episode・53  八王子本郷宿 翠古堂

 前澤とわかれると、山口は、あてどなく八王子宿を歩いた。

 いくら飲んでも酔った気がせず、これ以上飲む気には、ならなかったからだ。

 高札場に近い路地にあった店を出て甲州道中を西に、店々を冷やかしながら歩く。まだ日暮れ前の宿場は、人びとがゆきかっていた。

 八日市をすぎ八幡ときて、八木宿の路地を曲がると本郷宿である。

 本郷宿は、横山宿のような大店は少なく、下駄屋、荒物屋、茶屋、菓子屋、小料理屋などの庶民的な店が並んでいるが、武具屋があるのが、いかにも千人同心のいる八王子らしい。


 しばらくゆくと左手に善龍寺という寺が目に入り、なんとなく境内に足を踏み入れ参拝する。

 善龍寺は、長亨二年(1488年)、日英上人の創建になる古刹で、明治四年、慶喜に従って移住し、静岡で客死した増田蔵六が葬られた寺だが、それはまだ後の話だ。

 山口が参拝したのは、信心深いからではなく、佇まいに惹かれたからにすぎない。

 そもそもこの男、神も仏も信じてなどおらず、頭のなかは、先ほどの勝負で占められていた。

 山口は、まるで商人のような父や、学問はあるが、剣の腕前はからっきしの兄を軽蔑していた。

 たしかに、いまのような時代、剣術の腕前よりも、算勘に長けた父や兄のほうが、出世の階段をのぼるのは速いし確実だ。

 しかしはたして、それが武士と言えるのだろうか?


 幕末期、来日した外国人が、侍に驚嘆し畏怖したのは、なにも彼らが刀をたばさんでいたからではない。彼らが日本人を、ただならぬ人種と見たのは、侍の精神性そのものにあった。

 武士という存在を、現在の日本人の延長線上から考えることは難しい。それは、日本人がケニアのマサイ族戦士の思考が理解できないのに似ている。

 そもそも武士と現代人では、生死感そのものが違うのだ。現在の日本人は、生き甲斐だの、生きざまだの、どう生きるかということを、しきりと口にする。

 しかし武士は、どう生きるかなどということは、決して口にしない。

 「葉隠」にあるように、彼らが常に観ているのは、いかに死すか。ということだ。

 現在の日本人や外国人から見て、狂気の沙汰としか思えない切腹は、武士にとって、名誉ある死であった。

 武士がもっとも恐れたのは、死ぬことではなく、恥をかくことである。

 武士は死にかたで、その価値が決まる。彼らは、いかに生きるかということよりも、いかに死すか。ということに、もっとも重きを置いていたのだ。


 山口は、平田との勝負において、あっさり自分の死を受け入れた。

 それは、己の武士道に照らして、しごく当たり前の結論にすぎなかった。が、しかし、何度も修羅場をくぐった山口にしても、死を覚悟したのは、生まれて初めての経験だった。

 そのことが、酒の酔いを受けつけず、酒では決して得られない高揚感をもたらしていた。


(やはり、剣客というのが俺の本性……ということか)


 参拝をすませ、山門を抜け町に出た、そのとき。

 目の前を商人姿の小男が通りすぎる。うつむき加減に、とぼとぼ歩くその男を見たとたん、山口の身体に、かすかな緊張が走った。


(こやつ……ただ者ではない)


 その一瞬の緊張を感じとったのか、小男がちらりと目を向けるが、山口はそのときには、すでに気配を絶ち、人畜無害な人間を装っていた。

 町にはまだ、多くのひとが歩いている。小男は、それにまぎれた山口を、気にとめることなく、いかにも商人らしく猫背で通りすぎるが、腰の位置がまったく上下していなかった。


(あやつが前澤の言っていた小男に、間違いあるまい)


