第2話
放課後、第二高校体育館二階の三十畳敷き柔道場。
主将の新之助は円形に自分を取り囲んだ部員たちを全員座らせた。
円の中が二人一組で乱取りをするのに十分な広さになるよう、調整し
てから皆に告げた。
「これより乱取りをする。一人ずつ名前を呼ぶから出てきて、おれ
の相手をするんだ。前田」
「はい」
新之助の正面であぐらをかいていた巨漢二年生の前田が立ち上が
り、円陣の中央で新之助と相対した。身長は新之助と同じ百七十セ
ンチぐらいだが、体重が三十キロ以上重い百キロ超級の選手だ。
互いに礼をして、組み合った。新之助は右手で前田の奥襟をつか
み、左手で右袖をつかんだ。前田も同じように組んだ。
前田は体格に任せた力ずくで、イノシシのように前に出てきた。
新之助は逆らわずに下がりながら、左足の土踏まずを前田の右膝に
当て、「えいっ!」と気合いを入れながら、瞬間的に身体を左に捻っ
た。
前田の巨体が宙に浮き、裏返り、背中から青畳に叩きつけられた。
新之助の得意技、膝車だ。
「次、山下」
前田が退き、同じ二年生の山下が立ち上がった。痩身だが、上背
が百八十三センチある。互いに礼をして、組み合うやいなや新之助
は右の払い腰をかけた。
山下は右太腿を払われ、背中から青畳に落ちた。
「次、堂園」
山下が退き、二年生の堂園が出てくる。新之助とほぼ同じ中肉中
背の体格をしている。組み合ってすぐには投げなかった。相手にも
技をかけさせてやり、十分遊んでやってから、背負い投げで決めた。
同じように残りの二年生、一年生部員十人の相手をして、最後に同
じ三年生で親友の副主将、牛島達郎を指名した。
「やっとおれ様の出番か。待ちくたびれたぜ」
牛島は黒炭のような太い眉毛の、えらの張ったいかつい顔を、に
やにやさせながら立ち上がった。
牛島の顔は眉毛の間が異常に狭く、ぱっと見た分には二つの眉毛
が、一直線につながっているように見える。同学年だが、二歳年長
である。身長百八十センチ、体重九十八キロの筋骨隆々の百キロ級。
猛練習で所々擦り切れ黄ばんだ道衣の胸元には、針金のような太い
胸毛を覗かせている。
互いに礼をして、新之助は右手で牛島の左前襟をつかみ、左手で
右袖をつかんだ。牛島も新之助のそれを同じようにつかんだ。組ん
だ瞬間に巨大な岩石にのしかかられたような圧力を感じた。それを
こらえ、右の大外刈りをかけた。
牛島は大外返しを仕掛けてきた。
新之助の身体は宙に浮き、背中から青畳に叩きつけられた。
「一本だぞ」牛島が上から見下ろし、にやりと笑った。
「まだまだ」新之助は立ち上がり、組み合うや、右の一本背負いを
打った。
今度はスムーズに決まった。牛島の巨体が宙を舞い、青畳に叩き
つけられた。
「おぬし、なかなかやるな」牛島は立ち上がり、右の体落としをか
けてきた。新之助の身体が風車のように一回転して、青畳に叩きつ
けられた。
投げ、投げられが繰り返され、十分後に乱取り稽古を終えた。
続けて腕立て伏せを行う。新之助の号令に合わせて十四人の部員
たちが、一人の落伍者も出さずに百回の腕立て伏せを完了した。
次は二人一組になっての腹筋運動だ。一人が畳の上に仰向けにな
り、もう一人は両手で相手の足首を抑える。寝た方は両手を頭の後
ろに組み、新之助の号令に合わせ、上体を起こす。これを一人五十
回ずつ繰り返した。
最後に柔軟体操で筋肉と関節を十分にほぐした後、部員たちを横
三列に並ばせ、正座させた。新之助も部員たちの前に正座し、黙想
と号令をかけた。
正座した十四人の部員たちが一斉に目を瞑る。しわぶき一つしな
い。新之助は部員一人一人の顔を見ていく。道場の外の煩雑を引き
ずった者は、一人もいないと思った。皆、汗とともにこころの曇り
を洗い落とした、磨き上げた鏡面のような、それでいて、さっぱり
とした安らぎに満ちた顔をしていた。
新之助の一番好きな時間だった。精神を集中して、体力を使い果
たした後に訪れる放心と癒しの時間。新之助はこの黙想の時間を密
かにそう位置づけている。このつかの間のひと時があるから、柔道
を続けてきたのだとも思っている。
新之助は道場の時計で三分が経過したのを確認してから、黙想を
終わらせた。「今日はありがとうございました」畳に両手と額をつけ、
