episode・8 甲州道中 府中宿
本郷追分は、中仙道と日光御成り街道の分岐点で、交通の要衝である。
追分にある『かねやす』の前は、その日も朝から旅人が、ひっきりなしに往来していた。
永倉新八は追分に立ち、江戸の方向に一瞥をくれると、中仙道を歩きだした。
藩にたのみこんでいた武者修行の許可は、結局下りることはなく、新八は、
市川宇八郎は、欠落を思いとどまるよう新八を説得したが、最後はあきらめて、新八を送りだしてくれたうえに、二両の餞別を手渡した。
だから新八の懐には、博打で勝ったぶんと合わせて、二十両もの大金が入っている。
これだけの金があれば、一年ぐらいは、心おきなく修行の旅を続けることが出来るだろう。
武者修行というのは、あちこちの道場を回り、一宿一飯の恩義にあずかることになる。したがって、剣術道場の数は、多いほうがよい。
新八が中仙道を選んだのは、この街道沿いを旅すれば、食うに困らないからに他ならない。
というのも関八州における剣術道場の分布は、上総から武州、上州、なかでも、中仙道と日光街道沿いに集中していたからだ。
それにしても、心残りなのは、太吉を喧嘩で負かした男のことだった。太吉によれば、男には、武州多摩地方の訛りがあったそうだ。
太吉の従姉が嫁いだ先は、武州多摩郡柴崎村。甲州道中の府中宿の先にある農村である。
(懐は暖かいし、しばらくは、宿屋泊まりでもなんとかなるだろう……)
新八は、中仙道は後回しにして、甲州道中を行くことにした。
八王子横山宿には、高崎から日光、ほかにも川越に抜ける道があるので、多少寄り道してもなんとかなると、考えたからだ。
内藤新宿をすぎ、布田五ヶ宿を抜けて、府中宿に着いたのは、まだ陽が高い時刻であるが、新八はこの日の宿を、府中でとることに決めていた。
というのも、甲州道中には、大きな宿場が八王子横山宿と、この府中しかなく、したがって情報を仕入れることができそうなのは、この二ヶ所しかないからだ。
府中の人口は約三千人。本陣一、脇本陣二。旅籠が三十八軒。八王子に次ぐ大きな宿場である。
新八は、街道に面した六所宮(現在の大國魂神社)の門前にある、なるべく流行っていそうな茶店に入ると、お茶を運んできた娘に、早速声をかけた。
「ちょいとばかり、ききたいことがあるんだが……娘さん。あんたは、ここいらが在所なのかい?」
「はい。さようでございますが、それが、いかがなされましたか」
娘の口のききかたは、とても武州の田舎娘とは思えず、明らかにきちんとした作法を身につけていた。
「こいつは驚いた。あんた、いったいどこで、そんな言葉使いを教わったんだい?」
「わたくしは、幼いころから下谷保村の名主、本田覚庵さまの家に奉公しておりまして、礼儀作法は、覚庵さまにご指導いただきました。
このたび、弟がこの茶店の跡を継いだので、お暇をいただいて、こうして店を手伝っております」
娘には、歳に不相応な落ち着きがあり、新八は、妙に気恥ずかしさを覚えた。
「なるほど……どおりで品がある。ところで、俺は、見てのとおり剣術の修行をしているのだが、このあたりにある剣術道場を知っていたら、教えてほしい」
「剣術でございますか。覚庵さまのご友人の日野宿名主、佐藤さまも剣術を修行なさっていましたが、道場に通っていたのではなく、江戸から剣術の先生が、通ってきて教授なさっておりました」
「へえ。剣術の先生のほうが教えに来るのか……それじゃあ、まるで大名家の出稽古みたいじゃないか」
「まあ、大げさな。ちがいますよ」
娘は、くすくす笑った。ようやく田舎娘らしさを垣間見て、新八は、むしろ娘に好感を持った。
「その先生は、江戸に道場を構えていらっしゃいますが、このあたりに弟子が多いから、通いで教えて回っているそうです」
「いや、それでも珍しいことにはかわりない。いったいどんな流派の、なんて先生だい?」
「天然理心流の近藤周助先生でございます」
「てんねん……さて、きいたことのない流派だな」
「あら、そうなんですか。ここいらでは有名で、惣代名主の連光寺村の富澤さまや、小野路宿寄場名主の小島さまも習っておりますのよ」
