第2話:脱出

「ネヒア、こっち!」

 差し出された手を掴み、懸命に足を動かす。

 真っ暗な廊下は異様な雰囲気があって、気を張っていなければ止まってしまいそうだ。そうでなくとも、誰かに見つかってしまわないか気が気ではない。泣きそうになるわたしを連れて、ニリツは作戦通りに足を運んでいった。



 ◇



「具体的に、どうするの?」

 映画へ行くと決まり、ニリツの高揚が収まるのを待ってから、わたしは浮かんだ疑問を口にした。こんな荒唐無稽なことを言い出すのだから、あての一つや二つはあるのだろうと踏んでのことだ。彼は子どもたちの中でも頭が良い方だし、何かあっと驚くような提案でもしてくるに違いない。

「具体的に?」

「そう。何時頃に出るとか、見回りはどうするとか」

 わたしは指を折って、思いつくだけの難点を挙げる。すぐさま両手は埋まってしまった。

 昼間は勉強があるから、必然的にみんなが寝静まる夜になる。しかも、夜は夜で大人たちは子どもの様子を見に部屋を回るからどうやって監視の目を潜るのかも重要だ。それが上手く解決しても、まずは施設を出なくてはいけないし、問題は山積みである。

 期待を込めて見つめると、ニリツはへにゃっと笑った。

「うーん、何にも考えてなかったや」

 またもや気の抜けるような返事に、わたしは盛大にこけてみせる。

「全然ダメじゃないの!」

「何とかなる、何とかなる」

 ヒートアップしたわたしを宥め、ニリツは今度こそ真面目な顔で考え始めた。

「時間は、ネヒアも考えただろうけど夜だろうね。昼間じゃ監視の目もあるし」

「そうね」

「大人が眠るのは日付が変わるちょっと前だから、その後になるかな」

「わかったわ」

 真顔で次々と言葉を続けるニリツにつられて、わたしも真剣な顔になる。考えてはいないと言うけれど、どれも的を得たものだ。一旦スイッチが入れば、彼の頭には名案が浮かび続けるのだろう。

 言うことにいちいち頷いていたからか、ニリツは突然吹き出した。ムッとして睨むと、「ネヒアは遅くまで起きていられるかなぁ」と頭を撫でられる。

「それくらい、わたしだって頑張れるわよ」

「本当かな。訓練した後はいつもこーんな顔してるくせに」

 指で両頬をつまんで変な顔をしてみせる。その顔こそ、訓練後にへばっているわたしだと言いたいのだろう。わたしはそんなに無様な顔をした覚えはないし、何を言われても断固として認めないけれど。

「大丈夫よ、疲れないように手を抜くから!」

「くれぐれもバレないようにね」

「言われなくても」

 どんと胸を叩いてみせると、巡回の大人の足音が聞こえてくる。時計を見ればあと少しで午後九時、子どもは寝る時間だ。

 すぐさまお喋りをやめ、流れ続けていたテレビを消す。先を争うようにして布団に入ると、懐中電灯の光がドアの隙間から差し込んだ。ガチャリと音がして、部屋の扉が開く。

 わたしもニリツも、真顔を装う。すぐさま身を起こしていつも通り「おやすみなさい」と挨拶をした。今日の巡回担当はアルキ、わたしの護衛役も兼ねている女性だった。

「おやすみなさい。お喋りばかりしてないで、早く寝るのですよ」

 お決まりの言葉を掛け、アルキは次の部屋へと向かう。

 ドアが閉められても、足音が小さくなっても、わたしたちはどちらも言葉を発しなかった。

 アルキが見回りに来てから実に十分が経つ頃になると、うんともすんとも言わないニリツが寝てしまったのではないかと不安になる。やっと楽しくなってきたのに、もう寝てしまうのか。もし寝ていても揺すり起こしてやろうと手を伸ばすと、温かい手に包まれた。

「起きてるよ」

 するすると布が擦れる音がして、ニリツがこちらににじり寄ってくる。負けじとわたしも布団の端まで移動した。

「寝てたら叩き起こすところだったわ」

「やぁ、怖い。ネヒアのは痛いからなあ」

 おどけてみせたニリツは口に両手を当ててふふふっと声を漏らした。言外に乱暴だと言われたようで納得できない、脇腹をつついて黙らせる。

 こうして布団を寄せて話すのはいつものことだけれど、内緒話をして眠るのはアニメを見る次に楽しみなことだ。

 粗野で何にでも興味津々なわたしとは真反対、優しくてのんびりしたニリツは一見合わないようで、他の誰よりも仲良しだ。彼と会ってかなり経つけれど、ニリツと離れて他の子どもたちと寝るなんて考えられない。

「じゃあ眠くなるまで続きを考えよう。映画が始まるまで、あと一週間もないんだから」

「なるべく早く見られるように、頑張らなくちゃね」

 二人で頭を寄せ、くすくすと笑い合う。


 わたしたちは、この日から今日までの間に、たくさん話し合って壁にぶち当たっては頭を絞って解決してきたのだった。



 ◇



「ニリツ、光ってる!」

 飛び出そうとした彼の腕を引っ張り、強引にしゃがませる。

 頭上には赤いライトがくるくる回り、辺りを警戒していた。これにうっかり引っ掛かってしまえば、折角考えてきた数々の計画は全て頓挫することになる。どきどきと早まる鼓動に目の前が暗くなった。

