episode・16 小仏峠・後 龍尾剣
やくざ者にとり囲まれた商人は、恫喝されても、どこ吹く風で平然としていた。
口許には、うすら笑いすら、うかべている。
「おい、ゴロツキっての俺たちのことか!」
「おめえら、
「なめるな、若造!」
額の傷の男は、怒鳴りながら、長脇差を抜き、残りのふたりも、それにならった。
「おい。俺が抜いたら、てめえら残らずお陀仏だぜ……まあ、可哀想だから、お情けで、飛車角落ちで相手になってやろう」
商人は、腰の長脇差を抜かず、荷物にくくりつけていた、竹刀を手にとった。
「竹刀だと……ふざけるなっ!!」
額の傷の男が、いきなり斬りかかった。
「――へえ」
新八は、それを見て、かえって感心してしまった。男に、まったく躊躇がなかったからだ。
普通は、やくざが堅気を傷つけてしまった場合、ましてや、殺してしまえば、それは、すなわち凶状持ちになり、居場所を失うことになる。
それなのに、ためらいなく殺しにかかったということは、自分は、甲州では捕まらない。と、自信を持っているからに、ほかならない。
(なるほど。野口の言うとおり、甲州は、なかなか楽しい場所らしい……)
喧嘩沙汰には慣れているらしく、その太刀筋は、侮れない鋭さであったが、商人は、竹刀を構えたまま左足を引き、身体を横にすることで、難なくかわした。
「げふっ」
かわりに、斬りかかった額に傷の男が、咳こむような声をだして、膝をつき地面にうずくまった。
残ったふたりは、何が起きたのかわからず、気を呑まれたように、呆然と突っ立っている。
(やはりな……見事な体さばきだ)
新八には、はっきりと見えていた。
商人は、体をかわすだけではなく、ほんの半歩ばかり前に足をすすめていた。
そこに、男が斬りかかったので、特に突いたわけでもないのに、間合いが縮まり結果として、男の脇腹に、竹刀が突きこまれたのだ。
「さあ、次は、てめえらだ。――なんなら、ふたり、同時にかかってきてもいいぜ」
商人が、不敵な笑みを浮かべた。
「て、てめえ……
「――おい、富。これはいったい、なんの騒ぎだ」
そこに、いきなり声がかかった。
声をかけたのは、道中合羽に三度笠の渡世人が三人と、浪人者がひとり。
「素人相手に、なにをぐずぐず手こずっていやがる。さっさと片付けろ」
先頭にいた渡世人が言った。
三度笠から覗く顔は、陽に焼けて深い皺が刻まれており、チンピラ三人とは、明らかに貫禄が違う。
「だ、代貸……」
加勢があらわれたことで、六対一。残ったふたりの表情に、勢いが戻った。
「――よお、大変だなあ、薬屋。よかったら、助っ人しようか?」
それまで、黙って見ていた新八が、商人に声をかけた。
「余計なお世話だ……と、言いたいところだが、こう、次から次へと、蠅みたいに湧いてくるんじゃあ、キリがねえ。何人か引き受けてくれると助かる」
「よし。引き受けた! なあに、謝礼は、うどんを奢ってくれればそれでいい」
そう言いながら、新八も竹刀をとって、三人の渡世人に向かって、歩み寄り、八双に構え、
「さあ、いいぜ。かかってきな」
と、朗らかに笑った。
「ふざけるな! くたばれっ!」
先頭の、代貸とよばれていた貫禄のある渡世人は、長脇差を抜くと、新八に斬りかかった。
その瞬間、新八の竹刀が、袈裟懸けに振りおろされた。
「ぎゃっ!」
竹刀とはいえ、防具なしで首筋の急所を強打され、代貸と呼ばれた男が、悶絶する。
新八は、まったく歩みを止めず、次の一歩と同時に、袈裟懸けに振りおろした竹刀を、そのまま斜めに振りあげる。
ふたりめの男は、長脇差を抜こうとして果たせず、新八の竹刀に脇腹を叩かれ、その場に崩れ落ちた。
新八は、止まる気配を見せず、振りあげた竹刀で、三人めの顔面を、押しつけるように強打すると、その男は、白眼を剥いて失神した。
