第158話 頑固


 家に帰ったら兄さんがいた。


 まだ大学は休みでは無い筈なのに、目の前に。


 仁王立ちで腕を組んでいる兄さんは目付きと身長が相まって迫力があり、私は情けない声を零してしまったのだ。


「わぁ……おかえり、ただいま」


「ただいま、おかえり」


 一応挨拶をしながら玄関を閉める。兄さんも眉間に皺を寄せたまま返事はくれて、私は鞄を肩に掛け直した。


「……どしたの急に」


 目線を逸らしながら聞いてみる。すると兄さんの方から「あ?」と低い声が聞こえて、私は肩を竦めるのだ。


 その声はとても苦手なんだがな。


 少しだけ沈黙が続く。兄さんは静かに息を吐くと、リビングへ繋がる扉を開けていた。


「昼は」


「ぇ、ぁ、まだ……今日三時間授業だったから」


「冷やし中華でいいか」


「……うん」


 生返事をしながら、リビングに入った兄さんを見る。私も後を追えば、台所に立っている兄がいた。


 エアコンを入れていたらしく、外とは真逆の心地いい空気に息を吐いてしまう。自転車を漕いで流れた汗も引いていく気がした。


 目が合う。


 兄さんは眉間に皺を寄せたまま、つっけんどんな声で言うのだ。


「準備しとくから、シャワーでも着替えでもしてこい」


「ぁ、ありがとう」


 反射的にお礼を口にすれば、あっち行けと言わんばかりに手を振られて私は自分の部屋に行く。鞄を置いてりず君達を出してあげれば、私達の間には疑問符が飛び交った気がしたのだ。


「……兄さんがお昼作ってくれるらしい」


「はぁ……」


「おぉ……」


 ひぃちゃんとりず君も状況が飲み込めていない顔で生返事をし、私は着替えを準備する。


 ただ一人、らず君だけは嬉しそうに笑っていただなんて……なんだかなぁ。


 * * *


 ハムに卵焼きに胡瓜きゅうりにと、色鮮やかに盛り付けられた具材と絶妙に茹でられた麺。シャワー後に待ち受けていたお昼ご飯は兄さんらしく、丁寧に盛り付けされていた。


 お礼を伝えれば「早く座れ」と言われたが、気にしないことにした。


 冷やし中華を兄さんと向き合って食べる。


 Tシャツにズボンと言うラフな格好である私は、家から出る気がないと言っても良いだろう。兄さんも似たような格好だ。麦茶が美味しかった。


 ソファに座って落ち着かない様子のひぃちゃんとりず君。私の頭に乗っているらず君は、兄さんを凝視している気がした。


 会話が無い部屋。「いただきます」と「美味しい」を言ってから言葉というものが発せていない。


 私はカレンダーを確認して、兄さんが帰省する予定が無かったことを確認した。


 あ、卵焼き美味しい。


「お前、死ぬ気か?」


 不意に。


 そんな言葉を貰って、お箸を止めて兄さんを見る。


 頭から落ちたらず君を瞬発的に受け止めたが、兄から視線は外さない。麦茶を飲んでいる兄さんの目もこちらを向いて、お皿の中は既に完食されていた。


「いや、死ぬ気は無い。生きる気しかない」


 らず君を机に下ろす。微かに震えているパートナーを撫でて笑えば、安心したように目を細めてくれた。よかった。


 お皿の縁に付いていた胡瓜を集めて口に運ぶ。あと数口で私のお皿も空っぽになるだろう。


「ならなんで競争をやめなかった」


 グラスが少し音を立てて机に置かれる。揺れた茶色い水面を見つつ、私は口の中の物を咀嚼して飲み込んだ。


「仲間を置いて自分だけやめた先だと、私は一生後悔するから」


「なんでだ、折角の安全圏だろ。なのにお前、後悔なんて言ってんじゃねぇよ」


 兄さんの顔を見る。眉間に皺が寄りっぱなしの彼は苛立ったような声を吐いた。


「中立者を生贄にしてどうする」


「どうもこうも、それだけだよ。あともう一人悪を探して、勝ちに行く」


 喉の奥に煙が溜まっていくような感覚がする。言いたいことが言葉に出来ないような、不確かで息がしづらい感覚。


「ならルアス軍の意識は抜き続けろよ。そうすれば勝てるのに、なんで中立者を捕まえた後に戻す算段なんだ」


 また喉に突っかえる。


 彼の言葉は、自分の意識があるだけならお前達は勝てると言っているように聞こえたから。ルアス軍の中に彼自身を数えていない気がしてならないから。


「抜いたのは邪魔をされない為だけど、それは中立者さんを捕まえる間だけでいい。それだけは邪魔されたくない。その後はまた起こさないと、意識がないまま殺すなんて狡いと思う」


