episode・52  日野信蔵


「まあまあ、新八さん、もう一杯」

 井上松五郎は、自分の杯を干すと、新八の杯に酒を継ぎ足した。

「いただきます。松五郎さん、これはいい酒ですねえ」

 新八が、ほんのり赤い顔でこたえる。

「あたりめえよ。こいつは、知り合いの熊川の造り酒屋の生だぜ」

 松五郎が差し出す徳利が杯にあたり、カチカチと音を立てた。

「松っさん、もう、そのぐらいにしといたほうが……」

 隣に座っていた山崎兼助が、松五郎をたしなめた。

「なにを言ってやがる。俺はまだ酔っぱらっちゃあいねえぞ」

 そう言ったとたんに、松五郎は、ばたりと後ろに倒れこみ、鼾をかきはじめた。

「永倉さん。すいませんね。松っさんは弱いくせに、やたらと飲みたがるんですよ」


 すっかり新八と打ち解けた松五郎は、仲間を紹介すると言って、道案内の山崎兼助と、組は違うが、同じ日野宿の千人同心、日野信蔵を呼び出し、酒盛りがはじまった。いずれも天然理心流の剣士である。

 兼助は、いくら飲んでも酔った素振りを見せなかったが、松五郎は、陽気にはしゃいだ挙げ句、早々と潰れてしまった。

「兼助さんは、井滝伊勢五郎師範の門弟だそうだね」

「ええ、そうですが。どうしてそれを……松っさんから、きいたんですか?」

 酒盛りでは、おもに新八が江戸の様子を話し、あまり剣術の話題は出ていなかったので、問われて、兼助が驚きの顔を見せた。

「じつは八王子横山宿で、八幡の伊之助親分からきいたのさ」

「ははあ、なるほど。八幡の親分に会いましたか。では永倉さんは、蔵六師範に入門したのでしょうか?」

「いや、いまは客分の扱いだ。まあ、客分といっても、ふた月も居候を決めこんでるけどな」

「ははは。蔵六師範のところに武者修行で、そんなに長く居座ったのは、永倉さんが、はじめてでしょうね」


 兼助が笑う。新八と同い年の信蔵は、話をきくだけで、ほとんど口をはさまないので、気をきかせて新八が話を振る。

「ところで日野さんは、やはり近藤周助師範の門弟なのかい?」

「いえ、わたしは、松崎和多五郎師範に入門しています」

「なんと、こいつは驚いた。おまえさん、和多五郎さんの弟子だったのか!」

「永倉さんは、和多五郎師範をご存知なのですか!?」

 信蔵が驚きの声をあげた。

「ご存知もなにも……ゆうべは、真夜中に、和多五郎さんに稽古をつけてもらっていたら、蔵六師匠に、うるさい! と、こっぴどく叱られたよ」

 新八の話に、信蔵が笑った。


 日野信蔵は天保十年(1839年)生まれの千人同心。河野組の組頭である。

 慶応元年の将軍上洛のさい、井上松五郎と共に上洛している。帰府したのち、慶応四年(1868年)には、彰義隊に合流して新政府軍と戦い、身柄を拘束された。

 翌、明治二年に釈放されると、自由民権運動に参加。日野町長となり、日野宿の発展に尽くした。

 後年は人格者として知られる信蔵も、このときは、まだ十八歳。血気盛んな年頃であった。


「永倉さんは、神道無念流を修行なさっていたのなら、練兵館にもいらしたのでしょうか?」

 信蔵の目が輝いている。当時、剣術に興味がある若者ならば、江戸者の新八を前にしたら、江戸の名流に関心を寄せるのは、当然のことであった。

「いまじゃあ練兵館のほうが有名だが、江戸じゃあうちの撃剣館が無念流の本家だ。でも交流稽古で、何度も行ったことがあるぜ」

「なるほど。でしたら、村野源五右衛門殿という門人が、いませんでしたか」

 兼助が口をはさんだ。

「むらの……うーん、いたかなあ。覚えがねえなあ。なにしろ練兵館の門弟は、千人以上いるからな。顔を見りゃあ思い出すかもしれねえが……その村野源五右衛門ってのは、兼助さんの知り合いなのかい?」

