第151話 解放


 子ども達を見て愛おしそうに笑う兵士達は、いったい何を考えているのか。


 目覚めたばかりの梵は足に上手く力を入れられない。崩れかけた彼を支えた紫翠とエリゴスだったが、少女の腕は別の者に引かれた。


 腕を引いたのは紫翠の担当兵、ヴァラク。少女の背中には不安が汗となって流れ、目覚めた二人へ視線を走らせるのだ。


 氷雨と梵は自分の担当兵を見上げて言葉を探している。


 何故ここにいるのか。何故全員揃っているのか。映像だけの繋がりしか戦士と兵士は持てないのではなかったか。


 呪いを解く方法が見つかったのか。


 どうして怪我なんてしているのか。


 梵は問いたかったが、彼の声は出ないまま止まっている。口数が多いわけではない青年もこの時だけは声が出ないことを悔やむのだ。


 その空気を感じ取ったエリゴスは穏やかに微笑み、梵の頬に手を当てがった。


 アミ―は不安げな凩兄妹を確認し、眉を下げて笑うのだ。


 声が出ない氷雨の代わりにひぃが問う。


「アミ―……?」


「うん、アミ―だよ。あぁ、寝ぼけ眼に兎がないと判断しづらかったね」


 アミーの声は明るくされている。顔はぎこちない笑みを浮かべ、手は氷雨の背中を押していた。


 少女の足は自然と時雨に向かい、兄は妹を抱き留める。


 そのまま兄妹は力が抜けるように座り込んだ。アミーは胸の奥がむず痒くなる感覚を抱いてしまう。


 氷雨は上手く回っていない頭のまま兄によりかかった。同じように状況を理解出来ていないひぃとらずも目を瞬かせてしまう。


「どうして俺達が現れたのか。手身近に話をしようか」


 そう言ったのはエリゴスで、彼に向かって視線は集まった。


 梵は自分の痣を撫でるエリゴスを見つめ、頬を走る痛みは無視をする。


 エリゴスは笑った。


「ルアス軍の奴らは、はじめましてだな。俺は梵の担当兵エリゴス。あぁ、お前達の自己紹介はいらねぇぞ。そんな時間も惜しいのさ」


「そないな大問題が起こったゆうことですの?」


 茉白はゆったりとした雰囲気で首を傾げ、エリゴスは「そうさなぁ」と息を吐く。


 武骨な手で頭を撫でられている梵は経験の無いことに固まっていた。


「エリゴス、お前が話さないなら俺が話すが?」


 ヴァラクは紫翠の肩に腕を回す。エリゴスは片手を上げて大丈夫の意を伝え、梵の頭に置いた手を下ろしていた。


「さっきも言ったが、お前達は生贄を集めもしねぇし救いもしてねぇだろ? それが中立者のかんに障ったらしくてな。ルアス軍の長とディアス軍の長に命が下ったんだ」


 祈と氷雨の肩が跳ねる。


 思い出されたのは絶対強者と対峙した時の悪寒と恐怖と、屈辱だった。


「ここに集めたお前達戦士は、もういらねぇんだとよ。きっともう直ぐメタトロンとサンダルフォンが来てお前達を殺すだろうな」


 それを聞いた瞬間、子ども達の疑問の空気が一転し、張り詰めた緊張感が纏われる。


 祈の顔からは色が無くなり、光や相良は生唾を飲み込んだ。


「でも大丈夫だよ。みんな殺させない。氷雨ちゃんと梵君を呪いから解放して君達はまた競うんだ。生贄を集めて、救って、祭壇を壊してさ。今の祭壇数は三十を切っちゃったし、頑張ってね」


 アミ―は氷雨の頭を撫でる。


 時雨はその様子を見ながら、妹を抱き締める腕を離しはしなかった。


 兄は冷静さを欠かないように心掛けている。


「なんで俺達ルアス軍の戦士まで集めた。お前達はディアス軍の兵なんだろ。俺達まで一緒に匿う道理はねぇ筈だ」


「いいや、一緒だよ。ルアス軍だろうとディアス軍だろうと君達は守るべき子ども達だ。死なせない。死なせはしない。競争に負けての死ではなく、こちらの勝手と横暴による死だなんて受け入れなくていい。ルアス軍の兵士はきっと運命だと見つめるだけだろうけど、僕達はそんなことしないから」


