第176話 愛欲


「はい、完治」


「……ありがとうございます」


 イーリウを小瓶に入れた音央は相良から離れていく。白い服が赤く染まった相良ではあるが、立ち上がることも走ることも出来る。


 時雨達はそれを確認して再び階段を上った。


 祈は奥歯を噛んで前を向き、紫翠は一本減ったホルスターを撫でる。


 氷雨は汗を手の甲で拭い、消耗した体力を戻そうと落ち着くことを心がけた。


「翠ちゃんの武器、格好良かった」


「ありがとう。氷雨は今日も変わらず格好良いわよ」


 氷雨と紫翠はお互いに視線を向けて、自然と片手を軽く合わせている。帳は二人の声を聞きながら拳を握り、三階の扉の前に辿り着いた。


 無月は扉に手を起きながら確認する。


「次の階はなんて間だっけ?」


愛欲あいよくの間よ」


 紫翠は目を細めて「嫌な部屋」とも呟いた。


 無月は肩を竦めて「どーも」と答え、祈と共に扉を開けていく。


「おやおや、いらっしゃい子ども達」


 部屋の空気は肌に纏わりつくような重たさを持っており、立っているだけで平衡感覚が崩れそうな心持ちだ。


 今までの二部屋のように押し潰すような圧迫感ではない。ゆっくりと肌から浸透し、内側を溶かしていくような、そんな気迫。


 その部屋の獣はしわがれた声で戦士達を迎え入れた。


「私の名前はギルタブリル。第三の階層を司る獣である。想いを宿した戦士達。貴様達に、私は愛欲の罰を与えよう」


 ギルタブリルと名乗った獣の顔は老婆にも老爺ろうやにも見えるものだった。皺の多い顔に高い鉤鼻。白髪を首の後ろで一つに纏め、暗い紫色の着物を身に纏う。


 (ここだけなら今までよりまだマシだったのに)