「ふうむ。そいつは、ちっとも知らなかった。ところで、このあたりに、その天然理心流とやらの道場は、ないのかい?」
「たしか……近藤先生の兄弟子が、八王子横山宿で道場を開いてらっしゃいます」
「その先生の名前を知っていたら、教えてくれないか」
「わたくしは存じ上げないので、いま、弟にきいてまいります」
新八が娘とやりとりしていると、その後ろで麦湯を飲んでいた子どもが立ちあがり、
「へっ、剣術なら周助先生が、いちばん強いに決まってらあ」
と、新八に啖呵を切った。
「捨助っ! お武家様になんて失礼なことを! あっ、こらっ、お代を置いていきなさい!」
娘が叫ぶと、捨助と呼ばれた子どもは、振り向くと、あかんべーをしながら走っていった。
「なんだ、あの悪ガキは……」
新八が、あきれ顔で見送る。
「あの子は、本宿の松本さんのところの悪ガキ……いえ、お坊ちゃんで、捨助という、いたずらばかりの、ほんとに困った子どもなんです」
「しかし、周助先生とやらは、子どもにも人気があるようだな」
そこに、娘の弟が挨拶にやってきた。
「捨助が無礼をはたらいたようで、申し訳ありません。手前は、この茶店の主人で小平次、こちらは、姉のゆきでございます」
「いや、とんでもない。俺も昔は、似たような悪ガキ……もとい、子どものころは、元気がよすぎるぐらいがちょうどよい」
「ところで、なにか、手前に、お尋ねのことがあるとか……」
「うむ。八王子横山宿に、天然理心流の道場を開いているのは……」
「ははあ。それでしたら千人同心の増田蔵六師範です。なにしろ、孫弟子を入れると門弟が八百人もいるとかで、横山宿では、甲源一刀流の比留間道場と双璧と言われております」
「ふむ。比留間道場の名は聞いたことがある……だとすると、江戸では知られていないだけで、訪ねる価値は、あるかもしれないな」
「宗家は、近藤周助さまがお継ぎになられましたが、実力では増田師範というのが、もっぱらの評判でございます」
「それにしても、おゆきさんといい、おぬしといい、やけに剣術に詳しいな」
「はい。このあたりは、将軍様の御領所でございまして、百姓といえども、いざというときのため、剣術のひとつぐらいは……という土地柄なのです」
「なるほど……では、明日は八王子横山宿に参るとしよう」
「剣術のことなら、
府中の宿場は、八幡、番場、片町、新宿にわかれている。
新八は、言われたとおり、番場宿の猿屋に旅装をといた。
部屋に通されると、挨拶にきた宿屋の主人に、隠居から剣術の話をききたいと申しでた。
すると、しばらくして、頭の禿げあがった、背の低い猿のような老人が部屋を訪れた。
(まるで、このじいさんから屋号をつけたみたいだ……)
新八は、笑いを噛み殺して神妙に挨拶した。
「手前が猿屋の隠居、茂平でございます」
「いや、わざわざすまんな。ご老人は、その昔、江戸にて剣術の修行をなされたとか……」
「へえ。もう、はるか昔の話ですが……旗本に足軽奉公にでていたので、主人の意向で、千駄木坂下町にある道場で、新陰流を学びました」
「見たところ、足運びに隙がない……さぞや厳しい修行をなされましたね」
「いえいえ、とんでもございません。ほんの少しかじった程度でして……」
「まあ、それはよい。俺がききたいのは、八王子横山宿の増田蔵六という剣客のことだ……
どうやら天然理心流という流儀は、増田と近藤の派にわかれているように思えるのだが、ご老人の意見が伺いたいのだ」
「天然理心流でございますか……それは、かなり長い話になりますよ。なにしろ事情が、こんがらがっております」
「――というと?」
「天然理心流は、近藤内蔵助が寛政年間におこしました……」
近藤内蔵助は、遠州の生まれ。天真正伝香取神道流を学び、そこから天然理心流を創始した。
天然理心流は、剣術、柔術、棒術、気合術の四つが基本になっている。
内蔵助の近藤という姓は、果たし合いで負かした剣客から奪ったものだ、などという奇っ怪な話も伝わっている。
内蔵助は、天才的な腕前の門弟、三助に、流儀の跡を継がせた。
「三助というのは、そんなに才能があったのかい?」
