新選組外伝 永倉新八剣術日録

橘りゅうせい

prologue    下谷三味線堀

 その部屋は、男たちの熱気に満ちていた。賽子サイコロの数字に、一喜一憂する者たちの流す汗と、酒と煙草の匂い。

 予想が外れた落胆、勝った者の歓喜。すべてが一体となり、鉄火場に特有の熱気とざわめきが、見えない渦となって立ちのぼる。

 下谷三味線堀の松平下総守・下屋敷の中間部屋は、お上が手をだせない賭場として、界隈ところでは知られた存在だ。

 この夜も、近くの武家屋敷の中間や足軽。御家人や職人、お店者と、あらゆる階層の遊び人たちが、賽子の目を追っていた。

 

 ところが、必死になって賽子の行方を追う客のなかに、賽子の目などは気にならないのか、冷ややかな態度の男がいた。

 男はまだ若い。二十歳ぐらいに見えるが、歳には不相応な貫禄がある。やや目尻の下がった、ひとの善さそうな顔つきだが、目付きは鋭かった。

 唐桟縞の着物の袖口から出た腕が節くれだって太く、肩口の筋肉が盛りあがっていることからみて、剣術遣いだろう。


 男は、賽子には関心なさげなくせに、ときおり端に座った越後縮の着流しの男に、ちらちらと鋭い視線を送る。

 男が気にしているのは、賽子の目ではなく、男と同年代に見える役者も顔負けの整った顔立ちの粋な侍のようだ。

 中間頭の才蔵は、唐桟縞の男に、ちらりと眼を向けるが、肩をすくめ寺銭の勘定に戻る。

 男とは知らない仲ではないが、なにしろ、男が博打が目当てではないくせに、この賭博に通いつめてもう五日めなのだ。


 賭場にいながら賭けをしないわけにもゆかず、男はすべての駒札を、興味なさそうに半に張った。

 そのとき、着流しの男が、駒札を精算して、賭場から出てゆくのが見えた。

 唐桟縞の着物の男も、あわてた様子で立ち上がる。

の半!」

 賭場の男たちから、低いうめき声が漏れた。


「――ちょっと待ちな」


 急いで駒札を精算すると、才蔵に五両ほうり投げ、男は外に飛びだし、三味線堀の舟溜まりで、着流しに声をかけた。

 三味線堀のどん突きは、不忍池からから流れでた水が、大きな溜まりになっており、まるで巨大な池のようで、鳥越川を経由して大川に注ぐ。

 溜まりには、船着き場と角々に番所があり、その灯りがちらちらと水面に写っていた。

 上げ潮なのか、微かに海の匂いがただよい、沖でぼらが跳ねた。


「わたしに、なにか用ですか?」

 振り向いて着流しの男が言った。

 口元のあたりに幼さが残るが、物言いは大人びている。

 男の誰何すいかには、気の弱い者なら震えあがるような怒気がこもっていたが、着流しは、気にしていないのか、爽やかな態度を崩さない。

「ああ……用事があるから呼び止めたんだ。

お前さん、このあたりじゃあ見ない顔だが……六日前に、あの賭場で揉めて、ここで喧嘩しなかったかい?」

「いや、ひと違いでしょう……あの賭場は、今日が初めてです。嘘だと思ったら中間頭に訊けばいい」

「よし、わかった。じゃあ、今から俺といっしょに来てもらおうか」

「付き合ってあげたいが、わたしは、これから野暮用があります。あなたが訊けば済む話です……悪いが、遠慮させてもらいましょう」

 着流しの男が、穏やかな微笑をうかべながら言った。

「いや、付き合ってもらうぜ」

「――それは難しいですね。あなたに用事があるが、ほら、後ろに」

 着流しが、男の背後を指差した。


「――!!」

 男は、殺気を感じて、大きく横に飛んだ。

 白刃が男のいた場所を、鋭く切り裂いた。

「なにやつ!」

「くたばれっ!」

 袈裟斬りに振りおろした刃先を返し、襲撃者は、斜めに斬りあげる。

 男は、一歩下がりながら、ようやく刀を抜いて、襲撃者と対峙した。

「おい、待て! 話の途中だ!」

 男が着流しに声をかけるが、もちろん返事はない。

 襲撃者の手前、そちらに視線を向けるわけにはゆかず、男の苛立ちは頂点に達した。

「やい、てめえ! せっかくやつを見つけたってぇのに、逃げられちまったじゃねえか!」

「知ったことかっ! おのれ、わしの顔を忘れたか!」


 そう言われて男は、襲撃者の顔を、はじめてまともに見た。

「ああっ、てめえは、あんときの狼藉者!」

「黙れ!」

 襲撃者の顔が、怒りに赤く染まった。

 

 三日前……。

 男は、東本願寺の茶店で、町人に難癖をつけ、恐喝していた侍を投げ飛ばしていた。

 その投げ飛ばした男が、目の前で怒りに震えていた。酔っているのか、眼が赤く濁っている。

「ふん、とんだ逆恨みだぜ」

「よくも、わしに恥をかかせてくれたな。貴様には死んでもらう」


 よく見ると、襲撃者は、ぞろりとした着流しだが、高価な絹物で、身なりは悪くない。無頼浪人ではなく、悪御家人のたぐいだろう。

「てめえのようなやつが徳川とくせんの家人とは、まったく世も末だな。

おい、俺はいま、機嫌が悪いんだ……今日は投げ飛ばすぐらいじゃ済まないぜ」

「やかましい!」

 襲撃者が鋭い突きを放つ。

 男はかわして肩口に斬りつけるが、突いた剣で跳ねられ、火花が散った。見かけによらず腕がたつようだ。

 男は、間合いを外し、拳を突きあげるように、大上段に太刀を構え直した。

 神道無念流。得意の上段である。

 襲撃者は、下段正眼に構えた剣先を、小刻みに震わせながら、それに対峙する。

 北辰一刀流。鶺鴒せきれいの尾。

 男は、あのときは、相手が油断していたから簡単に投げられたのだと、あらためて気付いた。

 襲撃者の構えに隙はない。

それどころか、男の大上段に怯んだ様子もなく、果敢に闘志をたぎらせている。


 こうなると、勝負は、一瞬の呼吸の読みあいになるのは必定だった。相手の動きを読み、その出鼻を挫くか、あるいは、気迫で圧倒して、一気に先手をかけるか……。

 鶺鴒の尾は、動きの起こりを読みにくくするため、先年世を去った千葉周作が編みだした技法だった。

 男の目が細くなり、相手の額のあたりに視線を軽く合わせ、剣先や相手の眼など、一点に注意が集中しないようにする。そのほうが、動きの起こりを捉えやすくなるからだ。

 そのとき、襲撃者の剣が動きだす気配を感じて、太刀筋を外し、一瞬遅れて刀を振りおろすと、刀身が月に煌めいた。

 後の先である。


 勝負は、一瞬でついた。


 男の目の前に、襲撃者が横たわっている。身体の下から、じわじわと赤い血が湧きだしていた。

 男は、しばらく呆けたように立ちすくんでいたが、あたりを見回し、誰にも見られていないことをたしかめると、刀にぬぐいをかけて鞘に納め、その場を立ち去った。


 なま暖かい風が吹いている。

 どこかで犬が吠えているだけで、あたりは静まりかえっていた。


 安政四年・弥生(1857年3月)。


 男の名は永倉新八。十八歳の春だった。



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