episode・7  両国広小路


 山口一は、憂鬱を抱えていた。

 幼いころ、故郷明石で無外流の剣術を学び、江戸に出てからは、小野派一刀流、浅山一伝流などの剣術を学んだ。

 その技術の根幹は、たしかに無外流であるが、諸流派を渡り歩いたおかげで、その剣は、すっかり独自のものになっていた。

 山口に、類い稀なる剣才があったのは間違いない。

 ところが、己の実力を試そうと訪れた講武所で、頭取の男谷信友と立ちあったとき、その自信は、粉々に打ち砕かれた。


 男谷は、講武所頭取という身分をひけらかすこともなく、穏やかな性格で、出来の悪い弟子にも、決して声を荒げたりせずに、懇切丁寧に教えると評判だ。

 しかし、そんな穏やかさとは相反するように、他流試合には、喜んで応じた。

 この当時、いわゆる剣術の大御所は、万が一にも負けないよう、先に自分の弟子をたちあわせ、相手の実力を見る。

 相手が強いやつならば、何人もの弟子と闘わせて、疲れさせてからたちあうのが定石である。

 ところが、山口が、紹介状も持たず、ふらりと道場に立ちよったとき、男谷は、あっさりと、みずから竹刀をとった。

 そして試合をはじめると、最初のたちあいで、山口は、いとも簡単に男谷の籠手を取った。


 そのとき、山口は思い出していた。

 男谷は、どんな相手にも、面子を潰さないよう、必ず一本は取らせるが、二本取ったやつは、ひとりもいない。――という伝説を。


(彼奴め……俺を見くびったか!)


 山口は、必死で怒りを鎮めた。

 ここで冷静さを欠いたら、それこそ相手の思うつぼだからである。

 しかし……。

 気をとりなおして、男谷に二本めを挑むと、先ほどとは、うってかわって、打ちこむ隙がどこにもない。

 それどころか、静かに竹刀を構え、穏やかな眼をした男谷に圧倒されて、動くことすらかなわなかった。


(ばかな……なにを恐れている。彼奴は、ただ普通に立っているだけではないか……)


 山口は、そのまま四半刻あまり、男谷と向き合っていたが、打ちこむことはかなわず、滝のように汗を流し、ついには膝が震え、立ってはいられなくなった。


「――参りました」

 山口は、がくりと膝をついていた。それは、敗北というには、あまりにも圧倒的な差だった。

 敗北どころか、同じ土俵にすらのぼっていない。

 その後、自分の実力に疑いを持ち、あちこちの道場に試合に行ったが、何度か遅れをとっただけで、ほとんどの試合に勝ち、あのように圧倒されることは、一度もなかった。


 一年後……。

 多少は自信がついたので、山口は、再び男谷の元を訪ねた。

 今度は、圧倒されてなにもできないなどという、屈辱を味わうことはなかったが、やはり、あっけなく二対一で敗れ去った。

 いままで、たちあいで負けたことは、何度もあったが、次はどう戦うのか、そして、自分には、なにが不足しているのか、これからやるべきことはなにか。

 相手に勝つための目標を立てることができた。

 ところが男谷との試合では、それが見えない。まるで掴みどころのない悪夢のようだった。


(こんなことで、俺は剣術をもって、世にたてるのか?)