「狡くないと勝てねぇだろ」


「そんな勝ち方したくない」


 兄さんの目を見て答える。そこにある黒い双眼は揺るぎなく、やっぱりまだ怒っていることが伝わってきた。


 それでも引かない。逃げない。これは私達が決めた道だから。


「氷雨、お前らが中立者を捕まえたいのは生贄にする為だけって訳でもないんだろ。兵士達を殺された復讐を望んでるんだろ」


 兄さんの目は射貫くように私を見つめてくるから奥歯を噛んでしまう。胸の中でくすぶる感情が煮えて、煮えて、煮え続けてしまう。


「そうだよ」


 この場に嘘偽りはいらない。


 そう思って私は言葉を贈る。兄さんは目を細めて、私はらず君の頭をまた撫でた。


「私達の生贄の条件は、シュスの誰もが悪だと言い、私達の尺度で測った時も悪だと言えるその人。中立者さんはディアス軍の兵士さんから悪だと思われていて、ルアス軍の兵士さん達も否定する人はいなかった」


「それにお前達も悪だと思うから捕まえるってか?」


「そうだよ。その邪魔は誰であってもさせたくない。だからルアス軍の戦士の人達の意識を抜いてもらたったし、ディアス軍の戦士さん達にラキス・ギオンを配ったんだ」


「中立者を捕まえる前に決着がつかないように、か」


 頷いて見せる。兄さんはため息を吐きながら頭を触り、私は冷やし中華を食べ切った。


 手を合わせて「ご馳走様」を言えば「お粗末」と返事がもらえる。私は麦茶に口をつけて、兄さんの言葉を聞いていた。


「なら、なんでそれに俺達を協力させない」


 口からグラスを離す。私は目を見開いてしまい、グラスを持つ手に力が籠った。


「なんではこっちの台詞だよ。兄さんはルアス軍で私達はディアス軍だ。ルアス軍は生贄を救うことが目的なのに、どうして生贄を捕まえる手助けをしようとするの。させてもらえると思ったの。私にはそれが分からない」


「兵士からの票集めは手伝わせたのにか」


「それは私達だと出来なかったからだ。協力ありがとう。でも、だからって仲間になった覚えはない」


 伝えておく。帳君も翠ちゃんも、祈君も梵さんも、考えは皆一緒だった。意見は一致していた。


「利用しただけってか」


「そうだよ」


 グラスを机に置く。


 ひぃちゃんは私の肩に来て、尾を首に巻いてくれた。らず君は机の上で右往左往し、走ってきたりず君がすり寄って落ち着かせてくれる。二人共ありがとう。


「お前達の本質はそこなのか?」


 兄さんが聞いてくる。


 その問いのせいで私の喉に溜まる煙は濃くなって、呼吸が苦しくなるんだよ。


「中立者を捕まえる。確かに票も集まったし、下準備も進んでる。だが相手は神だぞ。五人だけでどうにか出来ると思ってんのか」


  兄さんは「いや、あの灰色の奴を入れたら六人か」なんて呟く。私はりず君とらず君を肩に乗せた。


「泣語さんも一緒には行かない。あの人はもう十分良くしてくれた。ここで別れるのが正解だ」


 もう聞くな、もう掘り下げるな、頼むから。


 思うのに兄さんは私を見つめたままで、息がより苦しくなるんだ。


 少しの間が出来る。これで目を逸らしたら駄目な気がして「この話、終わり」と言おうと決めるのだ。決めたんだ。


 決めたのに、私の言葉が出るより先に兄さんが口を開けた。


「お前ら――競争を止める気だろ」


 あ、


 私の体が反射的にりず君を掴み、スパタになってくれた彼を振る。


 刃は兄さんの喉元で止めて、椅子が倒れる音がした。


 兄さんが立ち上がったからではない。兄さんは立ち上がってないし、避ける素振りも防ぐ素振りもしなかった。


 立ち上がったのは私で、呼吸が荒くなっているのも私の方だ。


 声が大きくならないよう心掛けろ、氷雨。頭の中でぐるぐると、ぐるぐると考えが巡って、巡って、崩れそうになる。


「何言ってるの、そんな筈ない」


「いいや。お前らは一か八かの賭けをしに行ってんだ。中立者を悪だと思って生贄にする。そこに嘘はないが狙いはそれだけってわけでもない。中立者を捕まえて競争を止めさせたいんだろ、本当は」


