episode・1 松前藩 江戸中屋敷
蝦夷一万石格・松前伊豆守の中屋敷は、下谷三味線堀にあった。そのすぐ隣は、下谷小島町である。周囲には、大小さまざまな旗本や御家人の屋敷、広大な大名の下屋敷が密集していた。
道をはさんで反対側には、旗本の井上英之介、酒井大学の広大な屋敷に華臓院の門前町、屋敷の裏手は元鳥越町と、繁華な商業地ではないが、絵に描いたような、典型的な江戸の下町である。
永倉新八は、そんな下町で生を受けた。
幼いころからきかん気で、八歳から習いはじめた剣術は、神道無念流、免許皆伝。岡田十松門下でもきこえた腕前だ。
新八は、藩邸の長屋の一室で、ごろりと横になり、天井を見つめていた。
あのときの斬りあいを、何度も反芻しているのだ。といっても、後悔しているのではない。斬ったやつは、ろくでもない害虫のようなやからである。
反芻しているのは、身体が震え胃液が逆流するかのような、真剣でたちあったときの圧倒的な緊張感だ。
今まで数限りなく竹刀の試合もしたし喧嘩もしたが、実際に命をかけて斬りあったのは、あれが初めての経験であった。
試合では、相手がこうきたら、こちらはこう受けて……などと、さまざまな戦略を考え、それを冷静に実行に移すだけだった。
あとは、適度に緊張感を保ち、平常心を失わなければ、思うように試合を運ぶことができた。
しかし、実際に真剣勝負になると、戦略もなにもなく、ただ習い覚えた技が反射的に出て、気付いたら相手が倒れ、自分が立っていた……。
そのことに衝撃を受けているのだ。
(――真剣で斬りあうとは、こういうことか)
新八は、目を閉じると、大きくため息をついた。
そのとき、玄関先から大きな声がきこえた。
「おーい、八つぁん! いるんだろ? あがらせてもらうぜ」
市川宇八郎が、無遠慮に長屋にあがりこみ、新八の部屋の襖を開けて、顔をだした。
「なんだよ、まだごろごろしてたのかよ。もう昼前だぜ」
「……んんっ、ああ……いま起きようと思ってたところだ」
「ちぇっ。八つぁんは、相変わらず呑気だなあ……ところで聞いたかい?」
「きいたって、なにをだい?」
「いや、ゆうべ三味線堀の佐竹屋敷の前で、男が斬り殺されたって話さ」
一瞬、新八の瞳に強い光がさす。が、すぐにそれを消した。
「なんだ? こないだみたいな折助の喧嘩か?」
三味線堀では、半年ほど前に、大名屋敷の中間同士が大喧嘩になり、ひとりが刺殺されていた。
「いや、そうじゃあねえ。斬られたのは、名うての悪御家人で、前澤政二郎って野郎さ。あちこちで悪さの限りを尽くして、公儀の目付衆からも睨まれてたらしいぜ」
「へえ、そうかい」
「なんだよ、興味なさそうに……で、あんまり素行が悪かったんで、養子がいるが、どうやら相続は認めねえで、家は取り潰しらしい」
「ふうん……」
「たちの悪い浪人なんかとつるんで、
「まあ、世の中のダニが一匹減って、いいことじゃねえか」
「ちぇっ。八つぁん、やっぱり今日は変だぜ」
「ところで、
「ああ、そうそう。太吉を斬ったやつだけど……」
新八が勢いよく起きあがった。
「見つかったのか?」
宇八郎が首を横に振り、新八がため息をついた。ゆうべ新八が賭場で探していたのは、まさにその太吉を斬った男だった。
新八が生まれ育った三味線堀界隈は、武家地と町家が、でたらめに入り交じった土地である。
だから、ある程度の年齢になるまでは、町人の子ども、武家の子どもが、分け隔てなく遊ぶ。しかし、十五になれば、武家の子は元服して一人前になるし、町人の子などは、もっと早い年齢のうちから、奉公にでたり家業の手伝いをせねばならない。
したがって、付き合いが、自然と疎遠になるのが普通だった。
ところが太吉と新八、そして宇八郎は、現在で言う不良少年だったので、十八になった今でも付き合いが続いていた。
その太吉が六日前に、松平下総守下屋敷の賭場で揉めた相手と喧嘩になり、太ももを斬られ、大怪我をしたのだ。
太吉は、幼いころから喧嘩が強く、そこいらの生っ白い侍などに、ひけをとるようなやつではなかった。
先日、両国の盛り場で地回りと喧嘩になったときも、新八が瞠目するほどの活躍を見せている。
その太吉を、いいようにあしらったのが、新八の探している男だった。
よくある些細な揉め事の、些細な行き違いが、その喧嘩のはじまりだった。
「よし。話をつけようじゃねえか。表に出ろ」
その男は、太吉がいい放つと、にやりと笑い無言で従った。
向かいあったとたん、太吉が鋭く低い蹴りをだした。微塵の予備動作もなく膝下を蹴りこむえげつない技である。相手が素人なら、これで終わりだ。
ところが、太吉が不意をついて放った蹴りを、男は軽く足を上げて、なんなくかわした。
その動きに合わせ太吉が左の突きをだしたが、半歩前に出ることで、突きの軌道を外すと同時に、男は腰の脇差しを抜いて、太ももに斬りつけた。
つまり、半歩前に出る突きを避ける動きが、そのまま抜刀の動作になっていたのである。
あたりは薄暗かったが、斬られて倒れた太吉には、男が微笑みを浮かべたのが、はっきりと見えた。
男の顔は、役者も顔負けの秀麗さで、太吉の背筋を冷たいものが走った。
「手加減しといたぜ。歩けなくなるようなこたぁないだろう……包帯は自分持ちだ。じゃあな」
男は、太吉に向かって薬包らしきものを放ってよこした。開けてみると、千住・名倉特製の貝殻に入った金創によく効く塗り薬だった。
男はくるりと背を向けると、右手を振るのを挨拶がわりに、悠然と歩き去った。
最後まで気障りな男だった。
「太吉の蹴りは、大男だって吹っ飛ばす。こないだの喧嘩でも、相撲あがりがいちころだった……」
太吉に蹴りを授けたのは、柔術が得意な宇八郎だった。
「市っちゃん。そいつは素手の喧嘩の間合いで脇差しを抜いた。そんな間合いで刀を抜くなんて、ふつうじゃねえ。太吉は、斬られるまで、抜かれたことにすら気付かなかった……って話だ。どう考えてもただ者じゃあねえ」
「そいつが武芸の心得があるのは、まちがいないが……今日来たのは、その話の続きだ」
「なんだい。何か新しいネタを仕入れたのかい?」
「ああ。そんときは、太吉も気が動転して忘れてたらしいんだが、その男、町人髷だったらしいんだ」
「なんだと! 俺は、てっきり武家だとばかり……」
新八は、言葉を飲みこんだ。ゆうべの男は、気障りな役者面だったが、たしかに武家だった。
「あちゃー」
新八が頭を抱えた。
「どうした。八つぁん?」
「いや、何でもねえ……」
このとき新八は、あの男とは、どうせ二度と会うこともあるまい。と、思っていた。
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