 帳は思い、視線をギルタブリルの下半身に向けた。


 あるのは節足動物特有の六本の足。着物と同色の甲羅に覆われたそれは長く、一つの尾を持っていた。


 それは正しく――さそり


 全員がその名前を浮かべ、ギルタブリルは男とも女とも取れる曖昧な声で喋り続けたのだ。


「さぁおいで。大丈夫、痛くも苦しくもないさ。私に加虐趣味はない。この毒に身を任せて、愛しい人の夢を見て眠りなさい」


 ギルタブリルの尾が動き、鋭い先端から青紫色の液体が滴り落ちる。それが落ちた床は腐り、出雲は手甲鉤を構えたのだ。


「嘘つき」


 ギルタブリルは皺を深くして笑っている。


 茉白が小瓶を割り、砂塵がギルタブリルに向かってしなる。獣は目を細めたまま砂塵に向かって青い唾を吐き、砂はぐずぐずに溶け落ちるのだ。


 出雲は床を蹴って白玉と共に突き進む。ギルタブリルはやはり笑い、出雲に向かって蠍の尾を振り抜いた。


 白玉の爪と出雲の手甲鉤が蠍の尾を切りつけて軌道を変えさせる。


 しかし、ダメージを受けたのは戦士と心獣の方だ。


 獣の切りつけられた尾から流れた血液は、一人と一匹の刃を溶かしたから。


 それも毒。腐臭を発する猛毒。


 出雲は反射的に後ろに地面を蹴り、彼女に向かって振り下ろされた蠍の尾から距離を取ろうとした。


 宙を雷電が走る。


 時雨は拳に纏った電気を獣の尾に直撃させた。


 しかし鈍く輝く甲羅が青年の雷を弾き、傷口から毒の血液が飛び散ってしまう。


 出雲を庇った白玉の毛の一部と、壁となった茉白の土が溶け落ちた。


 祈が打ち出した羽根はギルタブリルの体を傷つけるが、それは余計に毒を出させることに繋がってしまう。


 空気に腐臭が混じっていく。


 否、空気自体が腐っていく。


「愛しさとは毒になる。雷電で庇う愛。しかしそれは危険な毒を孕んでいた。刃の雨で道を作る愛。だがそれも状況を好転させる薬にはなり得まい」


 ギルタブリルの周囲の床が溶けていく。


 溶けて、腐って、ぐずぐずに。


「嫌な話だ」


 地面を蹴った無月は鎖鎌の腕を振り下ろし、ギルタブリルの首へと巻き付けた。


 鎖はギルタブリルの首を締め上げ、鎌が獣の側頭部に突き刺さる。


 だがそれが致命傷になることはない。深々と刺さったように見えた鎌はギルタブリルの表皮を覆う毒の汗によって溶け落ちたから。


 首に巻き付けた鎖も溶けていく。全てがグズグズに溶けていく。


 小さな救いは無月が痛みを感じないと言うことだろう。彼は舌打ちし、自分の左横腹を抉った蠍の尾に眉根を寄せた。


「あぁ、お前からは深い愛の匂いがする。歪んだ愛だ」


 ギルタブリルの目が光る。無月は後方に跳んで距離を取り、そのこめかみには青筋が浮かんでいた。


「愛に歪みも何もねぇだろ。俺の愛が歪んでるなら、正しい愛ってなんだよ」


 彼の中に浮かんだ女性がいる。守りたかった人。誰にも見せたくなかった人。自分が生贄になることを泣いて願った人。朽ちた美しい見目に、気品ある空気を携えた女王様。


 無月は奥歯を噛み締めて、鎌から戻った手からは数本の指が無くなっていた。


 相良と氷雨はその状況を確認しながら奥歯を噛み、閉まり続ける扉に滑り込む。三度目ともなれば辿り着くことに迷いが無くなった二人であるが、いた気持ちが観察を怠らせた。


 二割ほど閉まった扉に相良が触れ、りずも押さえにかかる。


 瞬間。


 少年の掌に刺激が走り、りずが痛みに叫んだのだ。


「あぁ!? いってぇ痛ぇ痛ぇ!! 何だこの扉!!」


「りず君! 時沼さん!!」


 つっかえ棒から針鼠に戻ったりずを氷雨は抱える。見ればパートナーの針の一部が溶けており、相良の手も軽い火傷を負っている。氷雨は食い入るように扉を凝視した。


 暗い灰色のそこには薄くではあるが液体が着いている。ひぃが顔を近づければ刺激臭が鼻腔を刺激し、ドラゴンは弾かれるように体を引いた。


「なんて酷い毒……駄目です氷雨さん、この扉は押さえられませんッ」


「そんな……ッ」


 ひぃが叫び、氷雨と相良は室内に視線を走らせる。


 そこではギルタブリルが尾を勢いよく振り、毒液を際限なく戦士達に向けている姿があった。


 祈の鳥の足が焼け、光の盾も綻んでいく。


 帳は防御に風を回して動きが鈍くなり、時雨は毒を散らしてしまうだけだと雷の反撃に移れない。


 相良は一番近くにいた音央の元に転移し、扉の奥に転移し直した。その要領で次には光を、出雲を、白玉を捕まえて飛ぶ相良。


「扉が押さえらんねぇ!! 急げ!!」


 相良が叫び、彼は毒を転移してかわす。飛び出した氷雨と祈は帳を庇い、毒液を浴びたりずと黒い翼は各所が溶けた。


 それでももう、痛いという叫びは上がらなかった。


「りず君ッ」


 氷雨の腕が震える。しかし使われることを望んだのはりず本人だから。


「いい、使え氷雨。俺はお前の盾で、矛なんだ」


 りずは答え、氷雨は叫び声を飲み込む。


 毒液を容赦なく部屋中に振り撒くギルタブリルは、扉をくぐった戦士達を見て笑っていた。


 蠍の尾の動きが変わる。


 予測できない動きで毒を振りまいていたそれは、一直線に扉の奥へと振り抜かれた。


 音央は瞬時に気づいてリフカで尾を受け止めたが、蠍の針は容赦なく植物を突き抜ける。


 そのまま針の先端からは、毒の塊が弾丸のように弾き出されるのだ。


 リフカの盾を超えて音央の左肩に毒が直撃する。叫びそうになった彼ではあるが、それよりも先に発射された次の弾丸が少年の右足を掠めていった。


「扉の奥こそ逃げ場がないだろうに」


 ギルタブリルが笑う。


 扉は閉まり続け、出雲の溶けた手甲鉤が音央を庇う。彼女の腕にも毒がかかりはしたが、出雲は努めて口角を上げたのだ。


「扉の奥はセーブポイントだと思ったんだけど!!」


 彼女は殺傷能力の無くなった片手の手甲鉤を外し、ギルタブリルに向かって一直線に投げていく。扉はもう既に半分以上閉じて隙間は狭くなっていたが、それでも彼女は迷いなく投げたのだ。的である獣は口から毒を吐き、当たる前に手甲鉤は床に落ちたのだが。