「知り合いというか、俺の地元の砂川村の名主の跡取りですよ」

 村野源五右衛門。後の砂川源五右衛門である。

 水戸浪士に呼応して、天狗党の挙兵に参加する途中、新徴組に見つかって、とり囲まれ、十数名の追っ手を斬り破った剛の者である。

 佐藤彦五郎の息子である俊宣が、自由民権運動に奔走し、社を結成したときに、後見人になったのが、この砂川源五右衛門であった。


「えっ、名主さんが練兵館の門人なのかい。驚いたね。トシさんの義理の兄貴といい、多摩郡ってのは、本当に血の気が多いな」

 新八が目を丸くする。

「彦五郎さんも、新八さんに引き合わせたかったのですが、代官所の用事で、手附の網野久蔵さまと、本所の津軽前(韮山代官江戸屋敷)まで行っておりまして、帰りは、明後日なんですよね」

「そりゃ、残念だなあ。トシさんの兄貴には、ぜひ会ってみたかった」

「彦五郎さんも、きっと残念がりますよ」


 そのとき信蔵が、おずおずと新八に声をかけた。

「あ、あの……永倉さん。お願いがあるのですが……」

「どうしたんだ、あらたまって」

「もし、よろしかったら、わたしに稽古をつけてもらえませんか?」

 信蔵が、ひたむきな眼差しで新八を見つめる。

「うーん、稽古か……」

 新八が腕組みをしながらつぶやいた。松五郎に飲まされたとはいえ、新八は、泥酔しているわけではない。

 武芸者として、いつ襲われても対処できるよう、必要以上は飲まない。という、最低限のたしなみは持っていた。

「まあ、それはかまわないが、外はもう真っ暗だぜ」

「それなら心配いりやせんぜ。ここんちの土間は、ふたりぐらいなら、余裕で稽古できます」

 すかさず兼助がこたえる。


 武州多摩郡の百姓は、養蚕を兼業していることが多い。松五郎の家も、雨の日でも作業できるように、土間が広くとられていた。

「よし、じゃあ一丁やるか!」

 その気になった新八が言った。

「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」

 信蔵が笑顔をみせる。

 剣術をはじめて二年になるが、いままでは、地元の剣士としか稽古したことがなく、神道無念流免許皆伝の新八は、江戸に憧れていた信蔵にとって、眩しいばかりの存在だったのだ。

 井上家のだだっ広い土間で、新八と信蔵の稽古がはじまった。


 土間は吹き抜けになっているので、隅にがらくたを寄せただけで、天井の高い十二畳ほどの空間が、楽にできあがる。

 その空間で、ふたりが袋竹刀でうちあっている。通常の竹刀とちがい、蟇肌ひきはだ竹刀と呼ばれるこの竹刀なら、激しい音は立てないし、防具も必要ない。

 新八は、幼いころから剣術ひと筋。対する信蔵は、和多五郎に入門してまだ二年あまり。経験、実力ともに、天地の差があってしかるべきであった、が、


(こいつは驚いたね。信蔵のやつ、永倉さんと、まともに稽古になってるじゃねえか)


