episode・2 心形刀流 伊庭八郎
新八がわずか八歳で、神道無念流『撃剣館』に入門したころ、師範は三代目・岡田十松の利章であった。高齢の利章は子どもが好きで、慈しむように新八に稽古をつけてくれた。
新八が十二歳のとき、利章が病死すると、四代目は、養子の助右衛門が受け継いだ。
三代目に劣らず名人であることにはちがいないが、しかし、その教えかたには、大きなちがいがあった。
新八は、利章から型稽古以外つけられた記憶がない。
それは、新八がまだ子どもだったから……。
というのもあるが、思い出すと、大人の門人にも、竹刀で打ち合う稽古は、入門してしばらくは、決してさせなかった。
つまり、技の基本が身につく以前に、試合形式の稽古は、固く禁止されていたのだ。
その当時、竹刀を使用した試合形式の稽古は、すでに常識になっていた。
『撃剣館』のやり方は、若干その流行から遅れていたといえよう。
ところが四代目に代替わりしたとたんに、初心者でも竹刀による打ち合い稽古を盛んにさせる方針にかわった。
そのことによって、道場生の数は飛躍的に増え、巷の評判も高くなていった。
(――だが、はたして、それでよいのだろうか?)
あの立ち合い以来、新八の脳裏から離れないのは、そのことだった。
現在の新八は、師の四代目岡田十松の元を離れ、本所亀沢町に道場を構える師の同門である百合本昇三の道場で、雇われ師範代をしていた。
新八は、目録の弟子同士の練習試合を見ていた。
もちろん、面籠手胴の防具をつけた、竹刀による試合だ。
この防具も、新八が入門したころからすると、大きく変化を遂げていた。
以前の竹に座布団を合わせたような胴は革胴に、突き垂れは、喉より下まで伸び、主に顔面を覆っていた面は、頭上まで覆うように変わっていた。
突き垂れが変化したのは、江戸じゅうの剣客が手を焼いた、五尺を超える馬鹿長い竹刀をひっさげた、柳川藩の剣客、大石進の影響であった。
「めぇえん!」
飛びこみ面を放った門弟が叫んだ。
「浅い!」
すかさず、新八が判定する。
(今の打ちこみじゃあ、せいぜい
新八が実際に命のやり取りをして感じたのは、
(結句、役にたったのは、三代目にみっちり仕込まれた型だった)
このことである。
竹刀の試合で身につけた小手先の器用な技よりも、一撃に全身全霊をこめるのが神道無念流の精神であり、真髄だったはずだ……。
竹刀が胴をたたく音が響いた。
「胴ありっ! 一本!」
新八がふたりを分ける。
(いまの胴なら、両断はしなくても致命傷だな)
「師範代は、いつも厳しいが、今日は格別じゃねえか?」
試合を見ていた門弟のひとりが、隣の男に耳打ちした。
「ああ。さっきの面は、一本だろう」
その囁きは、新八の耳にも届いたが、あえて無視した。
(言ってもわかるまい。ゆうべのことがなけりゃあ、俺もそう思っただろうよ)
稽古を終えたあと、井戸で汗を流すと、新八は、百合本の部屋を訪ねた。
「どうした永倉。今日はやけに厳しかったな」
「あの面のことですか?」
「まあ、たしかにあれは浅かった……それよりも、来月の撃剣館との試合のことだ」
百合本道場では、兄弟子である四代目岡田十松の『撃剣館』と、年に一度、交流試合を行っていた。
それは、審判に鏡新明智流の桃井春蔵を招き、来客には、同じ流儀の練兵館の斉藤弥九郎、心形刀流の伊庭軍兵衛、北辰一刀流からは、周作の弟、桶町の定吉などを招いた華々しい催しだった。
しかし、いまの新八は、そうしたことに夢中になれなかった。
(俺の剣が、実戦で、どこまで遣えるのか、それを見極めたい……)
新八の頭のなかは、そのことで、いっぱいだった。
百合本と、しばらく試合についての打ち合わせをして、道場をあとにしても、新八の心は晴れなかった。
暮れなずむ本所の町から、道行く人びとで賑わう両国橋をわたる。
このとき、橋の上ですれ違った遊び人ふうの男が、顔色を変え、あとを尾けてきたことに、新八は気付かなかった。
藩邸の長屋に戻った新八は、ふたたびごろりと横になり、天井を見上げた。
こんなときはいつも、宇八郎と馬鹿話をしてまぎらわすのが、決まりごとで、新八は、宇八郎の長屋を訪ねたが、あいにくと留守だった。
新八は、しかたなく、なかば習慣になっている松平下総守の中間部屋の賭場に足を向けた。
どうせあの男は警戒して寄りつかないだろうし、博打を打つ気分にもならず、中間頭の才蔵を控えの間に呼んだ。
賭場には、博打に疲れたものが休む部屋があり、酒を飲んだり、稲荷寿司などの軽食をつまむことができた。稲荷寿司は無料だが、もちろん酒は有料だ。
ふたりがなかに入ると、まだ時刻が早いせいか、その部屋には、誰もいなかった。
「永倉の旦那。ゆうべは大勝ちでしたね。さすが……」
「世辞はよせ。それよりも、ゆうべ、あすこの端にいた着流しの……」