 その少しの間。ギルタブリルの意識が扉から逸れた時。


 凩兄妹が、扉に伸びる蠍の尾を破壊する為に床を蹴った。


 兄が雷電で焼いた部分を妹の刃が切断する。


 傷口から吹き出した毒液は帳の風が包んで壁に叩きつけ、扉奥への攻撃が止んだ。


「行け氷雨!! 扉が閉まる!!」


「兄さんこそ!!」


 兄妹はお互いを見て扉に向かう。祈と帳もその後を追い、ギルタブリルの尾が傷口から生え変わる様を見つめていた。


 新たなギルタブリルの尾から毒液が天井に向かって噴出される。それは天井に当たり、毒の雨となって部屋に降り注ぐのだ。


 帳と祈は反射的にフードを被り、尾の先を投げ捨てて扉の中へ転がり込む。止められないことで今までの階よりも閉まるのが早い扉は、黒の少女の心を掻き乱した。


 扉の奥に入ってもギルタブリルは狙ってくる。ならば一刻も早く扉を閉めなければいけないと思うが、まだ全員が通れていなくてはどうしようもない。


 祈が翼を閉じながら扉の奥へと飛び込み、それを追うようにギルタブリルの尾が伸びる。


 氷雨は奥歯を噛み、りずが叫ぶのだ。


「使え氷雨!!」


 りずがみずからの意思でスクトゥムへ変身する。


 大きな盾。後ろに戦士を隠す為。氷雨を何度も救ってきた強固な防具。


 氷雨は胸を掻き毟りそうになるのを堪えて飛び出し、りずを床に勢いよく突き立てる。


 尾を防ぐ為に。傷つく者を減らす為に。


「ほんま、嫌んなりますわぁ」


 そんな声を拾ったのは、氷雨とりずが覚悟した時だった。


 黒の少女が見たのは、蠍の尾の進行方向に何重にも立てられた土の壁。それらを突き溶かすことによってギルタブリルの尾の勢いは減退し、帳の風のお陰で毒の雨はやんでいく。


「持ってきた土、全部つこうてしまいましたわ」


 ため息を吐いたのは恋草茉白。氷雨は目を丸くして、そんな彼女を押す者がいた。


 束ねた茶髪に黒いフードを被った、氷雨の大事な友人。


「翠ちゃ、ッ」


「入って、氷雨」


 りずが針鼠に戻り、イーリウで傷を塞いだ音央が氷雨の背中を支える。


 扉の方を向いている紫翠はたった数歩を進む気がない。


 無月と帳は扉の前に辿り着き、ゾンビの戦士は言っていた。


「俺が残るけど」


「貴方、体が全部溶けて無くなるわよ。私の方がマシだわ」


 無月を扉に押し込んだ紫翠。押された彼は少しだけ黙り「そうだね」と潔く頷いていた。


 扉は七割ほど閉まっている。


 紫翠と背中合わせに立った茉白は土の壁を幾重にも築き上げ、光が目を見開いて呼びかけた。


「茉白さん!」


「光はん、戻ったらあきまへん。そこからこちらへ戻ることは許しゃしません」


 茉白は笑い、彼女の壁が壊されていく。ギルタブリルは「こりゃまた」と笑っており、より強い毒を体内で作る為に一度動きを止めていた。


 紫翠はそれを確認し、自分の手首を掴んだ氷雨を見る。


 黒髪の友人は首を横に振り、それを茶髪の彼女は笑うのだ。


「行って氷雨。扉を早く閉めましょ」


「待って翠ちゃん、残らなくていい、今なら一緒にッ、恋草さんだって!!」


「凩はんは優しいですなぁ」


 茉白は「それでもなぁ」とのんびりとした声で笑っている。


 紫翠は目を一度伏せると、氷雨の手を離させて押し戻した。


 茶髪の彼女は仲間が作った鎧の袖を伸ばして手を覆い、閉める為に扉を押す。


「翠ちゃん!」


「いいの。後ろで壁が守ってくれて、ギルタブリルが止まってる今なら安全に進める。あいつが次に動き出したら全てを突き破る毒が来るかもしれないしね」


 紫翠のそんな予想は、正しかった。


 ギルタブリルが時間をかけて作る毒は酸性を上げ切った、匂いを嗅ぐだけで喉がただれそうになる代物だ。