 武芸者は、戦うときのみに武芸者になるわけではない。立つ、座る、歩く、そのすべてが、武術の理合にかなっていなければならない。

 御子神が、清河の落とした巻物を拾うときにすら、まったく隙を見せなかったように、いつ、いかなるときでも、即座に敵に対応できないようでは、武芸者とはいえないのだ。

 それは逆にいえば、武術の理合にかなっていない姿勢や動きをすることが、大変な苦痛を伴うということである。

 商人に化けた御子神も、無意識のうちに、武芸者としての片鱗を見せてしまったが、目ざとくそれに気づいた山口も、やはり、ひとかどの武芸者だといえよう。


 門前の茶店で団子を購いながら、それとなく山口が見ていると、小男は『翠古堂』という屋号の、骨董屋の暖簾をくぐるところだった。

 翠古堂は、庶民的な店が並ぶ本郷宿では異質の店だ。日常的な古道具ではなく、書画骨董、甲冑や武具などを扱っている。

 こうした店の性格上、わざわざ店賃の高い目抜通りに店舗を出す必要がなく、目立たない本郷宿に店を構えていた。

 客筋は、絹で財をなした商人や、名主や村役人、千人頭などの金持ちが多く、盗人宿と同時に、獲物を見つけるという役割を果たしていた。

 また、こうした商売柄、見知らぬ人間が出入りしても、近隣の家に怪しまれない。という利点もあった。


 翠古堂の主人、芳左衛門は、盗みには、一切関わらない。だから、一味が集まっていても、その場には顔を出さず、いつもと同じように帳場に座り、暇そうに書物をめくっていた。

 店舗の奥の居間では、御子神一味が、今夜の打ち合わせに余念がなかった。

 初めて仕事に加わる前澤に、御子神が仕事の内容を説明して、一味を紹介する。

「さて前澤氏……すでに顔は見知っていると思うが、あらためて仲間を紹介しよう」

 その部屋には、六人の男たちが集まっていた。

 御子神はまず、新家粂太郎の内弟子、井田修造と佐古田新吾を、前澤に紹介するが、すでに道場で顔をあわせている。

 佐古田は剣術の腕前こそ、たいしたことがなかったが、投げ技や組み技よりも、当身を多用することに特徴がある、制剛流という柔術が得意であった。

「こちらの者どもは、前澤氏も存じておらぬだろう。拙者の片腕、東金の捨五郎でござる」


 前澤がうなずくと、次にふたりの男を指した。

「こちらが土蜘蛛の与平衛。身軽さにおいては、誰にも引けをとらぬ……

そして、こちらは、鍵屋の松蔵。どんな堅固な鍵でも、たちまち開ける鍵の名人だ」

「どの男もこの道の達者か……俺のような、剣術しか取り柄のない者が、いったい、なにをすればよいのだ?」

「さて、そのことでござる。 前澤氏には、我らが仕事をしている最中、店の外で見張りをしてもらう。

万が一、役人や通行人が、我らを怪しんだ場合、速やかにそれを排除してもらいたい」

「なるほど……で、そのときは、相手を決して殺めてはならぬ、というわけだな」

「ふふふ、そのとおり。さすが、拙者が見込んだだけあって、のみ込みが早い」

 御子神は、上機嫌そうに笑うと、仕事の細かい段取りを伝える。

「各自、出立の時刻をずらし、使う道も別々にする。前澤氏は、道順がわからぬと思うので、拙者といっしょにきてもらおう」

「承知した」


 御子神が言い終えると、さっそく堅気の商人の格好をした捨五郎が、そそくさと部屋から出て行った。

 残りの連中も、順次部屋を出てゆき、最後に前澤と御子神のふたりが残った。

「さて、あと四半刻したら、我らも出立いたす」

「心得た」

「ところで、まだ前澤氏の剣術の流儀を、伺っておらなかったが、貴殿は……」

「そうか、まだ話していなかったかな……まあ、知らぬとは思うが、俺の修めた流儀は、天然理心流と申す」

「なんと!」

 御子神の瞳に、鋭い光がさした。

「天然理心流といえば、八王子千人同心の増田蔵六師範が、ここ八王子の千人町で教授しているときく。江戸っ子の貴殿がなぜ?」

「ほう、よく知っていたな。だが天然理心流は、増田蔵六師範だけではない。ほかにも戸吹で松崎正作師範が、そして江戸の牛込柳町で、近藤周助という師範が、道場を開いている」