「へへっ。あの気障りな色男ですね……旦那の様子を見て、なにか含むものがあるって、ぴぃんときましたぜ」
「なら話は早い。あの野郎は、初めてここに来たってぬかしてやがったが、それは本当なのか?」
「ええ。そのとおりでさ。やけに洒落た身なりだし、たぶん、本所深川あたりの御家人じゃねぇかって、みんなで噂しておりやした」
「ちっ。やはり俺の早合点だったか……」
新八がつぶやいた。
「いったい、あの野郎がなにを……」
「まあ、それはいい……もし、また来ることがあったら、俺に知らせてくれ」
「承知いたしやした」
「たのむ」
新八は、才蔵に一分金を投げると、そのまま賭場をあとにした。
――翌朝。
新八は、朝早く長屋を出て、伊庭家の道場『練武館』へ、師のかわりに挨拶に向かった。
師の兄弟子岡田十松と、古い馴染みの千葉道場には、百合本が行くが、伊庭道場は、新八の住まいからほど近い下谷の和泉橋通りにあるという理由で、師範代の新八が、行くことになったからだ。
伊庭道場は、藤堂和泉守の広大な下屋敷の近くにあった。隣は医師として名高い伊東玄朴の屋敷だ。
案内を請うと、内弟子が対応に出て、奥の座敷に通される。
伊庭家は、二百俵という軽輩だが、屋敷は不釣り合いに広かった。それは、剣客としての名声が高いおかげだろうか。
そんな埒もないことを、ぼんやりと考えていると、主の伊庭軍兵衛(秀業)がやってきた。
軍兵衛は、剣客とは思えない穏やかな雰囲気をたたえ、柔和な笑みを浮かべていた。
「ようこそおいでくださいました。手前が伊庭軍兵衛です」
心形刀流・伊庭道場は、激しい稽古で知られている。
新八は、さぞ厳めしい豪傑がでてくるだろう、と思っていたので、いささか拍子抜けしていた。
「お初にお目にかかります。拙者は、百合本道場の師範代を務める永倉新八と申します……このたびは……」
軍兵衛は、新八の挨拶と口上を、終始笑顔で受ける。
武張った雰囲気は、
「いや、百合本師範とは古い付き合いです。このたびの試合も、楽しみにしております」
軍兵衛がそう言ったとき、障子に影がさした。
新八の視線がそちらに向くと、影がぴたりと止まった。
「八郎か。いま百合本師範の代理の永倉さんが、挨拶にいらっしゃった。おまえも挨拶しなさい」
「はっ。かしこまりました。――失礼します」
新八は、その男を見て息をのんだ。
障子を開けて入ったきたのは、まさに、松平伊豆守の中間部屋で新八が見た、あの着流しの男だった。
八郎は、あのときと同じように、爽やかな笑みを絶やさず、新八を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「はじめまして。伊庭八郎と申します」
八郎が頭を下げる。
義父の軍兵衛と同じように、剣客っぽさはまるでなく、秀麗な容姿のせいか華奢にすら見えた。
「八郎は、先代(秀淵)の子でしてな。先代が隠居したいまは、手前の養子ということになっておりますが、いずれ道場を継がせようと考えております」
八郎は、口をはさまず、黙って笑みを浮かべている。
新八は、八郎の立ち居振る舞いを見て、ただ者ではないことを見抜いていた。
というのも、部屋に入り座るまでの八郎の動きが、まるで能役者のようによどみがなく、何処にも隙を見出だせなかったからだ。
腰の位置は、常に安定しており、頭は一切左右にぶれたりしない。それは、武芸を究めた者の所作だった。
「はじめまして。永倉新八と申します。ぶしつけですが、八郎殿は、剣術をはじめて、ずいぶん長いのでしょうか?」
「いえ。わたしは、幼いころより学問の虫……暇さえあれば、書物と親しんでおりました。本格的に稽古をはじめてから、まだ一年あまりにすぎません」
「それはまことですか。――いや、驚きました。八郎殿には、まったく隙がない」
新八は、思ったことをそのまま口にした。
「ははあ、それは買いかぶりですよ。じつは……」
と、八郎が生い立ちを語りだす。
八郎は、幼いころから病気がちだったこともあり、剣術の稽古には、あまり熱を入れなかった。いや、ある理由によって、剣術を避けていたといってもよいだろう。このことは、いずれ物語のなかで明らかにされるであろう。
とはいえ書物を通して知る世界は、八郎を魅了した。当時、書物は非常に高価なものだった。
幸い伊庭の家は、剣術の門弟や後援者から入る収入があり、二百俵の家格よりも裕福だったため、父の軍兵衛(秀淵)は、八郎に高価な書物を、惜しげもなく与えてくれた。
八郎が父に、剣術家ではなく、学者になりたいと、将来の希望を伝えると、
「お前の将来だ。好きにするがいい」
と、あっさりそれを認めた。
反対されるものと思っていた八郎は、拍子抜けしたが、父は、
「だが、学者になろうが、なんになろうが、お前はわたしの息子だ……武士として、恥ずかしくない所作を、身につけてもらおう」