 それはもう数十秒で出来上がり、その間に扉が閉まり切ることは無い。扉の奥へ走ろうとも、土の壁がどれだけ強固でも、隙間があればギルタブリルの尾は戦士達を追いかけて貫くだろう。


 だから早く扉を閉めなくてはいけない。


 紫翠は力を込め、祈の声を聞いたのだ。


「楠さん! 俺が残る! 残るから!」


「駄目よ闇雲。貴方のその鎧だと、扉を閉める前に貴方の手が溶ける」


「でも!」


「いいから……エゴ、さっさと行って」


 紫翠は視線を上げて帳を見る。少年は少しだけ間を作ってから、何も言わずに扉の隙間に入り込んだ。


 紫翠はその背中を見る。


 自分達が任せると決めた一人の少年。


 一階に残った仲間が押したその背中。


 少女は仕方が無さそうに息を吐くと、その背中に手を伸ばしていた。


 少しだけ。


 本当に、少しだけ。


 それでも確かに、紫翠の手が帳の背中に添えられる。


 紫翠の手は力を込めて、仲間の背を押したのだ。


 帳は目を見開き、強制的に閉まる扉の向こうに引かれた手を振り返っていた。


「託すわ、エゴイスト」


 紫翠が力いっぱい扉を押して閉めていく。


 最後に見たのは今にも叫びだしそうな氷雨の顔で、紫翠は笑って見せたのだ。


 毒を作り終えた獣が尾を振るう。


 茉白は完全には閉まり切っていない扉を確認し、分厚くした盾を何層にも重ねて尾の進行を抑えようと力を込めた。


「はよ閉めんさい!」


「言われ、なくても!」


 茉白の盾が壊され壊され、壊される。


 溶けて、落ちて、崩れて、少女の目の前の盾に亀裂が入ったのは一瞬の出来事だった。


 扉が閉まる。閉まり切る。


 道が塞がれる。


 瞬間、紫翠は茉白の腕を掴んで地面に倒れこみ、扉に突き刺さる直前で止まった尾を見たのだ。


「あぁ、閉まってしまったか」


 さほど気にしていないようなギルタブリルの声がする。直ぐに起き上がった紫翠と茉白は、崩れた土壁の先に立つ獣を見つめていた。


「うんうん、良い目だ。恋する目だ。愛する匂いだ」


 ギルタブリルの尾が引かれて、肺を犯すような匂いを振り撒く毒を落とす。紫翠は手裏剣を構えて立ち上がり、茉白の周りで土が動いていた。


「愛はいい毒になる。苦しい毒だ。何よりも苦しい毒だ。進んでしまった戦士達にもその毒を、」


「与えさせなんかしないわ」


 紫翠は答えて、ギルタブリルが目を細める。


 茉白は共に残った少女を横目に見て、口角を上げていた。


「一緒に行かれても構やしませんでしたよぉ」


「一人だと扉が閉められないでしょ」


「そないなことありゃしませんわ〜」


「ほんと鬱陶うっとうしい女ね」


 紫翠は眉間に深く皺を寄せ、茉白は肩を竦めて見せる。


 白の少女は、酷い表情をしていた光を思い出していた。きっと彼の事だ。今頃自分が変わりに残れば良かったのだと嘆いているに違いない。


 しかし、それは茉白も各階に残った二人も望まないことなのだ。


 先に進むのは光でなくてはいけない。光でなくては駄目なのだ。


 茉白は正直ディアス軍のことなどどうでもよかった。自分が生きる為なら死んでしまえばいいし、協力したいと言ってきた光には流石に呆れた。


 それでも、その目がどこまでも真っすぐで善人だから。その善人に付き合って、自分も善人のふりをするのも良いかと少女は安易に未来を決めたのだ。


 彼女は華道の家元の、所謂いわゆるお嬢様だ。他の者とは一線を引いて接してきたし、自分の利益にならないことはしない主義。だからこそ光とは馬が合わない面が多々あったが、それでも共にいたのは自分にはない輝きが面白かったからだ。