 アミ―は左目を時雨に向け、ぎこちなく笑う。


 兵士がその片目に重ねたのは、いつの日か後悔に泣いていた優しい少年の姿だ。


「……氷雨ちゃんと鉄仮面を起こしたってことは、何か呪いを解く方法があるってこと?」


 帳は正直、目を付けられようがなんだろうがどうでも良かった。今の最優先事項は呪いの解除なのだ。


 だから彼は聞く。縋ってしまいそうになる自分を否めながら。


 彼の肩に乗るりずは針を揺らし、エリゴスは笑っていた。


「解く方法は一つだ。メタトロンかサンダルフォンに頼み込むしかねぇ」


「そんな、ならッ」


 焦りの色を表した音央をオリアスが静止する。


 音央はオリアスの凪いだ水面のような瞳を見上げ、不思議と熱くなった頭の血が下がる感覚を覚えた。


「僕達は呪いを解くなんて言ってないよ。今まで何日もアルフヘイムを駆け回ってくれたみんなには悪いけど、許してね」


 アミ―は氷雨の頬に手を触れる。


 瞬間、少女と兵士の足元に白い円が浮かび上がり、光りの糸が繋がった。


 エリゴスも同様に梵の痣に触れ、輝きが宙を彩っている。


 白玉は目を見開き、出雲は心獣を撫でていた。


「呪いを移す術、ではなさそうだねぇ」


「……何をしようとしてるの、アミ―、エリゴス」


 今にも止めに入りそうな紫翠が動かないよう、ヴァラクは腕に力を入れる。


 説明が、言葉が、全てが足りなさすぎる兵士達。それに憤りさえ感じている紫翠を見た担当兵は仕方がなさそうに笑うのだ。


「大丈夫だよ、悪いようにはしない」


「ヴァラク……」


 ヴァラクは美しい顔で笑い続け、「僕も焼きが回ったなぁ……」などと呟いていた。


 兵士が戦士の前に直接現れる事は許されていない。助力は認められていない。助けの手を差し伸べることなど中立者は許さない。


 それでも、それを承知で現れた兵士達はもう――墓を作りたくなかったのだ。


 アミ―の声が、エリゴスの声が響いていく。


げん花弁かべんへのみつぎ、ゆきしずくわたしけ、むらさき馬簾ばれん貴方あなたけ」


 氷雨が反射的にアミ―の手首を掴む。


 ひぃは牙を向き、帳の肩からりずは飛び出す。しかし、アミ―の顔を見た二匹は止めることなど出来なくなった。


黄玉おうぎょくいぬしるべとなろう。手招てまねくものなどかげもなく、ちるたににはむしろやまが、虚空こくうなかには霹靂かみときが。さりとてともるはるがぬほまれ


 笑うエリゴスに梵は目を見開く。


 ストラスは結界を維持することだけに集中しており、ヴァラクは静かに目を伏せた。


 オリアスだけはエリゴスとアミ―の姿を網膜に焼き付けている。


 それは禁忌。


 アルフヘイムの欠片として生まれた兵士達に、生まれながらにして授けられた転移の力を応用したもの。


 兵士ならば誰もが無条件に理解している力は、されども一度きりしか許されない歪みの術。


 呪いを解く方法は一つしかない。だがしかし、呪いから解放する方法は一つにあらず。


 それを兵士達は知っていた。知っていたが実行するには足りないものが多すぎた。


 彼らには自由がなかった。


 戦士に触れてはいけない。戦士を救ってはいけない。戦士を生かしてはいけない。


 彼らには勇気がなかった。


 長の強さを知っていた。中立者の姿を知っていた。その生は自分達の為ではなく、アルフヘイムの為のものであった。


 それを振りほどいて走り出した兵士がいる。


 その兵士達は仮初の自由をもぎ取り、内から湧き上がる願望を勇気へと昇華して、痛みを伴う言葉を口にしたのだ。


 エリゴスとアミーの声が揃う。


「マディクス・ラセ・エワール」


 白い光りが強く瞬き、氷雨と梵の痣が疼いて弾ける。


 その衝撃に目を閉じる間に強烈な輝きは消えていき、その場には静寂が広がったのだ。


 エリゴスの手が下りる。


 アミーの手が移動して、氷雨の前髪を撫でてから離れていく。


「氷雨」


 時雨が呼ぶ。少しだけ震える声で。


 氷雨は顔を上げて、喉を震わせたのだ。


「――兄さん」


 いったい何日ぶりに喋ったのか。


 分からない氷雨は応えるように兄を呼び、強く強く抱き締められた。


 時雨の腕が、体が、震えている。


 氷雨の世界は再び色づいた。音は溢れて鼓膜を揺らし、意思を伝える声がある。触れば痛んだ頬にはもう痛みが無い。


