episode・6  親善試合

 

 試合当日は、朝からひんやりとした雨が降っていた。傘をさすほどでもない弱い雨だ。

 しかし、百合本道場のなかは、静かな熱気に包まれていた。

 来賓席には、千葉周作の弟で桶町の千葉と言われる定吉や、同じ神道無念流の斎藤弥九郎、その弟子の桂小五郎。心形刀流の伊庭軍兵衛と息子の八郎の姿も見える。

 八郎の隣には、伝書の一件以来、百合本と急に仲良くなった、窪田清音が、にこにこと座っていた。まるで狸の置物である。

 どうやら、百合本と収集した古い巻物などを自慢しあっているらしく、このところ頻繁に道場を訪れていた。

 弱い雨にもかかわらず、武者窓や、開けはなたれた扉の前も、どこで試合のことをきいたのか、黒山のひとだかりだった。


 その群がるひとのなかに、頭ひとつどころか、肩から上が完全に飛びだしている巨大な男がいた。

 男は、鋭い眼差しで試合の行方を追っていた。

 山岡鉄太郎である。

 試合自体は、大将戦を待たずして、一対三で『撃剣館』の勝利が決まっていた。

 交流試合は、今年で三年め。

 過去の結果は一勝一敗だったが、今年は、先鋒の井崎松太郎が勝っただけで、撃剣館が三勝を決めて百合本道場を降し、兄弟子の岡田十松が、面目を保っていた。

 しかし、そんな結果とは関係なく、見る者は、いまだに、なにかを期待する表情のものが多かった。

 というのも、百合本道場の大将・永倉新八と、撃剣館の大将・桜田久作の、最後の大将戦は、これからだったからだ。


 桜田は、八戸の出身で、故郷で神道無念流を学び、留学というかたちで撃剣館の弟子になっていたが、この親善試合に向けて、ひそかに練兵館の斎藤弥九郎の息子、鬼勘こと勘之助や、弥九郎の高弟、桂小五郎から特訓を受けていた。