という条件をだした。
武士として恥ずかしくない所作。
つまり、日常の立つ、歩く、座る、などの所作を、正しく美しいものにすることが、剣家の跡を継がないことの条件であった。
「なるほど。しかし、それは……」
新八が言葉をうしなう。
「――そう、正しく立ち、歩き、座る……は、あらゆる芸道の基本です。父は、竹刀を持たせることなく、わたしに剣の極意を授けようとしたのです」
剣術は、剣を抜いてからはじまるわけではない。
いくら試合に強くても、寝ているとき、食事をしているときに油断していたら意味がない。
極端に言えば、歩みから箸の上げ下げ、厠に入るとき、寝ているときですら、武術の理合に則っていなければ、瞬時に物事に対処できないからだ。
「とはいえ、剣を使わせたら、わたしは、まだ未熟者。とても永倉殿には及びますまい」
(いや、いずれ俺なんぞより、よほど強くなるにちがいない)
新八は、剣家に生まれた八郎に、軽い嫉妬を覚えた。
挨拶も終わり、新八は伊庭家を辞して門を出ると、無性に腹が減ってきた。
そういえば、朝からなにも食べていなかったことに気づき、藤堂和泉守の屋敷を横目に見ながら、佐久間町二丁目に向かった。
佐久間町には、黒々とした太打ちの蕎麦を、辛い大根のおろし汁と生醤油で食べさせる、田舎蕎麦の店があったことを、思いだしたからだ。
行く手には、藤堂屋敷の白い塀が、何処までも続くかのように連なっている。
緑に萌える庭の大きな木々が日陰を作り、若葉の匂いを漂わせていた。
一町ほど歩いたとき、後ろから声をかけられた。
「永倉さん。ちょっとお付き合いいただけますか?」
「八郎さん……」
新八は、八郎と連れだち、田舎蕎麦を食わせる『信濃屋』に入った。
ふたりで黙々と蕎麦を食べ終えると、八郎が口を開いた。
「先日のあの男、前澤政次郎には、息子がいたそうです」
「…………」
やはり八郎は、逃げた素振りで、どこかに身をひそめ、ふたりの決闘を見ていたらしい。それにしても、なぜ襲撃者の名前まで知っているのか……。
八郎の意図がわからず、新八は訝しげな眼差しを八郎におくる。
「その息子ですが、うちの弟子にきいた話では……」
八郎の話によると……。
伊庭道場には、あの御家人、前澤政次郎の家の近所に住む弟子がいて、その弟子が耳にした噂では、政次郎の養子の慎之助が、親の敵を討つと、周囲にさかんに触れ回っているとのことだった。
「まあ、だから身辺には、十分お気をつけください……噂によると養子の慎之助は、親父に輪をかけた悪党者で、なにを仕出かすかわかりません」
「ご忠告はありがたく受けておくが……なあに、その程度の野郎に討たれるようじゃ、俺もそこまでの器だったということでしょうよ」
「それにしても、新八殿の上段は見事でした。まさに神道無念流の真髄を拝見した思いがします」
「いや、そんな立派なものじゃあねえさ。いささか見くびっていた野郎が、意外に強くて、手加減する余裕をなくして、気付いたら知らぬ間に、ああなっていたんだ」
「知らぬ間に……ということは、その技が身についている
「いずれにせよ、あの顛末を見ていたのは八郎さんひとり。そやつに狙われることは、ないだろうが……」
「だとよいのですが……」
新八は、事態を甘く見ていた。
この八郎の懸念は、後に現実のものとなる。
「それにしても、あのときは、まことに御無礼を……」
新八が神妙に頭を下げた。
「ふふふ……わたしは、てっきり新八殿に、斬られるのかと思いましたよ」
「いや、俺の早とちりで、人違いとは知らず、つい頭に、カーッと、血がのぼっちまって……
まだまだ修行不足だと痛感した。どうか平に、ご容赦ください」
「わかりました。赦しましょう。そのかわり、ここは新八殿のおごりですよ」
八郎は、笑顔で続ける。
「ところで、いったい誰と勘違いしたのですか?」
こうなってはしかたなく、新八は、太吉が斬られた顛末を、八郎に話した。
「ふうむ。その役者面の男……なかなかおもしろい技を使いますね」
「立ち居合は、いろいろな流派にあるが、息がかかりそうな近間で、太吉が気づかぬうちに、一瞬で刀を抜いたそうだ。おまけにそいつは、町人髷だったらしい」
「町人も旅支度なら、道中差をしますよね。江戸の者ではないのでは?」
「太吉によると、それにしては、着物の着こなしが洒落ていて、物腰も粋だったらしい。でも、心なしか、言葉尻が上がっていたという話なんで、上州か武州者かもしれねえが……」
「いずれにせよ、大事な試合の前です。しばらくは、自重したほうがよいでしょうね」
「まったく面目ない。八郎さん。試合にはいらしてくださいますか?」
「ええ。楽しみにしています」
再開を約すと、ふたりは蕎麦屋をあとにした。
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