男は、柄に手をかけたばかりだった。新八の行動が、あまりにも唐突で、反応しきれなかったのだ。
――天然理心流・龍尾剣。
竹刀剣術の隆盛とともに、変わってしまったのが、この面打ちであろう。
江戸も中期までは、面打ちといえば、刀を上から打ち下ろしたりせず、顔面を押し斬りするのが主流だった。
そうしなければ、乱戦の場合、振りあげたぶんだけ攻撃が遅れるし、相手が兜や鉢金をつけていた場合、致命傷をあたえるのが、困難だからだ。
しかし、竹刀剣術が流行すると、そうした戦場における実用的な手法は、すっかり忘れ去られ、見た目が派手な、打ち下ろす面打ちに変わっていった。
もちろん、新八が剣術をはじめたころには、もうすでに、竹刀剣術の全盛期である。
しかし、増田蔵六に、ふた月ばかり稽古をつけてもらい、すっかり古式の形が身についていた。
三人めが気絶すると、残りは、浪人者がひとり。
勢いにまかせて、新八は、浪人者に歩み寄ろうとしたが、ぴたり、と立ち止まった。
その浪人者には、いささかの殺気もない。
目の前で、次々と連れが倒されたというのに、眉ひとつ動かすことなく、端然と立ったまま、新八と目が合うと、微笑を浮かべた。
「さて……あんたもやるかい?」
新八が訊いた。
「いや。遠慮しておこう。おぬしらふたりとやっては、十にひとつも勝ち目はなかろう」
「冷てえな。仲間が痛めつけられたっていうのによ」
いつの間にか、残りふたりを倒した商人が、新八の横に立っていた。
浪人者は、朗らかに笑った。
「仲間? 勘違いするな……たまたま麓で行きあって、道連れになっただけにすぎぬ」
そう言うと、
「では、御免こうむる」
男は駒木野関の方向に向かって、悠然と歩き去る。
新八と商人は、黙ってそれを見送った。
「行かせちまって、いいのかい?」
しばらくして、商人がぽつりと言うと、新八は、長いため息を吐いた。
「その方がいいのさ……」
「どういう意味だ?」
「あの野郎とやったら、どっちが勝つにしろ、まちがいなく、命のやり取りになるってことだ」
「あいつ、そんなに強いのか?」
「ああ。竹刀のまま、一歩踏みだしていたら、こちらがあの世行きだった」
「それで立ち止まったのか……」
商人が浪人者に目をやるが、小さくなった後ろ姿が、春の霞みに溶けこんでゆくところだった。
「おい。うどんの約束だ。茶店に行こうぜ……もう、茹であがる頃合いだろう」
「ああ、好きなだけ食ってくれ。ところで、あんたの名前は?」
「松前浪人。永倉新八。――おぬしは?」
「おっと、いけねえ。名乗りがまだだった。俺は、武州多摩郡石田村。
――土方歳三だ」
茶店では、新八が黙々と、無心にうどんを食べている。
歳三は呆れ顔で、黙ってそれを眺めていた。
なにしろ、最初に三人前平らげた挙げ句、さらに、もう一人前追加したのだから、無理もない。
「新八つぁん。よく食うねえ」
「ああ、江戸ではあんまり、うどんなんて食わないからな……」
「俺は、うどんなんて、食い飽きたけどね」
現在からは、考えられないことだが、武州から甲州にかけて、当時は、小麦が主食であった。
武州には「武蔵野うどん」、甲州に「ほうとう」、秩父に「にぼと」として、その名残が残っている。
それは、日野三千石といわれた、豊かな穀倉地帯に暮らす者も例外ではなく、お大尽といわれた歳三の家でも、米の飯などは、たまに夕食にでるぐらいで、普段は、うどんを食べていたのだ。
当時、武州では、「かて」「かてうどん」などと呼ばれ、それは、文字通り日々の糧に他ならなかった。
「これが、ツルツルと、いくらでも入るから、始末に負えねえ」
「ところで……あの龍尾剣。いったい、誰から習ったんだい?」
「驚いた。トシさん。よく龍尾剣だってわかったな」