 その鬼勘ゆずりの鋭い突きを喰らったら、六尺豊かな大男でも失神するほどだ……という噂であった。


 やがて道場に、ふたりがあらわれ行司しんぱん役の桃井春蔵が、

「はじめ!」

 と、声をかけた。

 礼を終えると、ふたりは竹刀を正眼に構え、相手の呼吸を読む。

 桜田は、闘志を隠そうともせず、燃えるような視線を新八に注ぐ。

 一方、新八は、むしろ試合などには関心がないかのように、穏やかな表情のまま、それに対峙した。

 桜田は、剣先を細かく震わせるように調子を取っている。

 動きの起こりを読まれないようにと、北辰一刀流の鶺鴒の尾からヒントを得たのだろう。


「やっ!」

 桜田が鋭い突きを放った。

 新八は、なんなくその突きをかわしたが、新八の動きを読んだかのように、二撃、三撃と連続して突きを繰りだす。

 体捌きでかわしながら、新八は、鋭く籠手を打つ。桜田は鍔元でそれを弾きながら、逆に新八の籠手を狙って、小さな動作で打ちこんだ。

 新八がその竹刀を弾き返すと、跳ねあげられた勢いを利用して、竹刀を面に打ちこみ、面金に当たり鋭い音が鳴った。


「浅い!」

 桃井は、認めない。

 新八が、その一撃にあわせて一歩前に出て面を打つと、桜田は、真っ向から受け止め、鍔ぜり合いになった。

 桜田は、力まかせに、ぐいぐいと新八を押しまくる。

 しかし、新八は、それには取りあわず、一歩足を進め、膝裏に入れたその足を支点に、桜田を投げ飛ばした。

 現代剣道では認めない、投げや蹴り、体当たりは、この時代、当然の戦法として認められていた。

 特に神道無念流の組み技は有名で、この流儀の流れを汲む、昭和の剣聖といわれた中山博道の道場では、戦後になっても投げ技を認めている。

 桜田は、背中から床に叩きつけられるが、見事な受身で後方に一回転すると、素早く立ち上がり、よどみなく竹刀を正眼に構えた。

 新八は、と見れば、いままでのように正眼ではなく、拳を頭上に掲げるように、大上段の構えを取った。


 このころ江戸の剣術界では、神道無念流と対するときは、胴を狙えと言われていた。

 というのも、神道無念流は、上段を得意とするので、構えの関係で、どうしても胴が空き、胴の攻撃に対して防御が遅れがちになってしまうからだ。

 しかしそれは、一種の誤解といえよう。

 なぜならば、この胴ががら空きになってしまう構えは、相手の攻撃を誘っているからだ。

 一刀流や、薩摩の示現流など、先々を基本とする流儀を除き、剣術は、相手に攻撃させ、その相手の攻撃にあわせる、後の先。もしくは、後の後が基本になっている。

 たとえば、新陰流では、相手の攻撃を誘うため、あえて剣先を正中線から外すように構えるし、馬庭念流にいたっては、さあ打て。と、いわんばかりに、頭を相手に差し出す構えを取る。

 つまり、この構えで胴を取られてしまうのは、単に力量が不足しているにすぎないのである。


「やっ」

 新八が低い気合い声とともに、上段に構えたとたん、その雰囲気が一変した。

「ほう……」

 それを見た来賓席の伊庭軍兵衛から、思わず低い声が洩れた。

 八郎は、食い入るように新八を見つめている。

「ふふふ、新八め。思った以上にやりよるわ……」

 窪田が楽しそうにつぶやいた。

「イヤーッ」

 桜田は、怯むことなく突きを放った。

 かねてから、新八が上段を得意とするときいていたので、突きの鬼勘に、厳しい稽古をつけてもらったのは、この瞬間を待ち望んでいたからだ。

 しかし、剣先は、攻撃と同時に体をかえた新八の面をかすり、後方へ突き抜ける。

 新八の竹刀が振りおろされ、したたかに桜田を斬った。

 それは、あの夜、を斬りすてたときと、同じ呼吸タイミングであった。

「勝負あり! それまで!」

 桃井の声が、高らか響きわたった。

 見物人から、一斉にため息が洩れる。


 八郎は、殺気を孕んだ鋭い視線で、新八を見つめている。

 その口元には、嬉しくてたまらない、といったような微笑を浮かべていた。

「いよう。伊庭の若先生。あんた、いまの上段をどう見た?」

 にこにこと試合を見ていた窪田が、八郎に向かって唐突に声をかけた。

「わたしには、永倉さんの竹刀が真剣に見えました」

 間髪をいれず八郎がこたえる。

「――ふふっ。伊庭先生」

 今度は軍兵衛に向きなおり、窪田が言う。

「あんた……幸せ者だなあ。伊庭道場は、今後も安泰だ」

 軍兵衛が、嬉しそうに頭を下げた。


 新八が道場の隅で面を外し、汗を拭いていると、門弟の真鍋勝之進がやって来て、結び文を手わたした。

「師範代」

 真鍋は、亀沢町のすぐ近くに屋敷を構える、三河田原一万二千石・三宅対馬守の家臣である。

「あそこにいる背の高い、がっしりした男が、これを師範代にわたしてくれと……」

「ふうん……誰だ、そいつは」

 新八が、真鍋がゆび指したほうを見ると、そこに立っていたのは、先日顔をあわせたばかりの、山岡鉄太郎だった。

 山岡は、新八と眼が合うと、小さくうなずき、くるりと背を向け、そのまま立ち去った。


文には、たった一行。


『裏の馬場で待つ』


 と、記されていた。

 山岡は、飛騨にいたころ岩佐一亭から書を習い、その後は、東晋の書聖・王義之(おう ぎし)を手本に、一日千文字を書いて習字したといわれるだけあって、見事な筆跡だった。