 怖くないといえば嘘になる。やっぱりこんなことはやめたほうがいいとも思う。

 だって、いい子にしていれば怒られないし、劇場版のテープが出れば、ねだりにねだって買ってもらえるかもしれない。ここで危ないことをしなくても、結果的には見られる可能性は十二分にある。それなのにこんなことをしているのは、ニリツの笑顔のためだった。自分だって、まだ見た事のない龍騎士ロノムの活躍を見たいけれど、それ以上にきらきらの笑顔でアニメを見るニリツが見たい。そのためなら、とにかくすくむ足を前に出すくらいの頑張りは必要なのだ。

「行くよ」

 警戒の赤ランプが一瞬だけ途切れるのを待って、わたしたちは再び走り出した。電気は貴重だから、弛まなく供給されているわけではない。その隙をついて進もうというわけだ。この為に、何度も何度も観察をした。ここまで抜け出すくらいなら、今日までにも何回か練習してきている。

 出口まではあと少し、わたしたちは手を取り合って門の反対を目指して走り続けた。

 立ちはだかる壁を目の前にすると、わたしたちはどちらがとも無くスピードを落としていた。

「おれが先に行く。ネヒアは言った通りに足を掛けて登っておいで」

「……うん」

 声が震えているのを気取られないよう、小さな声で返事をする。だが、体がこわばっているのが分かったのか、ニリツはわたしの肩をポンと叩いてから壁に手を掛けた。こんな暗がりなのに、彼にはお見通しらしい。

 壁に登るのも、部屋を抜け出すほどではないにしろ練習した。これは最大級に危険が伴う。見つかるだけじゃなくて、一歩間違えば大怪我もあり得るからだ。怪我で済めばいいが、てっぺん近くで手を離そうものなら死んでもおかしくない。

「ネヒア」

 ある程度登ったニリツが声を掛けてくる。わたしは何も言わず、彼の辿った場所を手探りで登り始めた。

「そこ崩れそう。危ないから気をつけて」

「ここは持ちやすいよ」

「あともう少し。頑張れ、ネヒア」

 上から降ってくるアドバイスに耳を傾け、着実に登っていく。風が吹き付けるたびに足が竦むけれど、頼もしい声のおかげで止まらずに済んだ。

 と、一足先にニリツがてっぺんへ辿り着いた。

「あと少しだ、慎重に」

 励まされながらも、差し伸べられた手を掴むべく左手を懸命に伸ばした。わたしの手とニリツの手がしっかりと触れ合う。ぐっと引き寄せられ、わたしも遅れて頂上へと登りつめた。建物の三階相当を登ってみせたのだ、誇らしい気持ちにもなる。

「やっと半分ね」

「いいペースだよ」

「今日のために、沢山練習したもの」

 ふふ、と顔を見合わせて笑う。真下には暗い森が広がっているけれど、目を馳せれば色とりどりの光が見えた。眠らない街ヴィーサの明かりだろう。

 昼間は地味であまり目に止まらない場所だけれど、こうしてみるときらきらしていてとっても綺麗だ。今も、そしてこうなってしまう以前も、それなりの都会ではあったけれど他の場所に比べれば輝いていた場所ではない。きっと、ヴィーサがこんな姿も見せるなんて、他の子どもたちは知らないに違いない。わたしたちは暫しその眺めを堪能した。

「さ、今度は降りよう。下りも焦らないように」

 ニリツの言葉に頷き、手際よく降りて行く姿を見守る。彼の足取りはしっかりとしていて、迷いが感じられない。降りる方が自分の目で確認できない分不便なはずなのに、怖くないのだろうか。

 名前を呼ばれて、わたしもゆっくりと降り始めた。爪先で壁を探りながらなので遅々として進まないが、焦ってはいけないと自分に言い聞かせる。

「着いた」

 おっかなびっくりの状態で壁を降り続け嫌気がさしてきた頃、喜色の滲んだ声が聞こえてきた。

「ネヒアもあとちょっとだよ!」

「少しってどのくらいよ」

「うーん、四メートルくらい」

 ちょっとじゃない!と叫びだしたいのを堪え、右足を移動させる。だが安堵したせいか、窪みを外れて壁の上を滑ってしまった。驚きと焦りにバランスを崩したわたしは、無我夢中で壁に爪を立てようとする。だが努力も虚しく、伸ばした指は壁面を掠めるだけでなかなか引っかからない。わたしはそのまま空中に投げ出された。

「きゃ……」

 恐怖に目を見開き、衝撃に備えようと身を縮めたその時。

「ネヒア!」

 上げかけた悲鳴が遮られたかと思うと、どんっという衝撃が来て地面に転がった。びっくりはしたが、痛いところはない。落ちたショックで混乱していたところを、苦しそうな声が我に帰らせる。

「〜っつ!」

 下から聞こえて、慌てて退いた。すると、わたしのお尻の下から、大の字になって寝そべるニリツが現れる。

「ごっ、ごめんなさい!」

 後ろから倒れ込んだわたしを助けるべく、ニリツは覆い被さるようにして庇ってくれたのだろう。頭を抑えて倒れている彼に駆け寄ると、心配するなとばかりに手を握られる。

「本当にごめんなさい、大丈夫?」

「ああ、大丈夫。ネヒアが無事ならよかった」

 引っ張って助け起こすと、ニリツはニヤッと笑って続けた。

「脱出成功!」

 ニリツがこちらに手を伸ばしてくる。わたしは勢いよく自分の手を打ち付けた。ぱんっ、と小気味良い音と小さな衝撃が返ってくる。

「脱出、成功ね」

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