 それは呪いが無くなったという証拠。怯えなくていいと言う証明。


「氷雨、梵!」


「あぁ、あぁ、痣が!」


「ッ!」


 紫翠はヴァラクの腕から離れ、梵の頬に触れる。


 祈と帳は、氷雨と梵に触れられる距離で膝を崩す。


 二人から痣が消えたと言う事実が余りにも鮮やかで、三人の涙腺が緩んでいた。


「あ、あぁ……良かった、良かったですメシア……メシアッ」


 音央の両目から大粒の涙が流れ始め、安堵の息をついた暁と博人は驚いてしまう。


 茉白は、隣で静かに泣き出した光の頭を撫でていた。


 放心状態の相良の背中を叩いたのは出雲と鳴介だ。


 けれども、何故だろう。


 当人である氷雨と梵の目が見開かれたまま戻らない。


 その視線の先にはアミ―とエリゴスがおり、兵士達は笑っているのだ。


「良かったな梵、さぁ、また歩き出せよ」


 エリゴスが梵の頭を撫でる。


「氷雨ちゃん、もう少しだけ頑張って。辛くても進んでね。時雨君も、自分の命を犠牲にすることだけはしちゃ駄目だ」


 アミーの右手が兄妹の頭を順に撫でていく。


 梵の顔は強張っており、氷雨はゆっくり首を横に振った。


「なん、で、だ……エリゴス、なん、で」


 梵の声が震えている。


 今にも叫びだしそうなその声は、感情の起伏が読めない彼らしからぬものだった。


「アミ―さん……貴方は、貴方はどうしていつもッ!」


 氷雨の声が荒くなる。


 耐えられないと言う悲痛を乗せた声は結界内に響き、それでもアミーは笑っていた。


 酷く嬉しそうに。安心したように。


 火傷が広がる右頬に――黒い痣を浮かび上がらせて。


 梵は奥歯を噛み締めて拳を握り、渾身の力を込めてエリゴスを殴り飛ばす。


 鴉に似た痣が浮かんだ兵士の顔を。


 エリゴスの体が倒れかけ、その胸倉を青年が掴む。


 梵の顔には確かな「怒り」が浮かび、その剣幕に祈の腕には鳥肌がたった。


「誰が、移せ、なんて、言ったッ、お前に、痣を、与えて、まで……ッ肩代わり、させて、まで、助かりたいと、言ったんだッ!」


 梵は声を張り上げる。


 こめかみに青筋を浮かべる彼は仲間を信じていた。仲間の優しさを信じていた。だから眠りについたのだ。


 だが起こしたのは自分の兵士で、その兵士は何も説明しないまま痣を消し、兵士自身に痣を浮かべているではないか。


 それが梵には耐えられない。彼の中では煮えたぎる憤りが生成される。


 彼が兵士に縋ろうとしたことなど一度もない。


 誰かに自分の罰を肩代わりして欲しいと願ったことも一度もない。


 梵はエリゴスが許せなかった。


 そして、その行いを許してしまった自分自身が何より許せなかった。


「安心しろよ梵、大丈夫だから」


「何、が、大丈夫、だ!」


 梵の肩が揺れる。拳が震える。


 久しく出していなかった言葉は彼の想いを一心に乗せていた。


「戻せ、エリゴス! 俺は、お前に、お前達に、罪を、背負わせ、たい、わけじゃ、ないッ!!」


 梵は息も切れ切れに伝えている。


 伝えているのに、エリゴスは笑ったまま梵の手を優しく離させていくのだ。


「いいや、これは俺達の罪だ。お前は何も悪くない。背負うのは俺達でいい」


「エリゴス!!」


 エリゴスの掌が梵の口を塞ぐ。目の縁が赤くなっている梵は握り締めた拳の解き方が分からなかった。


「さぁアミー。行くぞ」


「うん」


 離れようとしたアミーの腕を氷雨が掴む。


 少女は今にも発狂しそうな顔色で、兵士は笑ってしまうのだ。


「大丈夫、移ってきた呪いはリセットされるから。視界も耳も正常だよ。痛くだってない」


「違う、違いますアミーさん、あぁ、違わないけど、違う、やめて、嫌だ、なんで、なんでッ!!」


 地面を走り出したりずの形が変わる。彼は瞬く間に針を伸ばし、足を地面に突き立てアミーを雁字がんじがらめに絡めとる。


 動けなくなったアミーは、立ち上がって左胸を掻きむしる氷雨を見下ろした。


「メタトロンさんが呪いを解いてくれる算段があるんですか」


「多分、まぁって感じかな。確証はない」


「なんでここに現れたんですか」


「氷雨ちゃん達が心配で我慢出来なくなっちゃった」


「どうして呪いを盗ったんですか」