 兼助が目を丸くしたのも無理はない。一方的に新八が稽古をつけているのにはちがいないが、信蔵の太刀筋は、驚くほどになっていたのだ。

「日野さん、あんた剣術をはじめて、本当に二年なのかい?」

 驚いたのは、新八も同様であった。それほど信蔵の竹刀捌きは、堂にいっていた。

「誓紙を出して入門したのは、二年前ですが、それ以前から、父に剣術の手解きは、受けていました」

「だろうな……それだけ遣えれば、あと少しで切紙間違いなしだ」

「本当ですか! 永倉さんに、そう言っていただけて光栄です。じつは最近、少し自信をなくしていたんですよ」

 信蔵の意外な言葉に、思わず新八が竹刀をおろした。


「自信をなくすようなことがあったのか?」

「いや、まあ……いまは、北辰一刀流の玄武館にいますが、兄弟子に真田範之介という者がおりまして……」

 信蔵は、ことあるごとに、この範之介と比較されるのが悩みの種だった……と、経緯を話しはじめるが、どうにも歯切れが悪く、兼助が助け船を出した。

「信蔵の口から兄弟子のことは、話しにくいでしょうから、その先は、俺が説明しますよ」


 真田範之介は、天保五年生まれ。多摩郡左入村(八王子市左入町)の名主・小峰久治郎の長男である。

 八王子界隈きっての豪農、父久治郎は、増田蔵六の門弟で、自宅に道場を造り、十三年かけて、免許を授かったほど、剣術熱心な男であった。

 その父の影響もあり、嘉永五年、範之介は、松崎和多五郎の門を叩いた。

 努力のひとだった父とは異なり、範之介は、文字通り天才としか言い様のない、非凡な剣術の才能を持っていた。

 入門後わずか七ヶ月で切紙、切紙から目録まで七ヶ月、中極意目録までは一年七ヶ月……父が六年近く要した目録を、半分の年月で取得していた。

 天然理心流は、他流派と比べ、免許まで長い年月を要した。範之介は、流儀はじまって以来の天才児と言ってよく、比肩しうるのは、沖田総司ぐらいしかいない。


 和多五郎が持つのは、剣術の指南免許だけなので、範之介は、柔術、棒術の指南を受けるため、安政二年、山本満次郎にも入門している。

 しかし、翌、安政三年、千葉栄次郎が継いだばかりの北辰一刀流、玄武館に移籍した。

 そこでもたちまち頭角をあらわし、江戸随一の道場の塾頭をつとめた。

 天才の名をほしいままにした範之介が、新たに北辰一刀流に入門したのは、剣術の修行というよりも、以前から熱心だった、水戸の攘夷運動との連携を深める意味が大きかった。

 というのも嘉永五年、範之介が和多五朗に入門した同じ年に、小仏関番人見習いで、のちに、一橋家に仕えた川村惠十郎が、そして、薩摩邸浪士の副総裁として暴れ回った、落合直亮が入門しているのだ。

 この三人は、出身地も近く、なおかつ、勤王の志しが強かった。

 そして、三人が出会った翌年にはペリーが来航し、やがて、それぞれが攘夷運動に傾倒してゆく……。


「その真田範之介さんが、久しぶりに、和多五郎師範のところに来やして、信蔵を、しきりに江戸に出ないか、と誘ったそうなんでさ……」

 信蔵が範之介に誘われて、嬉しかったのは、まちがいなかった。なにしろ、天然理心流はじまって以来の天才からの誘いだ。

 しかし信蔵は、攘夷運動に関わるよりも、まだ自分の腕を磨きたいという意思を範之介に伝えると、


――おまえは剣術を修行して、それをなんのために活かすのだ? ただ腕を磨くだけでは、己が満足するだけで、世の中には、なんら益することがない。剣術には、目的があってしかるべきだ。

 

 範之介は、そう言って、信蔵を口説いた。


――しかし、わたしには、大樹公に仕える、千人同心としてのつとめがあります。国事に奔走することが、千人同心のすべき正しい行いとは思えません。


――夷狄が我が皇国を冒さんとする非常時に、そのような些事に拘っている場合か。大樹といえども天帝の臣であることに、かわりはない。

 その畏れ多い天帝の尊厳が、夷狄どもに穢されようとしているのだ。いま立たないでどうする。


 水戸学に深く傾倒していた範之介は、見下したような表情で信蔵に言った。


「そう言われても、わたしに、なにかができるとは思えません。その前に、いざ、事あるときのため、剣術の腕を磨くほうが、わたしにとって急務だと思うのですが……」

 新八が、困惑の表情を浮かべた。

「まいったな……信蔵さん、俺も全福寺の和尚さんに、まったく同じことを言われたよ。剣術を修行して、それをどう活かすのか? ――ってね」

「そうなんですか! それで、新八さんのこたえは……」

 信蔵の目が期待に輝いた。新八は、自信にあふれた笑みを浮かべながらこたえる。


「わからん!」

「へっ、新八さんもわからないんですか!?」

 みるみる落胆の表情にかわる信蔵に、新八が明るく言った。

「おい、だって俺は、まだ信蔵さんと同い年だぜ。そんな遠大な人生の意味や目的がわかってたまるか!

