学校の噂

風来坊

第1話

 三年A組の教室に入った新之助は、異変を感じていた。

 級友たちの自分に対する態度がどことなくよそよそしく、避けて

いるようでもあるし、恐れているようにも見える。男も女も昨日ま

での気さくな打ち解けた様子は、全く影をひそめ、まるで異星の化

け物でも見るような眼で新之助を見た。

 新之助は教壇に向かって左端の前から三番目の自分の席に座ると、

「何があった?」と隣の級友に訊ねた。世界史の教科書に目を落と

していたその男生徒は、新之助に話しかけられ,衝撃を受けた様子だ

った。びくっと身体を硬直させ、新之助を見ようとはせず、目を下

に落としたまま「別に」と答えた。

 新之助の腹の中で短気の虫が目を剥いた。「別にじゃあ分からんだ

ろうが、言え。何があった?」思わず怒鳴りつけていた。

 教室の中が深夜のスケート場のようにしーんと静まり返った。誰

も新之助を見ようとはしないが、耳だけはこちらに向けている。そ

んな雰囲気が切っ先を研ぎ上げた錐のようにひしひしと肌に伝わっ

てくる。

 隣の級友は顔を起こし、新之助を見た。その眼には明らかに新之

助に対する畏怖があった。級友はひきつった顔で口をもぐもぐさせ

たが、言葉は出てこなかった。

 担任が入ってきて、ホームルームが始まった。担任は個別進路指

導と模擬試験の日程を説明した後、七月も近いというのにいまだに

冬の制服を着ている者がいる。ふとどき者は大学受験の内申書に影

響するかもしれないから、早急に夏服に替えるよう言い残し、職員

室へ戻っていった。続いて世界史の教師が入ってきて、授業が始ま

ったが、新之助は鉛を呑んだような気分で、授業を聴いていた。

「鹿島!」

 一時間目の授業が終わり、放心していた新之助に背後から声がか

けられた。振り返ると、最後列の真ん中の席の氏家が手招きしてい

た。

 氏家義彦。勉学優秀、眉目秀麗。185センチの長身と、脚が

長く、スリムな体型、そして蜜蜂がたかるバラのように甘いマスク

は、第二高校全女性の熱い視線を一身に集めている。それのみなら

ず、学年一、二を争う優秀な成績と温厚な性格は男生徒の人望も厚

く、四月には皆から押され、生徒会長に就任した。成績普通、容貌

普通の新之助とは去年から同じクラスで、妙にウマが合い、親友付

き合いをしていた。

 新之助は席を立ち、氏家の方へ歩いていった。

「何?」訊ねた新之助に氏家は立ち上がり、教室の外のベランダに

目配せした。そして教室のドアを開け、踊り場に出ると、ベランダ

側のドアを開け、外に出た。

 新之助は後ろからついていった。三階のベランダからは校庭が一

望できた。サッカーコートで男生徒が四人、ドリフトに興じ、手前

のハンドボールコートでは一年の女生徒が六人、キャッチボールを

していた。

「クラスの連中、何か変な感じだぞ」新之助は氏家の隣に立ち、言

った。

 氏家はそれには答えず、しばらくベランダの敷居のコンクリート

に両肘を乗せ、まつ毛の長い憂いを含んだ瞳で校庭を眺めていたが、

ふいに思い切ったように新之助に向き直った。

「お前、変な噂が流れているぞ」

「噂?」

「ああ、お前にとっては厄介な噂だ」

「どんな?」

「山際さんを殺したのは、お前だと」

「えーっ!」新之助は白昼の落雷に遭ったような激しい衝撃に見舞

われた。

 先月の中旬、九州の地方都市・A市を動揺させ、学内を震撼させ

る大事件が発生した。学校裏の河原で第二高校一の美貌を謳われた

三年C組の山際涼子が、暴行の末の絞殺体で発見されたのだ。早朝

ジョギングを日課にしている二十代の会社員が、いつものようにジ

ョギングの後の体操をするため河原に下り、着衣が乱れた半裸状態

の山際涼子の死体を発見した。警察はその日のうちに城南署に捜査

本部を設置、捜査を開始したが、事件発生から一カ月以上経過した

現在、犯人逮捕につながる目ぼしい手がかりは全く上がっていない

という。

 山際涼子の死体の傍に学校の靴箱から紛失した新之助のネーム入

りのテニスシューズの右側が落ちていたことから、事件の翌日、城

南署の刑事が二人訪ねてきて、新之助は事情を聴かれたが、事実を

ありのままに説明すると、二人は納得して帰っていった。腑に落ち

ないのは、刑事たちが学校へ新之助を訪ねてきた当初は、何の噂も

立たなかったのに何故、今頃になって自分を犯人視する噂が立つの

だろう。

「現場に落ちていたテニスシューズは確かにおれのものだが、犯人

はおれじゃない。あのテニスシューズは学校のおれの靴箱から盗ま

れたものだ。このことは刑事にちゃんと説明したし、警察は理解し

ているはずだ」

「おれはお前を信用するよ」氏家は同情に耐えないという風に、二

度三度とうなずいた。「お前は人を殺せる人間ではないし、嘘をつか

ない。それは分かっている」

「誰がおれを犯人だと言ってるんだ?」

「誰が言っているとは、特定はできん。皆が言っているとも言える。

噂とはそんなものだ」

「警察は何か言っているのか?」

「おれは聞いていない」

「くそっ! 腹が立つな」新之助は敷居のコンクリートを右足のか

かとで蹴った。「身に覚えのないことで、犯人みたいに見られるのは

たまらん」

「こらえろ!」氏家は新之助の首に右腕を回し、言った。「いいか、

人の噂も七十五日という。二カ月半の辛抱だ。三カ月したら、みん

なお前を犯人視したことなんか忘れている」

「二カ月半も我慢する自信はないよ。その前に爆発するだろうな」

 新之助は自嘲気味に笑った。自分が単細胞で短慮、短気だという

ことは良く分かっている。この性格のためにどれだけ、しなくても

良い損をしてきたか分からない。しかし、ものにこだわらない単純、

率直な男らしい性格だとも密かに自負している。

「鹿島、いいか」氏家は新之助の横顔を覗き込んで言った。「くれぐ

れも短気を起こすのはやめておけよ。お前、今度暴行事件でも起こ

したら退学だぞ」

「ああ、お前の忠告、肝に銘じておく」

 新之助は去年、交際相手の朝丘有希とデート中、新之助がトイレに行

っている間に有希をナンパし、断られた腹いせに有希に侮蔑の言葉

を投げかけた商業高校の二人組を追いかけていき、一方的にめった

打ちにしたことがあった。あばら骨を骨折した一人が警察に届けた

ため、学校の知れるところとなり、新之助は一カ月の停学処分を食

らった。処分が申し渡された日、新之助は校長室へ呼ばれ、校長か

ら直に今度問題を起こしたら退学もありうると言われたのだった。

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