「この方法が一番いいと思ってね」


「あぁ……貴方はなんで、どうして、いつもいつも、一人苦しい道を進むんですかッ!!」


「いいや、僕は苦しくないよ。僕を唯一苦しめることが出来るのは君達戦士の死だけだから」


 氷雨の目がこれでもかと見開かれる。


 彼女の手は自分の胸と喉を掻き毟り、耐えられないと言うように髪を掴んで、呼吸は荒く浅く続けられた。


 りずの拘束が震えている。


 ひぃの翼が歪んでいく。


 らずのヒビが深くなる。


 アミーは目を細めて、氷雨に伝えていた。


「君が痛む必要なんてないんだよ、氷雨ちゃん」


 氷雨の両目が潤んでしまう。


 彼女は意外と泣き虫なのだ。いや、正しくは本来彼女は泣き虫な性格なのだ、である。


 怖がりで、臆病で、心配性で、それを隠す為の理性が育った。


 我慢した結果ヒビが入り、泣くのを堪えることを覚えてしまった。


 彼女は泣き虫だ。けれどもその涙はいつも誰かを想っての涙だから。


 自分の為に彼女は泣かない子だ。そうアミ―は知っていた。


 だから今も潤んだ少女の目が誰の為なのか、兵士はきちんと知っているのだ。


「アミ―、エリゴス」


 不意にストラスは痣を持った兵を呼んだ。


 全員反射的に結界を張る彼を見て、円の外側に視線を移すのだ。


 ストラスの頬を冷や汗が伝っていく。


 見えたのは二つの色。


 一つは漆黒。何もかもを飲み込み、膝を崩させるような威圧感と爛々と輝く笑顔でそこにいる黒の長。


 一つは純白。不純なものなど何もなく、凍てつくような気品と冷然とした無表情でそこにいる白の長。


 黒の戦士達は二人の姿を見た瞬間に臨戦態勢をとる。それは本能的反射だ。


 紫翠は全て揃って磨き上げた手裏剣を握る。


 ルタと同化した祈は闇色の双翼を広げて威嚇を行う。


 帳が操る空気は触れば切れてしまいそうなほど研ぎ澄まされる。


 拳を解くことを諦めた梵はエリゴスを超えて足を深く踏み出した。


 りずは刃となってパートナーの手の中に落ちる。


 少女の背で翼を広げたひぃの牙から酸性液が零れる。


 らずは眩く輝き、氷雨は涙を消していた。


 音央の足元の芝が伸び、リフカが開花する。刃先を鋭くするよう命令を受けた植物達はうねり、氷雨の前で動きを止めた。


「お、おい……あれって……」


 帳達ほど瞬時に体勢を整えることが出来なかった暁達が、願うように確認する。


 出雲の全身から壊せないという本能が溢れており、白玉の毛は逆立った。恐怖する自分を必死に否める狼は、四足を地面に踏み込んでパートナーの前に立っている。


「ほら、見ろよ早蕨、長だよ。お前が話し合いで解決できるなんて豪語してた両軍トップの登場だ」


 風が光の髪を引く。引かれた少年は目を見開いておい、その両足は酷く心もとない。


 光の両腕は自分を抱き締めており、奥歯が小さく震えて鳴る音がした。顔からは血の気が完全に失せている。


 その恐怖と怯えはどんな感情よりも大きく、早蕨光という少年の心を壊しにかかっているようだ。


「あれが? あれが長だって?……そんな、まさか……」


「信じられない? そうだろうね、あんなのは俺達からすれば化け物以外の何者でもない」


 帳は無理やり口角を上げ、頬を伝う冷や汗を拭わない。


 光は自分の弱さに辟易しながらも震えを抑えることが出来なかった。


 博人の腕が上がり、光を鼓舞する言葉を探す。


 けれども、どうだろう。


 博人自身の腕も震えており、唯一彼が出来たのは顔色を悪くした仲間達を庇うように立つことだけだった。


 時雨は氷雨の背中を見つめ、自分を奮い立たせて相良達の前に立つ。


 呼吸が震え、眩暈がしてしまいそうだった相良や鳴介。彼らは時雨の背中を見て何とか心臓を落ち着かせようと努力するのだ。


 出雲は手甲鉤を構えて刃を打ち合わせる。しかし、今にも尾を後ろ足の間に隠しそうな白玉こそが彼女の心の表れだ。


「大丈夫、それは生きる者として正しい反応だよ、みんな」


 アミ―は穏やかに呟く。その目は、臆しながらも逃げようとしない戦士達を見つめていた。


 彼は体から青い火の粉を零し、足を踏み出した。


 エリゴスも、オリアスも、ヴァラクさえも戦士達の前に立つ。


 黒い背中が並んだ。


 祈の目には嫌に鮮やかに五人の兵士が映ってしまう。


