがないだろうが」

「それなら死にたいなどと言わない方がいいぞ。死んだりしたら、

自分が犯人でしたと認めるようなものだ」

「確かにそうだな。的を射た見解だ。アーチェリーの矢が真ん中に

突き立った。朝丘のご忠告、いたみいる。しかとうけたまわった」

新之助は大仰に頭を下げた。

「オーバーなやつ、助さん、格さんにでもなったつもりか」笑って、

アーケード街に目をやった有希は二重瞼の美しい目を細め、「あれ氏

家じゃないか?」とつぶやいた。

 新之助が階下を見ると、アーケード街入口の人ごみの中、長身の氏

家が脇目も振らず、歩いてくるのが見えた。

「確かに氏家だ」

 有希は立ち上がり、窓のロックを解除して、右から左にスライドし

て開けた。身を乗り出して、「おーい、氏家」と呼びかけた。驚いた

顔で氏家がこちらを見上げ、数秒後、にこりと微笑んだ。

「上がってこいよ」有希が手招きした。氏家はうなずいた。

 一分後、店のドアが開き、紺のカッターシャツに紺のスラックス

姿の氏家が入ってきた。右手には布製の黒のカバンを提げている。

やや緊張した表情で傍へ来た氏家は「お二人さん、デートの邪魔では

ありませんか?」と言った。

「お前はカモだから、いいんだよ」有希が答えた。氏家は目を白黒さ

せた。「わたしはネギを背負ったカモというわけですか?」

 有希はそれには答えず、自分の隣に座るよう促した。氏家はさざ

えさんそっくりのウエートレスにアイスコーヒーを注文して、新之

助の向かいに座った。アイドルスターも顔負けの甘いマスクの氏家

は、どこにいても女の目線を集める。隣のボックスに座っているO

L二人組が氏家を気にしだすのが手に取るように伝わってきた。

「こんな夜中にどこで遊んできたんだ?」有希が尋ねた。

 氏家は天井を見上げ、愉快そうにひとしきり笑った。笑い終える

と、スラックスのポケットからレモンの香りのする真っ白なハンカ

チを取り出し、鼻をかみ、「遊べるといいんだけどね」と言った。

「塾か?」新之助は訊いた。

「ああ、数学と物理」

「学年トップの氏家なら学習塾なんか行かなくても、どこでも合格

だろう?」と有希。

「それが世の中そんなに甘くない」

「医学部受けるのか?」

「その予定」

「このすけべ! 医学部なんてやめておけよ」

「どうして?」

「医者なんてスケベばかりだ」

「そんなこと言っていいのか? 朝丘んとこ、両親とも医者だろ

う?」

「医者なんてろくな人種じゃない。医者なんかなるな」

「ふうーん、複雑な家庭事情があるようだけど、おれの進路は十年

前から決まっている。朝丘の意見にはそいかねるな。悪いけど」

「勝手にしろ」

 有希は氏家の横顔に息を吹きかけた。氏家は新之助を見、自分の

ことより気がかりなことがあると言った。

「今日の放課後、クラスの一部の連中がお前に制裁を加える相談を

していたそうだ。明日、そいつらから何か言われるかもしれないが、

いっさい相手しちゃだめだ」

「一部の連中って?」

「佐田や富樫、松田などだ」

 三人とも今は引退したが、五月までは空手部に在籍していた。佐

田は一時期、山際涼子に熱を上げ、女王蜂にかしずく蜜蜂のように

奉仕していたと聴いた。

「佐田は山際にぞっこん惚れていたらしいから、気持ちは分からな

いでもないが、当事者のおれとしては迷惑な話だ。一トンのバーベ

ルでも背負ったような気分だ」

「いいか、くれぐれも短気を起こすなよ。何を言われても無視して

いろ」

 新之助は心底心配している氏家の真摯な眼差しを見て、自分には

もったいない良い友を持ったと思った。

「分かった。そうするよ」

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