episode・56 甲州裏道 田無宿
八王子本郷宿にある骨董屋・翠古堂では、芳佐衛門が帳場に座り、暇そうに書物を繰っていた。いや、暇そうに、ではなく、実際に暇なのだ。
翠古堂は、本郷宿に並ぶ周りの庶民的な店とは異なり、一幅数十両もするような掛軸をはじめとして、明珍の鍔や甲冑、唐国渡りの壺など、目の玉が飛び出るような値段の売り物が多い。
したがって、次から次へと売れるようなことはなく、現在の超高級品と同じようにたまに売れれば儲けが出るし、また、売り物には、そのぶんの値段が上乗せされていることは、言うを待たない。
帳場の奥の部屋には、昨晩の仕事から戻った御子神一味が、前澤をふくめて、ずらりと顔を揃えている。
どの顔を見ても、ゆとりがあるところを見ると、どうやらゆうべの仕事は、上首尾だったようだ。
「さて、ご一同……このたびのあがりは、いくらと思し召しす」
御子神が一同を見回し、上機嫌に続ける。
「なんと、千と二百七十両でござった!」
一同から低いうめき声が洩れた。
御子神は、それぞれに、七十両ずつ小判を手渡した。
当初の予定より、二十両も上乗せされた報酬に、かねてより不平をもらしていた松蔵たちふたりも、満足気な表情を浮かべる。
「では、前澤氏にも……」
「ほう、約束より五両多いな」
十五両も手渡された前澤が、ニヤリと笑った。
「前澤氏が仲間入りしたことに対する、拙者からのご祝儀でごさる」
「では、ありがたく頂戴しておこう。しかし、おぬしと捨五郎のぶんをあわせても、九百両近い金が残るが、それが攘夷の資金というわけだな」
「勘違いなされては困る。拙者と捨五郎は、くらしに必要な金以外は、一切懐に入れるつもりはない。
いずれ前澤氏にも、詳しく話すときが来ようが、我らは、卑しい商人どもの汚れた金を、大義のために活かすのであって、私腹を肥やすつもりは欠片もござらぬ」
「ふん、ご立派なこころざしだ。まあ俺は、金さえもらえれば、攘夷だろうがなんだろうが、どちらでもかまわんがな」
前澤が皮肉な笑みを浮かべると、捨五朗は顔をしかめるが、御子神は、いかにも嬉しそうに笑った。
「ふ、ふふ。前澤氏……貴殿は、相変わらず正直者でごさるな」
御子神は、己の欲望に忠実な男は嫌いではない。理屈をこねたり、下手な思想を言い訳にするようなやからより、よほど扱いやすいからだ。
「次の仕事も、この調子で願いたいものだ」
「さて、その次の仕事のことでごさるが……」
薄ら笑いを引っ込め、御子神が、不意に真剣な表情になった。
「じつは、もう一枚、詳しい商家の図面を入手しておる。
そこで、だ。ここは、間をあけず、引き続き仕事を片付けてしまおうと思うのだが……」
「小頭。そいつぁ、ちょっとばかり、せわしない話しでござんすね」
松蔵が異をとなえると、
「いま、このあたりにいる八州廻りは、馬場俊蔵ただひとり。おそらくゆうべのことで、手一杯になっていよう。
そして、まさか近場で、続けざまに盗賊があらわれるとは、考えてもおらぬはず……」
「なるほど、やつらの虚を突くんですね」
「そのとおり。我らは、仕事のさい、ふた月以上必ず間を入れてきた。やつらは、次もまた再来月か、それより先のことだと思い込んでいるだろう」
「ふむ……そう言われてみれば、たしかに、よい思案のように思えるな」
佐古田が同意をしめし、ほかの者たちがうなずく。
「よし決まった。では、今宵拙者が、青梅道の田無宿におもむき、下見をして……さよう、三、四日のちには、決行しようぞ」
「それは一向にかまわぬが、そのあいだ俺たちは、何をしておればよいのだ?」
前澤が口をはさむ。
「各々、無関係をよそおい、それぞれ八王子で宿をとり、遊んでいてくれたらよい。これは宿代だ」
御子神があがりのなかから全員に、一両ずつ手渡しながら続ける。
「決行の前日、この店の軒下に、小さな菅笠をぶら下げておく。それを見たら、客の素振りで店に集まるのだ」
「承知した」
井田が機嫌よくこたえた。一両の金があれば、たらふく食べて遊女を抱いてもお釣りがくる。
金に汚い松蔵たちも、儲け話しは、やぶさかではないらしく、了解のしるしにうなずいた。
御子神と捨五郎が詳しい打ち合わせに入ると、一味は、ばらばらに出立をずらしながら、店をあとにした。
御子神一味が、それぞれ八王子の町に散らばるのと、ほぼ時を同じくして、歳三たち一行が、本郷宿に足を踏み入れた。
昔なじみの平吉の煙管屋は、現在はコンビニエンスストアになっている八木宿の角を、曲がってすぐの場所にあった。
間口が狭く質素なたたずまいではあるが、なにしろ場所がよいので、そこそこ繁盛しているようだ。
この当時、喫煙率は、全人口の九割を超える、と言われるほど一般的で、たとえば、商家の小僧などが使いにやってくると、
