episode・3 本所入江町 山口一
本所入江町に、閻魔酒屋と呼ばれている居酒屋があった。
どうやら居酒屋主人の六兵衛という親爺が、まるで閻魔大王のような髭面だったことから、いつの間にかそうよばれるようになったらしい。
堅気の人間が寝静まったころに店を開け、明け方まで柄の悪い連中が出入りしているような怪しげな店である。
同じ本所のうちでも、入江町は、百合本道場がある亀沢町とはちがい、
閻魔酒屋ではこの夜も、たちの悪い折助、陸尺、人足や、荒んだ雰囲気の浪人者などが、安い酒に酔いしれている。
しかし、そんな荒くれ者たちも、奥の一角に陣どったふたりの武士には、あえて眼を向けないようにしていた。
「それで……俺にその男を斬る助っ人をしろと?」
御家人ふうの男が言った。
整った顔だちの若い男だが、目付きが冷ややかなので、酷薄な印象だ。
「なあ山口……おぬしとは古い付き合いだ。なに、ただ働きさせるつもりはない。
「ふん。あの狂犬のような
「それとこれとは話が別だ。取り潰しにあった前澤の家に、未練などないが、筋だけは通さねばならん」
「ふふふ、慎之助よ……せっかく養子にもぐりこんだのに、喧嘩で義父が斬られ、お前も散々だからな」
男が愉快そうに笑った。
「なに、俺ひとりでも、負けるとは思わぬが、どうやらそいつは、撃剣館の免許皆伝。用心するに越したことはない。
山口……おぬしの無外流が味方なら、こんな心強いことはない」
「撃剣館。神道無念流か……しかし、よく、そんなに早く斬ったやつの身元がわかったな」
「ああ、それについては、運がよかった。じつは……」
この男、前澤慎之助は、入江町の御家人・小阪龍之介の次男に生まれた。
慎之助は、学問もなく荒れた部屋住みの生活をしていたので、養子の口などあるはずもなく、ぶらぶらと日々を過ごしていたが、賭場で知り合った百五十石取りの御家人、前澤政次郎に気に入られ、二十歳をすぎて、ようやく養子に入ることができた。
そんな慎之助の実家には、以前、小者として、政吉という男が雇われていたが、これがとんだ遊び人で、今は博打を渡世にしていた。
その政吉が、三味線堀の松平下総守の賭場で遊んでいると、慎之助が養子に行った先の主人が、ひとりの若者を、突き刺すような目で睨んでいるところを目撃した。
(あの目付きは、ただ事じゃあねえ……きっとひと波乱あるにちげえねぇ)
ふたりが出てゆくと、政吉は、こっそりとあとを尾けた。
三味線堀の舟溜まりでは、唐桟縞の着物を着た男が、越後縮の男に、なにか話しかけている。
その背後に前澤が、じりじりと忍び寄っている姿が目に入った。
(こいつあ、ちょいとばかり剣呑な雰囲気だな……)
巻き込まれてはかなわないので、政吉は、道ばたに積んであった廃材の陰に身をひそめた。
そのとき、前澤がいきなり抜いた。
白刃に、辻番の灯りがぴかりと反射する。
斬りつけられた男も抜き合わせ、きぃんと、火花が散った。
ふたりは、向かいあったまま動かない。
着流しは、いつの間にか逃げたようで、姿を消していた。
政吉は、息が詰まるような緊張に、思わず拳を握りしめた。
刹那、ふたりが動いた。
たったの一合。
前澤が、ばたりと倒れ伏す。
(――殺りやがった!)
