第3話:夜の街

 壁の上から見えたヴィーサの街は、ここから決して遠い距離ではない。けれど、近いというわけでもない距離だ。わたし達のような、子どもの足では尚更のこと。


「ねぇ、ニリツ。まだ着かないの?」

 わたしはそろそろ歩くことに疲れてきていた。暗闇のせいか、視界も悪い。込み上げてきた欠伸を噛み殺せず、わたしは大きく口を開けて「ふわわぁ……」と声を漏らす。

「あと少しのはずだよ。頑張って、ネヒア」

「言われなくても頑張るわ」

 まるで小さな子にでもやるように、隣から伸びてきた手が頭を何度も撫でる。わたしはついムッとして、振り払うように頭を左右に激しく振った。髪が揺れて何度も顔にぶつかる。痛痒くなってきたところでやめると、押し殺した笑い声が聞こえてきた。

 彼は馬鹿にしているわけではないだろうし、それはちゃんとわかっている。でも、先程からニリツばかりが手を貸してくれていることに悔しさを覚えないわたしでもないのだった。昔から、誰かに“してもらいっぱなし” は性に合わない。どこかで必ず、ニリツの役に立つのだ。

「疲れたらいつでも言っていいのよ。休んだって、わたしは構わないから!」

「それを言うならネヒアもね」

 彼はそのまま「疲れたなら休まないと」と付け加えた。わたしがへばっているのは看破されているらしい。でも意地っ張りな性格が邪魔して、素直に休みたいとは言い出せなかった。ただ少し、ほんのちょっとだけ眠いだけ。折角ここまでこれたのだから、一刻も早くニリツに映画を見せてあげたい。

 目の前には少しずつ明かりが増えてきた。

 わたしたちが生活する研究所から出てすぐは倒壊した家屋が多くて、人はあまり住んでいない様子だった。

 けれど、目指しているヴィーサは違う。ここらに住んでいた人たちは、みんなそちらの新しくて安全な街へ移り住んだのだ。龍騎士ビセン様の治めるこの街なら、もし化け物たちが攻めてきても守ってくれるだろう。

「ところで」

 思い当たってわたしは隣にいるはずの彼に話しかけた。

「ヴィーサって、『眠らない街』って言われてるけどどうして眠らないのかしら」

 ニリツに言えば笑われるか休もうと言われてしまいそうなので口にはしないが、わたしはもう眠たい。視界が悪いのは暗さのせいではなくて、下がってくる瞼のせいだったのだと気づいてからようやく分かった。

 研究所だって子どもたちはもうすっかり眠っているし、大人も眠り始める頃だ。だからこそわたしたちは監視の目を潜り抜けてここまで来れたのである。

 夜更かしする大人だって眠る時間なら、ヴィーサの街で起きている人たちは一体どんな人なのだろう。眠くならないのだろうか。

「さあ、どうしてだろうね」

「あんなにぴかぴかしているのは、電気があるからでしょう?研究所では電気は貴重だけれど、こっちはそうでもないのかしら」

「うーん、そうかもねえ」

 のんびりしたニリツの返事に、わたしは頰を膨らませた。

「ちょっとッ!ちゃんと考えてよ」

「考えてるさ。ネヒアこそ、どうしてか分かったの?」

「それは……まだだけど」

 そう言われれば言葉に詰まるのは道理だ。分からないことも、ニリツなら分かるんじゃないかって思ったから聞いたのに。

 でも、あんまりニリツは不確かなことを言いたがらない。多分、彼の中ではいくつか予想があるのだろうし、その考えに自信がないわけでもない。

 前に一度、どうして分かっていても言わないのかと聞いたことがあった。そうしたらニリツは困ったように笑って「間違えたくないから」と答えたのだった。

 確かに何かを言って間違っていたとして、それを他人に指摘されたりするのって嫌だ。わたしも先生に当てられたから勇気を出して答えたのに、間違えた途端周りに囃し立てられた時は顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 そういうところを含めて、ニリツは賢いのだと思う。