「昔馴染みが祝いに来たんで、話してくる。なに、打ち上げには、ちょいと遅れるが、必ず行くんで、待っててくれ」

 新八は真鍋に言い残し、刀を腰に差すと、そのままぶらりと道場を出た。


 亀沢町には、町に囲まれるようにして、広い馬場があった。

 馬場の裏手には、低い土手があり、その下には堀が、堀をはさんでその対岸は、本所御蔵である。

 いつもなら、まだ調練をする者がいる時刻だが、朝から一日雨で、さすがに乗馬している者は、ひとりもいない。

 新八が誰もいない、ひっそりとした厩舎の脇を抜けると、馬場の真ん中の芝生で、山岡が腕を組み、突っ立っていた。

 山岡は、新八の姿を認めると、嬉しそうに笑い、一礼した。

「わざわざ呼びだして申し訳ない……しかし、貴殿の試合を見たら、いてもたってもいられなくてね」

「試合が望みかい?」

「貴殿が嫌でなければ」

「ふふっ、いいね。単刀直入だ。山岡さん……あんたのことが気に入ったぜ」

「得物は、これしかないが……」

 と、山岡が刀を指す。

「寸止めでいこう」

 すかさず新八がこたえる。

「承知」

「では……」


 ふたりは、腰のものを抜くと、お互いに正眼につけて向かいあった。

 雨は、いつの間にかあがり、あたりには、夕闇がせまる。

 濡れた芝生が、妙に青臭く匂っていた。

 芝生は、じっとりと湿っているが、足場は悪くない。これなら滑ることもないだろう。

 六尺を越える上背の山岡が、無言の圧力を放つ。

 一方、新八は、先ほどの試合のときとは、うってかわり、真っ向からそれを受け止めた。

 しかし、剣先を相手につけたまま、ふたりは動かない。いや、動けなかった。

 お互いに相手の呼吸をはかり、無言の対峙が続く。


 どれぐらいそうしていただろうか。新八が不意に、正眼に構えていた剣をゆっくりと引き下げ、しゃに構えなおした。

 山岡は、剣を正眼につけたまま、微動だにしない。


――が、足の指だけを微妙に動かし、じりじりと間合いを詰める。

 ふたりの間の空気が、密度を増したように張りつめ、額から汗が流れた。

 ふたりは、もはや間境いに来ていた。

「えいっ!」

「やっ!」

 一瞬、光が走り、刀が空気を斬り裂いた。

 山岡が新八の面を打つ。

 と、同時に新八の刀が、山岡の脇でぴたりと止まった。

「お見事!」

 新八が言うと、

「やはり相打ちでしたな」

 山岡がそうこたえた。

 新八は、刀を鞘におさめると、山岡に言った。

「ふしぎだ……さっきまでは、あんたと剣を交えるのは、もうたくさんだと思っていたんだが……

終わってみると、また、たちあいたいような気もする」

「それは、拙者も同様だ。久しぶりに冷や汗をかいた」

「ふふふ……」

「は、はははっ」

 ふたりは、眼をあわせると、可笑しそうに笑いあった。


――その夜。

 門弟が帰った誰もいない伊庭道場では、隅に百匁蝋燭を灯しただけの薄明かりのなか、ただひとり、八郎だけが残っていた。

 道場は、先ほどまで、激しい稽古をする門弟たちの気合い声や、竹刀を打ち合う音が響きわたっていたのが、嘘のように静まりかえっている。

 八郎は、誰もいない空間に向かって真剣を正眼に構えていた。

 ただ、じっと構えているだけなのに、八郎の額には、うっすらと汗がにじんでいる。

 眼に映らないないだけで、八郎の脳裏には、刀を上段に構える、あの日の新八の姿が、ありありと浮かんでいた。

 八郎は、ときおり低い気合いを発し、鋭い突きを放ったり、逆袈裟に刀を走らせる。

 刀身が煌めき、空気を斬り割く音が鳴るが、そのたびに、

「むう……」

 と、唸ったり。

「やはり駄目か……」

 などと、つぶやいたりしている。

 誰もいない道場は、しんとして、寒いぐらいひんやりとしていた。

 しかし、さして動いていないはずなのに、いつの間にか汗が首筋にまで滴っていた。

「やっ!」