「俺は、多摩の生まれ……天然理心流の本場だぜ。でも、新八つぁんは、江戸っ子だ。
市ヶ谷甲良屋敷の試衛館のほかに、道場はないのに、そこでは新八つぁんとは、一度もお目にかかったことがないからな」
「習ったのは、千人同心の増田蔵六師範からだ」
「なるほど……そうじゃあないかと思ったぜ。あの見事な気組は、蔵六師範そのものだ」
「なあに、本来、俺は神道無念流。まだまださ……トシさんも、天然理心流を?」
「ああ。正式に入門したわけじゃないが、近藤周助師範と、日野宿名主の義理の兄貴からね」
「日野っていうと、甲州道中の宿場だな。石田村ってのは、日野に近いのかい?」
「日野宿から少し南寄り。浅川をわたれば高幡不動。反対に、多摩川をわたれば、右が谷保村、左が柴崎村さ」
「柴崎村……!」
新八の箸が止まり、歳三のことを、まじまじと見つめた。
「なあ、つかぬことを訊くが、ふた月ぐらい前に、三味線堀の賭場で喧嘩しなかったか?」
「なんで知ってる?」
歳三の目が細められる。
あの冷ややかな、肉食獣の目だった。
「ふふふ。まさか、こんなところで、出会うとはな……」
「どういう意味だ?」
「トシさん……あんたが喧嘩した相手は、俺の仲間で、太吉ってやつだ」
「仲間……今さら意趣返しか?」
「勘違いするな。やつは、別にトシさんに、恨みなんて持ってやしないさ。終わったら、喧嘩のことは、さっぱり水に流すのが江戸っ子だ」
「なら、なぜそんなことを……」
「ほかでもねえ。そんときトシさんが使った技に、興味があるのさ」
「そういうことか……あれは、俺が自分で考えた技だ。特別に教えてやろうか?」
「いや、それじゃあ、意味がねえ。俺は、気になってしかたないんで、ずっと考えていたんだ……
あの間合いで、抜き打ちに太ももを斬るのは、
「そう……普通のやり方じゃ、絶対に無理だね。だが、俺の技は、そこに、ひと工夫くわえたのさ。それは……」
「待て!」
新八が、あわてて止めた。
「その先を言うな……もう少しで、思いつきそうなんだ」
歳三は、新八の真剣な表情を見て可笑しくなった。
「よし。じゃあ、こうしよう。今度会ったときまで、お預けにして、もし、新八つぁんが謎を解いたら、またうどんを奢ろうじゃねえか」
「わかった……約束だぜ。謎が解けたら、うどんを腹いっぱいご馳走だ」
「承った。男に二言はねえ」
歳三が茶店をあとにしても、新八は、しばらく座っていた。
さすがに食べ過ぎて、動くことができなかったのだ。
「あれまあ、お侍さん。食べなすったねえ……」
そこに、茶店の婆さんが、食器を下げにやってきた。
「あんたのうどんは、旨かったぜ……甲州道中でいちばんだ」
「嬉しいねえ。もっと食べるかね?」
「いや、さすがに腹いっぱいだ。もう、動けねえ……」
「剣術遣いは、よく食べること……四人前を食べたのは、お侍さんと、全福寺の秀全和尚様ぐらいだよ」
「誰だい、その秀全和尚って」
「大月宿の裏手にある、岩殿山の全福寺の和尚さんさね。剣術好きの変わり者だ」
「へえ……お寺の和尚のくせに、剣術好きなのか。そいつは、たしかに変わり者だ」
「檀家回りに、甲府に行くときも竹刀を担いで、ここいらじゃあ、知らねえやつはいねえだよ」
「その和尚さんは、甲府まで剣術を、習いに行ってるのか」
「へえ。なんでも、北辰一刀流の目録持ちだそうですよ」
「はっはっは。そいつは愉快な和尚さんだ。婆さん。詳しく教えてくれ」
新八は、その和尚を訪ねる気になっていた。
剣術好き、というところにも興味をひかれたが、なによりも、甲府の剣術道場の事情を、よく知っていそうだからである。
茶店の婆さんから、全福寺の場所を訊きだすと、新八は、早速大月宿の方に向かって歩きだした。
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