 彼女の面白いは、今日に限っては直ぐに無くなってしまったが。


 博人が残り、暁も残るという連続の消失。ならば次は自分が残らねばと考えた茉白は扉が閉まって初めて安堵してしまった。


 自分も誰かの為の盾なんて作れたのかと。


 誰かの為にという考えを持つ善人被れであったのかと。


 それを、直ぐに熱くなる仲間はどう言ってくれるだろうかと。


 ギルタブリルのしなる尾と飛び散る毒を躱す紫翠と茉白。フォカロルのブレスレットを使って外に転移してもいいのだが、ギルタブリルが扉の奥に進まないという確証がない限り、その決断は下せなかった。


「何故かわす?  確かに毒は痛いが、夢を見て死ねるのは本当なのじゃよ。愛しい人の夢を見て、眠るように死ねばいい」


「愛した人を夢見て死ぬなんて真っ平よ。その人とは現実で、生きて再会するの」


 紫翠は答え、フードを目深に被り直しながら手裏剣を投げる。


 網目となって開いたそれは既に帯電しており、蠍の尾に絡みついた。


 電流がギルタブリルの体を駆け回る。


 それに唸った獣は尾を何度も床に叩きつけ、傷つけ、こぼれる毒の血で溶かしていった。


「あらまぁお嬢さん。この勢いやと、あんさんの武器は無くなってしまいますのと違う?」


 土を操り笑う茉白。紫翠は息をついて袖に隠していた手を出すのだ。


「私の力を甘く見ないでくれる?」


「ほんと、可愛げがあらしませんわ」


「どっちがよ」


 ギルタブリルの尾から銀の網が溶け落ちる。その間に獣の体を這った電流は少なくなく、ギルタブリルの動きは少しだけぎこちなくなった。


 茉白がゴーレムを作り上げる。


 ゴーレムはギルタブリルに向かって走るが、叩き潰す為に振り下ろされた手は毒の尾に砕かれた。


 ギルタブリルは見る。


 自分が壊した土人形の欠片の中に紛れた黒を。


 紫翠は掌を押し出してギルタブリルの鳩尾を狙い、獣の尾は少女の腕に向かって毒を吐き落とした。


 その痛みから守るのは黒い鎧。繋ぎ止められた彼の力。


 ギルタブリルは紫翠の信念を持った瞳を見て後ろへ跳躍した。紫翠の手が鳩尾に触れる前に。


 少女は舌打ちしたくなるのを堪えて後ろに距離を取り、繊維が溶けた上着の袖を見たのだ。


「……気に入ってたのよ、これ」


 紫翠は呟いて姿勢を正す。


 人から物を貰うことを恐ろしいと感じていた時があった。与えられ過ぎることに酸欠になった頃があった。


 それでも、その不安と切迫感から引き上げてくれた仲間がいる。


 自分を認めてくれた。弱さも、生き方も、覚悟も。全てを認めて、叱って、心配して、許してくれた。


 彼女の足は震えない。空気に気圧されることも、背中が曲がることもありはしない。


 全ては愛しい仲間の為に。


 仲間との、愛しく欲する明日の為に。


「貴方の力を抜いて、安心してこの部屋を出させてもらうわよ」


 紫翠はそう声を発した。口にした覚悟は自分を鼓舞すると知っているから。


 茉白は口角を上げ、残り少ない土でゴーレムを作る。


 ギルタブリルは尾の針だけではなく表皮から毒の汗を流し、流した毒の涙を拭うこともせずに笑っていた。


「あぁ、罪深い愛の匂いがする」


 茉白のゴーレムが腕を振り下ろす。


 紫翠は手裏剣を投げ、笑いながら目を見開いた獣に立ち向かったのだ。

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