 八郎が、渾身の突きを放つ。

 その突きが、新八の胴を貫いた。

 と、思った瞬間、すでに体捌きで体勢を変えた新八の剣が、八郎を袈裟懸けに斬っていた。

「くそっ!」


「――八郎。斬られたのは、何度めだ?」

 いきなり後ろから声をかけられ、八郎は、飛びあがらんばかりに驚いた。

 誰もいないはずの道場の、しかも、八郎の真後ろには、いつの間にか義父の軍兵衛が立っていた。

「父上……いつからそこに」

「気配と足音を消していたとはいえ、わしが入ってきたことぐらい、気付かんでどうする」

「夢中になりすぎて、まったく気付きませんでした。――そう、斬られたのは、二十八回めです」

「なにを、そのように焦っているのだ」

「焦っていましょうか?」

「おまえは、まだ剣術をはじめて間もない。そう簡単に、免許の相手が斬れるわけがあるまい」

「わたしが、誰と立ち合っていたのか、わかるのですか?」

 その疑問は、もっともだった。端から見れば、八郎はただ単に、ひとり稽古をしていたにすぎない。

 仮に敵を想定していたとしても、それは、八郎の頭のなかにしかないのだから。


「ふふふ、わしを誰だと思っておる。――永倉新八殿。違うか?」

「なぜ、それが……」

「おまえは、あの試合のとき、明らかに殺気を放っていた。わからんほうが、どうかしている。窪田先生もお気づきだったぞ」

「さようでしたか。――以後、気をつけましょう」


「どれ、手本になるかわからんが、ひとつ、わしもやってみるか……」

 軍兵衛は、そう言って、柄に手をかけると腰を落とし、よどみない動作で刀を抜いた。

 軍兵衛が、刀を正眼に構えると、見えない剣気が吹きあがった。

 普段の穏やかさからは一変し、目は不気味に輝き、冷徹な武人の表情になっている。

「むっ!」

 それは、なんともあっけない突きだった。

 軍兵衛は、ひょいと刀をだし、わずかに右に回すように突いただけである。

 だが八郎には、そこに、水月(みぞおち)を貫かれた新八の姿が見えた。

 しかし、目をこらしていたのにも関わらず、その突きが、いつだされたのか、八郎には、まったくわからなかった。

「これが、乗り突き。一刀流の極意じゃ」


 軍兵衛はそう言って刀を斜に構え直すと、それを、すうーっと正眼に戻し、

「やっ!」

 今度は、腕をまっすぐ振りあげ、同じように、よどみなく振りおろした。

 八郎には、そのタイミングとは、微妙に合わない速さで、刀がくるりと廻ったように見えた。

「一刀両断。これは、新陰流の極意じゃ」

 八郎は戦慄していた。

 上段から、渾身の太刀を振りおろした新八の剣が、軍兵衛の振りあげた刀身の鎬に沿って外される。

 その刀身が振りおろされた瞬間、新八が、ばっさりと斬られる場面が、映像として、ありありと浮かんだからだ。

「父上。いまのは……」

「我が心形刀流は、流祖・是水軒が、一刀流、新陰流など、従来の剣術を研究しつくして、たてたものだ。

 大切なのは、型そのものではない。型にひそむ技。そして、相手の心の動きに合わせること……」

「心の動き……」

「――どうじゃ、わしの技が観えたか」

「はっ、しかと観ました……いえ、技そのものは、見えませんでしたが、その技は、しかと心に映りました」

「ふ、ふふ……よろしい。観えたのなら、いずれおまえにも出来るようになろう……」

 八郎は、一礼すると軍兵衛に背を向け、再び刀を正眼に構えた。

「もう八つを回っておる。いい加減、稽古をやめて休んだらどうだ」

「父上。わたしには時間がありません……

このまま続けさせてください。なにかが、つかめそうな気がするのです」

 軍兵衛は、やれやれと首を振り、道場を出てゆく。

 そして、その背中に、八郎の激しい気合い声がとどくと、深いため息をついた。

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