 適正検査の結果も高かったと聞く。普段の授業でも自分からは答えようとしないけれど、先生に当てられれば答えてみせるし毎回外すことはない。大人に教えてもらったことでわからないところがある、と相談してくる子どもがいれば、先生よりも噛み砕いたやり方で教えてくれる。運動も得意だし、性格は優しい。

 何でもできてしまうニリツは、わたしとは何もかも大違いなのだ。

「何にせよ、行ってみれば分かるんじゃないかな。どんな人がいるのか、楽しみだ」

 黙り込んだわたしを心配してか、明るい声でニリツが言った。

「いつも上を飛んでいるけれど、下を通るのは初めてだからね」

「そうね」

 続いた言葉に頷く。

 訓練中に研究所を出れば、大体街の上空を通過することが多い。歩くと遠いが、龍に乗ればあっという間だ。真ん中にビセン様の御座す大きくて高い塔が立ち、それを取り巻くように住宅街が広がる。外側に行けばさまざまなお店が立ち並ぶ様は、上を向いて開いた花のように見えるのだ。

 たまに通り掛かれば賑やかそうな市場が開かれていて、ちまちまと動く小さな人々の姿を目にしていた。見慣れない光景に、いつか行ってみたいなぁとも思っていたのだが思わぬ形で成就するようだ。

 そう考えれば、初めて入る街が俄然楽しみになってくる。忍び寄ってきていた眠気も、いつの間にやら何処かへ行ってしまっていた。

「ねえ、ネヒア」

 わくわくと胸を弾ませ、歩くことに精を出していると彼がわたしを呼んだ。

 珍しく歯切れが悪い。なあにと横を向けば、繋いだ手がきゅっと一際強く握られる。

「ネヒアはこれからどうしたい?」

「……?」

 突然何を言い出すのか、わたしには分からなかった。これからどうしたいかと聞かれても、龍騎士になってこの街を、延いては世界を守るくらいしかわたしの存在意義はない。

「先生の言うことを聞いて、12になったら東王様の軍に入るわ」

 東王というのは、天子様のお側に支えている騎士の一人で東の守備を担っているリウザン様のことを示している。天子様の血を濃く引いているリウザン様は、昔の言い方をすれば王子様だ。この街を管轄しているビセン様もこのリウザン様の部下に当たる。二人は血縁者でもあるけれど、重要なのは血の濃さと生まれ持った資質なので、立場は異なるのだそうだ。

 こう云う話は、全て側役のアルキから聞いた話だ。何でも、大人になって困らないために必要な知識なのだという。礼儀作法や決まりごとに対する知識を欠けば、どうなるか分からないと何度も何度も言われている。

 だけど、わたしが大人になるなんて想像もつかない。アルキが一生懸命詰め込もうとしている知識の使いどころが果たしてあるのかどうかよく分かってない。

 わたしはずっとニリツと一緒にいて、リウザン様の為に働いていくものだと思っている。

「どうせなら、ロノムみたいな立派な騎士がいいわ。ニリツは違うの?」

「……」

「ニリツ?」

 訝しんで名を呼ぶと、俯いていた顔はこちらへ向いた。きらきらとした目がずっと細くなって、暗い雰囲気はどこかへ飛んでいった。

 下を向いている時の彼は、どこか遠い場所にいるような、わたしの知っている彼ではないように感じた。だから、いつもの彼が戻ってきてくれたことに安堵する。

「おれも同じだよ。いつまでも、ネヒアと一緒に戦う」

 そう言って、にこっと笑った。変わらない、いつもの笑顔で。

 何だかやられっぱなしも嫌だし、いじわるがしたくなったわたしは大袈裟に胸を撫で下ろした。困ったような表情を作るのも忘れない。

「ああ、びっくりした。ニリツは龍騎士になりたくないのかと思っちゃった」

 すると、褐色の瞳は驚いたように見開かれた。

 暫く固まって、そして動き出したニリツは慌てたように首を激しく横に振る。

「そんなわけないよ」

「ほんとう?」

「本当」

 彼の狼狽ぶりが面白くてくすくすと笑えば、ニリツは照れたように微笑んだ。

 話しているうちに、ヴィーサはもう目前に迫っている。小さな秘密の計画も、ついに半分を切った。

 わたしは期待に身を踊らせ、大きな街を見上げた。

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