一礼した。部員たちは新之助に続き、一斉に「今日はありがとうご
ざいました」と唱和し、畳に両手と額をつけ、一礼した後、立ち上
がり、道場から退室していった。
下級生部員が全員退室したのを見届けてから、新之助は正座を崩
し、あぐらをかいた。道場にいるのは、牛島と二人だけになった。
三年部員は七人いたのだが、五人が五月の高校柔道市内大会を終え
てから大学受験を理由に引退し、今では二人だけになってしまった。
「七月の県大会、調子良さそうじゃない」
新之助は真向かいにあぐらをかいた牛島に話しかけた。体格と天
性の素質に恵まれた牛島は、去年からの猛練習の成果が実り、今年
になって技量が格段に向上した。個人戦百キロ級では城南高校の重
田とともに県大会優勝候補に挙げられている。
「まあまあだな。これからだな、調子を上げるのは」牛島は右手で
針金のような胸毛をむしりながら、言った。「お前も良さそうじゃな
い。七十三キロ級で出るんだろう?」
新之助は当初、県大会に個人戦七十三キロ級で出場を予定してい
たが、今日になって、迷い始めていた。山際涼子強姦殺害犯の濡れ
衣を着せられたままで、第二高校を代表して、大会へ出るべきなの
かと。
「そのつもりだったんだが、やめた方が良さそうだ」
「どうして?」牛島はクマが人間を見るような眼で、新之助を見た。
「おれには山際涼子強姦殺人犯の噂が立っている」
「何だと?」牛島はぎょっとした風に目を剥いた。「まじでか?」
「ああ、お前はE組だから知らんだろうが、A組とB組の連中は、
氏家以外はみんなおれが犯人だと思っている。これから噂は全校に
広まり、みんながおれを犯人だと思うだろうな」
牛島は天井を見上げ、溜めていた息を鯨の潮吹きのように、ふう
ーっと猛烈な勢いで吐き出した。「知らなかった」
「明日になったら、お前のクラスにも噂は流れてくるはずだ。そん
な噂のある人間が第二を代表して大会に出るのは、やめた方が良い
だろう」
「お前がやったのか?」
新之助は苦笑いした。「ばかを言うな。やるわけないだろうが」
「それなら出るべきだな。堂々と出るべきだ」
「噂のあるおれが出て、第二の看板に泥を塗ることにならないか?」
「やってないんだろう?」
「もちろんだ」
「それなら噂とか、第二の看板とか考える必要はない。絶対に出る
べきだ。お前が第二の名誉とか看板のために出場しなかったら、や
っぱり犯人だから出場しないんだと思うやつが出てくるかもしれん。
絶対に出るべきだ」
「そうかな」
確かに牛島の言う通りだと新之助は思った。出場しなかったら、
噂を認めることになる。
「ああ、絶対そうだ。おれは嘘は言わん」
「それなら出るとするか」
牛島はにやりと笑み、右手を差し出してきた。「それでこそおれの
ダチ公、鹿島新之助だ。二人で優勝しようぜ」
「出るからにはそのつもりだ」新之助はその手を握り返し、言った。
「しかし、誰が噂をばらまいているのかなあ、腹が立つ」
「気にするな。噂ってのは、アイスクリームみたいなものだ。みん
なで舐めているうちに、すぐに消えてなくなる」
「解せないのは、警察に事情聴取されたときは何の噂も立たなかっ
たのに、今頃になって噂が出たことだ」
「心当たりはないのか?」
「ない。全くない」
「警察から流れてきたのかな?」
「分からん」
牛島は両腕を組み、首を横に振った。
「お前の気持ちは良く分かるよ。おれも中学校のときに経験がある
が、身に覚えのない噂ほど迷惑なものはない」
「全くだ」
「警察がさっさと犯人を逮捕していたら、こういうことにはならな
かったはずだ。警察は当てにならないから、おれたちで犯人を捕ま
えるとするか?」
「手がかりはあるのか?」
「ない。まずはその手がかりを捕まえることだ。山際涼子の周辺の
人間に聴いて回ったら、何か出てくるかもしれん。明日から早速や
ってみようぜ」
「柔道の練習をさぼってか?」
「ばかを言え。練習をさぼるものか。探偵ごっこは暇なときだけだ。
柔道の次、勉強の前だ」
「全く、お前らしいや」新之助は大笑いした。
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