「ご苦労さま。一服どうだい」
などと、ねぎらいの言葉をかけ、手代が小僧に煙草を勧める……というような光景が、当たり前のように見られた時代であった。
「おい、平吉はいるかい?」
峯吉が声をかけながら店先に入ると、
「なんだ、峯吉つぁんか。何の用事だよ。俺はいそがし……」
そこまで口にしたところで、連れだった歳三に気付き、平吉は、口をあけたまま固まった。
「平吉。元気そうだな。今日は、おめえに、ちょっとたのみ事があるんだが……」
「と、トシさん!」
平吉の声が震えるのも無理はなかった。歳三の暴れっぷりは、もはや八王子宿では、伝説の域に達していたからだ。
つい先日、痛い目にあわせた、いまは祐天一家にいる、初澤村の繁造との大喧嘩は、棍棒や長脇差を振り回す繁造と五人の仲間を、一瞬で叩きのめした鮮やかさが、不良少年のあいだの語り草になっていた。
「平吉。おめえを男と見込んで、たのみ事がある。なに、迷惑はかけねえ。俺の話しを、きいてくれるかい?」
「と、トシさん、やめてください。俺みたいな者に、頭を下げるなんて……トシさんのたのみなら、たとえ火のなか水の……」
「ばか。大げさなことを言うな。ちょいと、おめえんところの二階を、借りたいだけだ」
「な、なあんだ。てっきり喧嘩の助っ人をたのまれるのかと……」
平吉が安堵したように、ため息をついた。
「おい、俺はいま、堅気の薬屋だぜ。家業を継いで、今度嫁さんをもらうおめえに、そんな物騒な話しは、持ちこまねえさ」
とは言ったものの、歳三たちが相手にしようというのは、多摩の不良などとは、比べものにならない凶悪な盗賊一味である。
もちろん歳三は、平吉に迷惑をかけるつもりはなく、この店先を通るかもしれないやつを、見張るだけ……と、伝えるつもりで、峯吉や八郎にも念を押していた。
「わかりました。さあ、トシさん、それにお連れの方も、とりあえず上がってください」
「すまねえな」
歳三たち三人が、なかに入った直後、店先を、前澤が通りすぎたが、もちろんお互いの存在は、まだ認識していない。
――その日の深夜。
甲州裏道(青梅道)の田無宿に、まるで黒い影がにじみ出るように、御子神紋多が姿をあらわした。
田無宿は、青梅道から秩父往還吾野道が分岐し、その反対が府中道。ほかにも石神井から中山道に抜ける道、布田に抜ける道などが交わる交通の要衝であった。
集落としては、鎌倉時代から存在していたが、宿場町として発展したのは、青梅宿と同じように、江戸城の改修にともなう、石灰の需要による通行量の増加が、その理由である。
家数二百八十四軒。人口は約千六百人。甲州道中の日野宿と、ほぼ同じ規模の、にぎやかな宿場だ。
江戸中期までは、農家が中心の宿場であったが、文化、文政以降、農間渡世(のうまとせい)の商家が増えて、急速に発展し、いまでは、多摩郡北部の中心地になっていた。
御子神は、静まりかえって、ひと通りも絶えた深夜の青梅道を、高札場を横目に、中宿から下宿に入る。
名主の下田半兵衛の屋敷を右手に見ながら、清戸道をすぎて、さらに東へ。西行寺の少し先の宿場の外れに、目指す造り酒屋・磐田屋五兵衛の店蔵があった。
磐田屋は、立派な酒蔵がふた棟並び、店も堂々とした構えだ。
御子神は、店の周りを観察する。店舗は街道に面しているが、大きな蔵は、店の裏手を流れる玉川上水の田無分水の岸際から、連なるように建っている。
裏手の大きな蔵は、酒造のためのもので、貯めこんだ金は、外観からはわかりにくいように、店舗に造りつけになっている、小さな蔵にあることが、祐天の手下の調べでわかっていた。
(あとは、どこから侵入するか、だな……)
店舗は、街道に沿って横に広く、間口の狭い京や八王子の町家と違い、江戸の店のようだ。
店舗に造りつけになった小さな蔵と、物置小屋のあいだには、屋根がわたされ、長屋門を模した造りになっており、護りが堅く表からの侵入は困難だろう。
御子神は、裏手の玉川上水田無分水に回りこむ。分水だけに幅一間半ほどしかないが、わざと橋を架けず、それが堀がわりとなり、その奥に低い板塀が建てまわされていた。
(ふむ、これなら侵入は容易いな……)
御子神は、助走もつけず用水路を飛び越え、対岸に着地すると同時に膝を曲げ、毬が跳ねるように、もう一度飛びあがり、低い板塀も飛び越えた。
左手には、ふた棟の酒蔵が連なり、中庭を介して店舗の裏側が見える。街道沿いが厳重なだけに、内側は無防備で、雨戸が閉まっているだけで、特に防犯に対する備えは見られない。
(ふふふ、入ってくれと、言わんばかりではないか)
御子神の顔に、楽しげな笑みが浮かんだ。
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