 山口の生活が荒れたのは、それからである。

 家には帰らず悪所に出入りし、やたらと破落戸ごろつきと喧嘩し、そして行きついた先が、両国の矢場女の情夫だった。


 憂鬱な気分をかかえたまま山口は、昼間から女の長屋でごろ寝していた。

その横では、これから店に向かう女が、念入りに白粉を塗っている。

 肌が白いだけが取り柄の、十人並みの顔をした、下総の百姓の娘だ。

 本人は、親の借金のかたに売られ、嫌々こんなところで働いているのだ……

などと話していたが、どこまで本当の話なのか、わかったもではない。

 しかし山口には、そんな些細なことは、どうでもよかった。

 生きる意味を見失った己と、ふしだらな矢場の女。まさに割れ鍋に閉じ蓋のような組み合わせではないか。


「ねえ……あんた。今日も夕方から仕事なのかい」

 鼻にかかった甘え声で女がきいた。

「ああ。その日の飯代ぐらいは、稼がねばなるまい」

「そんなことは、あたしがやるからさ……あんたは、遊んでいてもかまわないんだよ」

 山口は、それにはとりあわず、煙管を手にとり、刻みを詰め、火をつけた。

「ぐずぐずしないで、早く仕事に行け」

 煙を吐きながら、山口が冷たく言い放つと、

「ちょいと……怒らないでおくれよ。あたしには、あんたが嫌々仕事しているように見えるからさ……」

「ふん。楽しい仕事など、この世にあるものならば、してみたいものだ。――さっさといってこい」

「わかったよ。この女ったらし」

「待て」

 出てゆこうとする女の袖口を掴んで振り向かせると、山口は、激しく口を吸った。

 舌をまさぐるうちに、女の目がとろんとして、息づかいが荒くなる。

「あ、あんた……」

「さあ、行け」

 冷たく言い放つと、女がふらふらと出ていった。

 山口は、刀を引き寄せ、目釘をたしかめ、腰に差すと、

「やっ!」

 鋭い気合いとともに、稲妻のように抜刀し、指先で、くるりと刀を回して納刀する。

 仕事に出る前の、いつもの儀式だった。


 山口は、両国の盛り場で用心棒をしていた。

 両国は、江戸でいちばんの繁華街である。朝は、青物市でにぎわいを見せるが、その本当の姿は、夕方からはじまる。

 東広小路には、芝居小屋が立ち、見世物小屋や軽業などが客を集め、髪結処や矢場が軒を連ねる。矢場女は、売春婦を兼ねていることが多い。

 一方、川に面した西広小路では、舟宿や料理屋、水茶屋が立ちならんでいる。中庭に池を配するなど、趣向をこらした贅沢な茶屋などもあり、繁栄をきわめていた。

 したがって、毎日大量の金が落ち、すると、その金を目当てに、たちの悪い連中もたくさん集まってくる。

 場末の盛り場とちがい、両国に顔を効かせる顔役は、何人もおり、縄張りは、細かくわかれていた。


 山口を雇っているのは、深川に拠点を構える、親の代から悪御家人の、小見山辰五郎だった。

 小見山は、幕臣のくせに、他人名義で水茶屋や、料理屋を経営し、賭場や売春宿まで開いている、とびきりの悪党だ。

 その小見山の縄張りの周辺には、香具師の元締・弥勒の政吉や、口入れ屋を表看板にした博徒、大田屋伊三郎などが、勢力を張っていた。

 いくつもの勢力があると、そこには、当然、縄張り争いが起こり、小競り合いは、しばしば暴力沙汰に及ぶ。

 それを未然に防ぐか、起きてしまった場合、速やかに片付けるのが、山口の仕事だった。


 山口は、いつも『三好屋』という水茶屋に詰めて、睨みを効かせている。

 女と知り合い、深い仲になったのも、この三好屋だった。


 この日も、山口は、夕方から三好屋で、同僚の浪人者とくつろぎながら、声がかかるのを待っていた。

 三好屋には、用心棒として六人の浪人が雇われており、交代で店につめている。

 この日の相方は、小池新太郎と名乗る偉丈夫だった。

 小池は、北辰一刀流を遣う水戸の浪人で、国を追われて江戸に流れてきた……などと自称していたが、山口は他人に、興味がなかった。


 山口は、なにをするでもなく、肘枕でごろごろしていたが、小池は、黄表紙をめくっている。

 何事も起こらなければ、このまま朝まで、退屈な時間に耐えなければならない。

 山口が、あくびを噛み殺していると店の入り口の方から、男の怒声がきこえてきた。

 小池が黄表紙を閉じ、山口に目配せする。

「酔っぱらいでしょうか?」

「どれ、退屈しのぎには、ちょうどよい」

 山口がゆっくり立ちあがり、小池がそれに続く。

 長い廊下を抜けて、店の入り口にゆくと、火消し人足らしい印半纏の男がふたり、酔って騒いでいた。


「やいっ、べら棒めっ! この店じゃあ、おいらに出す酒はねえっていうのか!」

 男は、かなり酔っており、呂律が回っていない。

「おいらは、こう見えても地元ところじゃあ、ちったあ知られた男だ。こんなふざけた真似をされて、黙っていられるか!」

 男がくだを巻くと、

「おう、火事のときゃあ、こんな店、真っ先にぶっ潰してもいいんだぜ」

 もうひとりの火消しも叫ぶ。

 どうやら入店を断られたのを根に持って、店の手代にからんでいるらしく、手代の信吉が、ぺこぺこと頭を下げている。


 山口が、信吉を押し退け、火消しの前に進みでた。

「おっ、なんだてめえらは! こら、痩せ浪人。こちとら江戸っ子でぇ、てめえみたいなサンピンは、おとなしく引っ込んでやがれ!」

 山口はその台詞には、まったくこたえない。

 酔っぱらいと口論しても、意味がないからだ。

「やい、サンピン! 黙ってねえで、なんとか言いやがれっ!」

 火消しがいきなり山口に殴りかかった。

 喧嘩慣れしているのか、素人にしては、なかなか素早い突きだ。

 しかし山口は、こともなげに、その突きをかわし、火消しの肘をつかんだ。

「あいたたたっ、こら、なにをしやがる!」

 山口は、火消しの肘のツボをつかんだまま、表に放りだした。

 もうひとりの火消しも、小池が外に突きとばす。

「よせっ、痛えじゃねえか! てめえ、ぶっ殺すぞ!」


 店の周りには、騒ぎを聞きつけた野次馬が群がっている。

 山口は、野次馬を気にすることもなく、無造作に火消しに歩みよると、次々と首筋を手刀で打ち、ふたりの火消しは、あっけなく意識を失った。

 そこに、辻番に詰めていた小役人が駆けつけたので、ふたりの身柄を引き渡し、騒ぎはおさまり、野次馬が散ってゆく。


 ところが、山口と小池が店のなかに戻ったあとも、その後ろ姿を睨みつけている男がいた。

 男は、着流しに大刀を落とし差しにした、遊びなれた御家人のような格好をしており、散りはじめた近くの野次馬を捕まえると、三好屋を指して言った。

「今の強い侍は、あの店の用心棒かい?」

「ああ、そうだよ。この前も、たちの悪い浪人が大暴れしたが、あのひとらが、あっという間に片付けちまったよ」

「なるほど。そいつは大したもんだ」

 男は、さも感心したように相づちを打つと、さりげなくその場を去っていった。


(あの野郎……とうとう見つけたぞ。あんときの借りは、必ず返してやる)


 この男、じつは先日入江町で、山口に顔を踏みつけられ、醜態をさらした武家の取り巻きのひとりだった。

 顔を踏みつけられた武家は、本多佐渡守正弘という寄合席の三千石の大身の旗本であった。


 あれから本多は、入江町をはじめ、取り巻きを、あちこちの盛り場に行かせて、山口のことを探させていたのだ。

 山口は、男に気付くこともなく、部屋に戻ると、再び肘枕でごろりと横になった。




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