 サンダルフォンは裾から銀の装飾が施されたランプを取り出し、硝子の中に金色の光源が現れた。


わたしまえかくれるものよ。姿すがたくらますあわれな隠者いんじゃよ。そなたのくびわたしのもの、そなたの姿すがたも、わたしのもの」


 サンダルフォンが唱えてランプを揺らす。


 そうすれば光源が揺れ、輝く輪がランプ中心に広がった。


 空中を彩る波紋はストラスの結界に当たり、膜が揺れる。


 二度目の波紋で結界の揺れは大きくなり、三度目の波紋でストラスの両腕に亀裂が入る。


 四度目で膜にも亀裂が入り、五度目にはストラスの腕から血が流れた。


「ぐ、ぅッ」


「ストラス!」


 祈が青い顔でストラスを呼ぶ。兵士は振り返らず、その頭からはいつも斜めになっている王冠が落ちていった。


 六度目の波紋が亀裂の入った膜を明瞭化し、ストラスは眉間に深い皺を寄せている。


「大丈夫だよ祈。君を――守るから」


 そう言った時、七度目の波紋が結界を揺らす。


 甲高い音は周囲に響き、ストラスの目くらましの結界が砕け散った。


「おぉ、そこにいたんだなお前達」


 笑うメタトロンがそこにいる。


「ストラスでしたか。良い結界を張りますね、称賛します」


 ランプを仕舞うサンダルフォンは言葉を述べ、微笑むストラスを確認するのだ。


「有り難きお言葉です」


 ストラスは切れた腕を胸の前で勢いよく打ち合わせ、赤い光りが結界の欠片をなぞって展開される。


 メタトロンとサンダルフォンは虚を突かれた顔をし、反応が遅れた。


「では、こちらはいかがでしょう」


 ストラスは努めて笑っている。


 浮かぶ赤い円の中にいる戦士達は目を見開き、視界がぶれる感覚を覚えていた。


ひかりみちびひづめ音色ねいろ! 守護しゅごせしめるは心臓しんぞうひとみ! あらぶる息吹いぶき御身おんみかくし、晴天せいてんなかにてわらえとえよう!」


「ッ、強制転移か」


 メタトロンが腕を伸ばし、止めようと口を開く。この場から戦士達が飛ばされれば千里眼を持つ者でなくては行先は読めないだろう。


 メタトロンとサンダルフォンにその目は無い。


 あるのは中立者の指示を聞き取る耳だけだ。


 それを兵士達は知っている。知っているからこそ集めた子ども達を散り散りにさせるのだ。


(ごめんね。でもどうか守らせて。君達を守っていたいんだ)


 アミーは想う。


(もう、僕達は耐えられない)


 守れなかった日々を想う。


(君達の死に耐えられない)


 想い続けるアミーは、消えゆく氷雨と時雨を振り返ることはしないのだ。


 しかし、転移することを良しとしない者がいるから。


 地から赤黒い鎖が伸びる。


 それは消えかけた戦士達を縛り上げて芝に叩きつけ、自由を奪うのだ。


 オリアス達の目が見開かれる。


 それは、予想の外にあった可能性。


「くそッ」


 ストラスの顔色が変わる。


 同時に、振り返った彼の転移のまじないがメタトロンの拳によって砕かれた。


「駄目だストラス!」


 ヴァラクが叫んだが、もう遅い。


 ストラスの後頭部を術を砕いたメタトロンの掌が掴み、地面へと叩きつけた。


「ストラス!」


 叫ぶ祈は目を見開く。


 鼓膜を揺らしたのは砕けた骨の音だった。


 ストラスの腕が――向くべきではない方向へ曲げられている。


 彼の足に向かって、メタトロンの足が勢いよく下ろされる。


 また砕ける音がする。


 ストラスの声にならない悲鳴が上がる。


「よし、ストラス。お前は後で投獄だ。頭がいいお前ならどうなるかくらい分かるだろうに」


 メタトロンが笑う。笑ってストラスを離す。


 祈の頭には血が上り、氷雨の肩でらずが輝いた。


「哀れなアミー。哀れなエリゴス。痣を自分に移したのですね」


 サンダルフォンは呟いて、再びランプを構えている。


 エリゴスとアミーは答えることなく梵達の前に立っていた。


「さて――死ぬ時間だ、戦士達」


 メタトロンが犬歯を覗かせて笑い続ける。


 彼はそうだ。いつもいつも悠々と、傲然ごうぜんと笑うのだ。


「お前達は、もういらないとのお達しだ」


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