「違う」


「だがそれに絶対の確証もない。だから俺達に協力させたくないんだ」


「兄さん」


「失敗した時、眠らせたルアス軍もラキス・ギオンに入れたディアス軍も、自分達とは関係なかったと言えるように」


「違うって」


「俺達を眠らせないのは祭壇を壊す可能性が無いからだ。その理由もお前達は知ってる。だから万が一にも自分達が死ねば、俺達は勝ちに行くとも分かってんだろ」


「止めろ、ッ」


「氷雨」


 兄さんがりず君の刃を掴んで、私は反射的に刃を丸くすることを願ってしまう。りず君はそれに応えてくれて、兄さんが傷つくことはなかったのだ。


 いつかの日とは違う。完全に間違えた。


 兄さんの眉間から皺が消えていく。


「守らなくていい」


 呼吸が止まる。


 音が遠くなった私は兄さんを凝視して、椅子に座ったままの彼は穏やかな声をくれたんだ。


「五人でちゃんと考えたってことも分かる。巻き込みたくないってことも、自分達だけでいいって考え方も」


 何処かで蝉が鳴いている。私は努めて呼吸を続け、兄さんの目が細められた。


「元々この競争は嘘だらけだ。時沼と闇雲から聞いた。生贄は俺達かもしれないし、戦士は全員死ぬ運命かもしれないってことも」


 言葉が出てこない。喉に詰まったもやが邪魔をして。


 兄さんはりず君を握ったまま立ち上がり、私を見下ろすのだ。


「氷雨、俺達も行く、俺が行く……だからやめろ、お前はもう」


「嫌だよ、やめない。私は進む。残るのは兄さんだ」


 もやと一緒に声を吐く。


 だってそうだ。私が行けば、もしかしたらがあって、万が一が起こったら誰が――誰がこの家に帰ってくるんだよ。


 兄さんはこめかみを痙攣けいれんさせて、私は言葉を続けるんだ。


「一緒に行ってどうするの。万が一失敗したら? 今度こそ殺されるに決まってる。そこに兄さんがいてどうするの。それだと兄さん達まで殺されるに決まってる。競争を止めてもらえる確証なんてないし、これは只の願望なんだ。だから私達だけで行く。私達は中立者さんを悪だと思って生贄にする。兄さん達はこの過程にこれ以上、協力したら駄目なんだよ!」


 もし無事に中立者さんを生贄に出来て、競争を止めてもらえたら。


 それはきっと誰もが望んだ結末だ。けれどもそれこそ御伽噺おとぎばなし。捕まえられたら止めるだなんて、そんな覚悟でこの競争が行われている訳がない。


 もし無事に中立者さんを生贄に出来て、競争が続いたら。


 私達はもう一人の生贄を探すし、兄さん達には生贄を救うことに心血を注いでもらわなくては困る。敵でいてくれなくては殺せない。私は自分の手で、貴方を殺せない。


 もし中立者さんを捕まえられなったら。


 この可能性が一番高くて現実的。私達はきっと殺されるし、加担した人も要注意するか最悪殺される。その加担者に兄さん達を、泣語さんを数えてほしくないからここで別れてしまいたいんだ。


 なのに、どうしてそれを分かってくれない。


 分かってよ兄さん。夢を見るには、理想を現実にするには、その道は余りにも希望がない。


「妹を見放す兄貴がいると思うなよ」


 あぁ、なんでさ。


「守られるだけが妹だと思わないで」


 伝われよ。


 思うのに、兄さんは笑うから。


 笑って言うから。


「なら証明しろ、守られるだけじゃないってこと……だから一緒に進もう、氷雨。もう、傷つくお前の傍にいられないのは十分だ」


 蝉が鳴いている。明日は終業式。


「ッ、二人共死んだらどうすんのさ」


「いいや、お前は死なない。俺が守る。それでお前は俺を守ってくれんだろ?」


 あぁ、笑うなよ。笑わないでよ、ふざけんな。


 それを言う為にわざわざ戻ってきて、わざわざ学校休んで、わざわざ帰りを待ったのかよ。


 ふざけてる、ふざけてる……ふざけてる。


 私はりず君を握り締めて、苦しくて、深呼吸を心掛けた。


 これは駄目だ。とても駄目だ。今ここで返事は出来ない。してはいけない。一人で決めてはいけない。


「……私一人じゃ、決められない。仲間と要相談。保留」


 絞り出して、兄さんに頭を撫でられる。


 りず君は針鼠に戻ってくれて、肩でひぃちゃんが項垂れた。らず君は淡く光ってくれて、温かくなる。


 私達は中立者さんを捕まえたい。生贄にしたい、生きていたい。


 その気持ちは変わらないし、ルアス軍は敵だってちゃんと思ってる。


 思ってるのに……相手が私を敵にしてくれなければ、意味がないではないか。


 思って、悔しくて、私は兄さんの腹部を殴ったのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る