俺は、迷わず剣術を極める。できるのは、それだけだ!」

「わっはっはっは!」

 兼助が腹をかかえて笑い転げ、涙をぬぐいながら新八の肩を叩く。

「偉い! 新八さん、俺ぁ、あんたに惚れたぜ。なかなかそこまでキッパリと、言えるもんじゃねえ。あんた、たいしたタマだ!」

「おいおい、兼助さん、それは俺を誉めてるのか、バカにしてるのか、どっちなんだい」

「もちろん誉めてるのさ。おい、信蔵、おめえも、くよくよしてねえで、ちったあ、新八さんを見習いねえ」


 新八のおかげで、それまでの重苦しい空気が一掃され、信蔵は、ふしぎと気持ちが、楽になっていることに気づいた。

「そうですね……思い悩む暇があったら、いま、己が為すべきことにいそしむ。考えるのは、それからでも遅くない……永倉さん、ありがとうございます」

「よし、すっきりしたところで、稽古を続けるぞ!」

「はいっ!」


 ふたりは、稽古を再開するが、先ほどまでとはうって変わり、新八の動きが精彩に欠けている。それを見て、兼助が首をかしげた。

 信蔵が晴眼から正面に斬りこむと、新八は体をかえながら、竹刀をあわせるが、一瞬その動作が遅れ、竹刀が左腕を叩いた。

「まいった一本だ。信蔵さん、なかなかやるなあ」

 そう言う新八の足元が、少しふらついている。どうやら、今ごろになって、酔いが回ってきたようだ。

「新八さん、酒が回ってきたんじゃないのかい?」

 心配する兼助の言葉に、新八が、

「いや、そんなこたあねえ。さあ、信蔵さん、もう一本いこう!」


 自信ありげにこたえ、信蔵が再び正眼から斬りこむと、新八は、竹刀を突きだすようにそれをはじいた。

 が、どうにも手の内に、ちからが入らず、そのまま竹刀がすっぽ抜け、放たれた矢のごとく飛んでゆこうとする。

 飛びだそうとするまさにその瞬間、新八は咄嗟に、竹刀をつかみなおした。

 しかし、ほとんど手のなかから飛びだした竹刀は、信蔵の肩先を見事に突いていた。

「一本!」

 見ていた兼助が、思わず口にだし、新八は、あっけにとられた。

 というのも、いまの突きは、あくまでも信蔵の竹刀の軌道をそらすだけのつもりのもので、そのまま突きを入れるには、間合いに無理があったからだ。


 天然理心流では、がっちり握ってしまうと、自由な動きができず、進退が固くなってしまうという理由で、左手の小指を柄から外して竹刀を軽く握る。

 それを、手で握った卵が割れないように……などと教える。

 したがって、竹刀を持つ手にちからを入れるのは、まさに相手にあたる、その瞬間のみである。

 ところが酔いが回り、竹刀を持つ握力が落ちていたので、普段よりさらに緩く握っていたことによって滑り出た竹刀が、信蔵の肩先を突いた。ただそれだけの、偶然に近い出来事であったが、新八は、あることに思いあたり、息を飲んだ。


(まてよ、この感覚は……)


 しかし、激しい運動のため、血液中に急速にアルコールがめぐり、新八の意識は、朦朧として、その場に座りこんでしまった。

「ほら、言わんこっちゃねえ。新八さん、しっかりしねえ……」

「だ、大丈夫でしょうか」

「あれだけ飲んで暴れたんだ。酒も回ろうってもんだぜ」


 兼助の呆れた声と、信蔵の心配そうな声を、遠くにきいたような気がするが、新八は、なにやら、ぬるま湯のなかを漂うような、ふわふわした心地よさに包まれる。

 新八の意識は、そこで途切れた。


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