「では、貴殿は近藤周助師範の門人なのでござるか」

「いや、違う。早合点しねえでくれ。俺の祖父は、御林奉行配下の同心だった……

祖父の上役の桑原永助師範が、天然理心流の近藤三助・先師の弟子で、指南免許を授けられていた」

「ほう、ということは、その桑原永助さまは増田蔵六師範の……」

「弟弟子にあたる。俺は、祖父の勧めもあり、桑原師範に剣術を習ったというわけだ」


 天然理心流には、千人同心の増田蔵六系統、蔵六の故郷、戸吹に伝わった、松崎正作の系統、多摩の百姓に伝わった近藤周助の系統など、いくつかの分派にわかれていた。

 砂川村には、蔵六の弟弟子、井滝伊勢五郎が、戸吹の隣の油台村には、柔術のみを伝える戸田角内などもいた。

 そのなかでも、近藤三助から幕臣に伝わったのが、この桑原永助の系統であった。

 桑原は、小普請組、津田美濃守組に属していた御家人で、近藤三助に師事していた。

 ところが三助が早世してしまったため、兄弟子の蔵六とともに、天然理心流開祖の近藤内蔵之助の高弟で、幕臣の小幡万兵衛に、指南免許を授かったのだ。


 小説などの影響で、すっかり百姓の田舎剣術あつかいされているが、天然理心流は、このように、れっきとした幕臣のあいだにも伝承されていた。

 桑原永助の門人・小野田東市は、近藤勇がなれなかった、講武所の剣術指南役に就いている。

 しかし、天然理心流の各派は、微妙に牽制しあっていたのか、対立こそなかったが、お互いの交流があった証拠が残っていない。

 ただし日野信蔵が、松崎和多五郎から近藤勇門下に移ったり、小野田東市の屋敷が、試衛館のすぐ近所の牛込原町にあったりと、お互いに面識はあった、と考えるのが自然であろう。


「ところで前澤氏。その天然理心流の師範で、山本なにがしという名前をご存知か?」

 御子神は、祐天仙之助からきいた名前を出した。

「ふうむ……たしか、増田蔵六師範の高弟に下原刀の刀鍛冶の棟梁で、山本満次郎という名手がいる……と、きいたことがあるが、詳しいことは知らぬな」

「さようか」

「その山本が、どうかしたのか?」

「いや、どうもせぬが、拙者の知人が、山本満次郎の弟子に試合で負けたときいたので、気になっただけでござる」

交流つきあいがないので、よくは知らぬが、山本は、剣術だけではなく柔術も名人だということだ。その門人に、凄腕がいても、おかしくはなかろう」

「ふむ。拙者は、その天然理心流の技を見たことがないが、どのような流儀なのであろうか?」

「言葉で説明するのは難しいが、ひと言でいうと、竹刀稽古よりも真剣で斬りあう術に重きを置く、実戦的な流儀だ。

まあ、泥臭いと悪口を言うやからもいるが、いざ斬り結んだら、最後に立っているのは、俺たち天然理心流さ」


 前澤の言葉に御子神が、いかにも嬉しそうな笑みを浮かべた。

「なるほど……」

 御子神は、いつか、おぬしと斬り結んでみたいものだ……という言葉を飲みこんだ。

「さて、そろそろ刻限でござる。我らも出立しよう」

 話を切りあげ、御子神が席を立つと、前澤がそれに続いた。

 時刻は、四つを回ろうとしていた。

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