唐桟縞の男は、しばらくそこに突っ立っていたが、刀を納め、その場を立ち去ってゆく。
あとを尾けようと、政吉が立ちあがりかけると、物陰から着流しの男があらわれた。どこかに隠れて見ていたらしい。
政吉は、あわてて廃材の陰に引っこんだ。
着流しの男が、政吉の目の前を通りすぎる。
月明かりが男の横顔を、くっきりと浮かびあがらせた。
男は端正な顔に、凄艶な微笑みを浮かべていた。
政吉は、思わずごくりと唾をのみこんだ。
「なんだ。結句、あとは尾けなかったのか」
「運がいいというのは、この先だ……義父を斬った男を、政吉が両国橋の上で見かけて、あとを尾けたのだ」
「なるほど。それで、そやつの身元がわかった、ということか……」
「男は永倉新八。神道無念流免許皆伝。――どうだ山口、助けてくれるか?」
「ふん、まあよかろう。だが、勘違いするな。金などは、どうでもいい。俺は、その永倉という男に興味がある」
ふたりは、杯を干すと勘定を払い店を出た。
夜の九つを回っても、入江町の切見世は、にぎわいをみせていた。
女たちが袖を引き、居酒屋からは、酔って騒ぐ声が響いている。
「おい、山口……おぬしが寝泊まりしている両国も、こんな感じなのか?」
「ふん。飲んべえが集まる町なぞ、どこもかわらん」
山口が、なげやりにこたえた。
「もうあの家には、戻らんのか?」
「家は兄が継ぐだろう。俺のような出来損ないの居場所などない」
山口一の父親佑助は、武士に憧れ、明石から江戸に出て足軽になった。
そのことで一歩、武士へと近づいたが、足軽では一人前の侍とは見られない。そんなとき同僚から、御家人の株が売買されていることを耳にする。
ところが、御家人株は、百両、二百両で買えるものではない。“三十俵二人扶持貧乏泣き暮らし”と、揶揄された最下級の株でも、軽く二百両を越える。
足軽風情の給金では、夢のまた夢の金額だった。
そこで佑助は、一計を案じる。
同僚の足軽や、屋敷で働く中間などに、小金を貸す内職をはじめたのだ。
その内職は、次第に規模を拡大し、近所の職人や商家にまで客層をひろげ、十年間で千両の金を貯めると、ついに念願の御家人株を購入し、山口家の名を継いだ。
しかし、晴れて御家人になったとはいえ、無役の小普請組では、ただ単に、金で身分を買ったにすぎない。
そう考えた佑助は、支配役らに金をばらまいた。
じつに馬鹿馬鹿しい話だが、当時、役につくため、つまり就職するためには、賄賂が必要だったのだ。
このように、御番入りを果たすべく運動し、佑助は、ついに御納戸方の下役職を得るにいたった。
そして、持ち前の実務能力を発揮して、いまでは、何人もの下役を従える、一人前の徳川の家臣となったのである。
しかし、自身の出世の先が見えてくると、次は自らが果たせなかった夢を、息子に託すようになるのが親心というものだ。
長男の廣明はとても優秀で、上役の覚えもめでたく、将来を期待されている。
それに引きかえ、子どものころから乱暴者で、学問はさっぱりだった山口には、父親も兄も冷やかだった。
山口が唯一他人に誇れるものは、剣術の腕前だけだったが、出世という価値観しか持たない者から見れば、剣術などは、道楽にすぎなかった。
乱世の時代ならともかく、二百年以上も泰平の世が続いたこの時勢に、剣術によって出世することなどは、あり得ないことであった。
山口は、そんな父親や兄に反発するかのように剣術にのめりこみ、ついには家を飛びだして、いまは、両国の矢場女の情夫に落ちぶれていた。
ふたりが切見世を抜けて、表通りに出ようとしたとき、居酒屋から出てきた武士が、ふらりと、山口に突きあたる様子をみせた。
山口が素早くそれをかわす。
しかしその武士は、わざとらしくよろける素振りで、山口の佩刀の鞘に、自分の鞘を、かちりとぶつけた。
「ご無礼した」
山口が軽く一礼し、その場を立ち去ろうとすると、その武士が、
「おい待て。貴様、挨拶はそれだけか」
と、因縁をつけた。
ぱりっとした身なりから、
「殿、どうかいたしましたか?」
店の中から、武士の連れらしい男がふたり顔をだした。
こちらは、その武士より一段身なりが落ちるが、いずれも御家人のような風体からみて、取り巻きにちがいない。
「おお。この男が、おのれの鞘にあてやがったんだ」
あまりにも古典的で馬鹿らしい因縁に、山口が苦笑をもらした。
「なにがおかしい!」
武士が怒声をあげて、いきなり山口に殴りかかった。
と、思った瞬間、武士の身体がふわりと宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
「ぐえっ」
武士が潰された蛙のような声をあげる。
山口が無造作に顔を踏みつけると、後頭部を地面に叩きつけられた武士は、呆気なく意識を失った。
「貴様らっ!!」
武士の連れが刀に手をかけた。
そこに、いままで黙って見ていた前澤が、一歩前に足を踏みだすと、眼にも止まらぬ速さで抜刀し、風が鳴った。
刀の切っ先は、連れの男の鼻先一寸で、ぴたりと止まっていた。
前澤は、にやりと笑い、切っ先を突きつけ、
「やめておけ。おまえらがくたばったら、誰がこの男を介抱するんだ?
それとも。――どうしても
と、凄みのある笑顔をうかべる。
武士の連れは、貫禄の違いを見せつけられ、千切れんばかりに首を横に振った。
きいん、と、鍔鳴りの音をたて、前澤が納刀する。
山口は、関心をなくしたのか、後ろも見ずに、もう歩きだしていた。
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