「一度、試合を見たことがありますが、とても勝てる気がしませんでした」
天然理心流の二代目を継いだ三助は、まさに天才といってよかった。
剣術、柔術、棒術、気合術のすべてを受け継ぎ、その技は、達人の域に達していた。
三助には、五人の有力な高弟がいた。
八王子千人同心の増田蔵六。松崎正作。幕臣の桑原永助。漆原権左衛門。そして近藤周助である。
天然理心流の教授の段階は、切紙、目録(序目録)、中極位目録、免許、印可、指南免許、の六段階がある。
このうち、印可というのが他の流儀の免許皆伝にあたり、指南免許というのは、他人に印可を与える資格、つまり最高の境地である。
ところが、三助は、この指南免許はおろか、印可さえも誰にも授けることなく早世してしまう。
亡くなったのは、教授に出かけた先で、毒殺説などもささやかれるほど、それは、急な出来事だった。
困ったのは、高弟たちである。
このままでは、天然理心流の伝承が絶えてしまうからだ。
そこで、増田蔵六は、三助の師であった初代宗家、内蔵助の高弟で、指南免許を持つ幕臣・小幡万兵衛より指南免許を授かった。
順当にいけば、これで、増田が宗家を継承するはずだった。
しかし、ここで問題が起こった。
というのは、三助の遺言で、天然理心流の宗家を継ぐには、指南免許だけではなく、近藤という姓も継がなければならなかったのだ。
ところが増田は、千人同心であった。
千人同心は、半農半武ではあるが、れっきとした徳川の家臣である。
したがって、勝手に姓を変えたりするわけにはいかない。
そして、後継者が定まらない期間が十一年経過したところで、いつの間にか島崎周助が、近藤の姓と三代目宗家を引き継いでしまった。
周助以外の四人は、それぞれの職業に就いており、事実上、宗家を継承するのは、不可能だったからである。
「なるほど。では、近藤周助が、いちばん実力があった……というわけではないのか……」
「そこが難しいところでございます……周助は、たしかに腕も立ち、剣術の免許は、持っておりましたが、柔術、棒術も持っていたのは、増田だけでございました」
「では、なぜ周助が?」
「はい。たしかに剣術の免許だけではございましたが、周助には、江戸や、この多摩郡に、たくさんの門弟がおりました……
つまり、流儀を継ぐにふさわしい環境が、整っていたのです」
「ふむ。たしかにそれは、複雑な事情だな……
だが、俺がききたいのは、その増田蔵六が、どの程度遣えるのか、――ということだ」
「へえ。増田蔵六の腕前なら、間違いございません。さよう……江戸に出ても、一流で通るぐらいの域には、達しておりましょう」
「ほう、そいつは楽しみだ。やはり、甲州道中にきて正解だったようだ」
新八は、それからも茂平に剣術について、あれこれ話を聞いた。
一刻ほど話込むと茂平は、
「年寄りは、夜がとんと苦手でございます。そろそろ失礼させていただきます」
と、立ちあがり、襖に手をかけた――
その瞬間、新八は、箱膳の上の箸置きを、いきなり茂平の背中に向かって投げつけた。
箸置きが背中に向かって、矢のごとく飛んだ。
が、茂平は、一瞬で身体の向きを反転させ、腰に差した扇を抜いて、箸置きを弾き飛ばした。
年寄りとは思えない、凄まじい早業である。
「お武家様。いたずらをなさっては困ります」
「許せ、ご老人。やっぱり、ちょっとかじった。だなんて、とんでもねえ」
「なあに。いまは、ただの宿屋の隠居でございますよ」
「ご老人ほどの腕前のものが太鼓判を押すんだ。増田蔵六は、相当の腕前なんだろうな……」
「それは保証いたします。ですが蔵六は、いまは他流試合を一切受けません……
門前払いを喰わないよう、あとで添え状を、書いておきましょう」
「それは、かたじけない。お願いいたします」
新八が頭を下げる。
「ふ、ふふ。武者修行の旅ですか……若いってのが、つくづく、うらやましくなりましてございますよ」
そう言うと、茂平は楽しそうに笑いながら、部屋を出ていった。
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