第152話 信念

 

 例えば、指を噛んで自分を傷つけ、逃げ出したくて髪を赤くした少年が――仲間の為に優しくなりたいと願ったら。


 背中を押してやりたいと思わないだろうか。


「ストラス!」


 闇雲祈の担当兵、ストラスの両腕が、両足が砕かれる。落ちた王冠さえも踏み壊され、破壊者であるメタトロンは笑うのだ。


 例えば、自分を二度と傷つけないと誓って、他者との壁を作っていた少女が――仲間の為に強くなりたいと願ったら。


 その理想の先を見たいと思わないだろうか。


「ッヴァラク!」


 楠紫翠の担当兵、ヴァラクの白い翼がむしられる。根元から引き抜かれた翼からは赤黒い血液が溢れ、抜いた本人であるサンダルフォンには返り血すらついていなかった。


 例えば、親の死を二度も見て、笑うことしか出来なくなった少年が――仲間と共に幸せになりたいと願ったら。


 明日へ進んで欲しいと思わないだろうか。


「オリアス……」


 結目帳の担当兵、オリアスの腕と胴体を貫く黒い雷がある。兵士は血溜まりを吐きながらも視線を動かし、風をその身に纏っていた。


 例えば、責務と伝統を背負い、握った拳の解き方を忘れた青年が――仲間と共に自由でありたいと願ったら。


 肩を叩いて肯定したいと思わないだろうか。


「エリ、ゴス」


 細流梵の担当兵、エリゴスがメタトロンの雷を体に受けながら突き進む。彼は鋼のような体で戦士と長の間に立ち塞がっていた。


 例えば、笑顔を自分の盾にして、本音を潰してしまっていた少女が――仲間との未来が欲しいと願ったら。


 生きていてほしいと思わないだろうか。


「アミ―さんッ」


 凩氷雨の担当兵、アミーが青い業火の盾を使ってサンダルフォンの光輪を防ぐ。燃え盛る炎は戦士を殺す為のものではない。戦士を守る為の青だ。


 アミーは自分達の判断ミスだと反省する。ストラスの結界と強制転移ならば、サンダルフォンとメタトロンを撹乱かくらんできる確証があった。


 予想出来ていなかったのは、中立者の鎖が現れることだ。


 中立者の鎖は転移拒否の作用がある。その為、ストラスが倒れ、相良が鎖に囚われた今、逃げ道は無いに等しい。


 小さな救いは鎖に能力妨害の力が無いことだ。


 帳の風で鎖が解かれる。


 茉白は「地盤操作」で土人形と防壁を作る。


 音央のリフカと時雨の雷電は二対の長に迫った。


 それは意図も容易くサンダルフォンの光輪に弾かれたのだが。


 相良は自由になった瞬間、近くにいた光と祈に手を伸ばす。


 一度の転移では全員逃げ切れない。ならば何度だって繰り返してみせると決めながら。


 決めたのに、二人の手を取る前に別の鎖が少年の全身を覆っていく。


 鎖は相良を優先して地面に縫い留め、それを見た氷雨はハルバードを振り上げた。


 そんな少女の体も鎖に捕らわれる。


 どれだけ振りほどこうとも、どれだけ逃げようとしても。戦士達を捕まえる鎖は決定を曲げない証明だろう。


「あぁ、くそ、退け、退けよ!」


 祈が叫び、その瞳は動かなくなったストラスを見つめる。零れた黒い刃はサンダルフォンとメタトロンに打ち出された。


 けれども鎖に縛られ顔から地面に叩きつけられてしまえば、少年の羽根は無情に地に落ちる。


 少年の意識は眩み、兄のこめかみに青筋が浮かんだ。


「俺の弟に、なにしてるッ!」


 鎖に縛られる鳴介の腕が影に沈み、一気に地面を黒が這う。


 伸ばされた影は赤黒い鎖を巻き込んで地面に沈め、戦士だけが吐き出された。


 鳴介の体感系能力は「影」


 彼の影を通じて「中」に入ることができ、地上のように繋がる影の海を泳げるのが彼の力。影を伸ばすというのは力の応用であるが、試したのは今日が初めてだ。


 不意に少年の鼻からは血が流れ、冷や汗が全身から噴き出していく。


「闇雲、無茶すんな!」


「いま無茶しないでいつするんですか!」


 時雨の声に鳴介は反発する。


 少年は自分の体を縛る鎖も影に飲み込み、喉を這い上がった赤を吐き出すのだ。


 体感系の力も心獣系の力も所詮しょせんは借り物。超能力などとはまた違う、人間が持たない力を無理やり心に植え込んだのが戦士の力だ。


 わば許可なく取り付けられた化け物の腕のような、もしくは妖精の翼のような、取扱説明書のない異物が彼らの力。


 それを酷使すれば体を蝕み削る毒となる。氷雨がカウリオと初めて手合わせをした時に気絶したのがいい例だ。


 鳴介は鼻血を拭って影を操り続ける。


 祈を守る為に。それを成す為に必要な相良を最優先して。


 だがそれは鎖も同じ。


 転移が出来る相良に巻き付く執着性には恐ろしいものがあり、それが何なのか紫翠達は知っていた。


 それは――殺意だ。


 確実に殺すと言っている。死ねと神が言っている。


 けれども何故だ。何故ここまで執拗に殺しにかかる。戦士とは統治権争いの為の駒で、優先事項は確かに生贄だ。


 自分達はその優先事項を無視して仲間を助けようとした。しかしそれだけで、ここまでの殺意を向けられるものなのか。


 言うことを聞かない駒の処分に長と中立者がどちらも出てくるものなのか。


 いや、そもそも中立者とはどちらにも属さない神の筈。競争に戻すならばいざ知らず、何故その段階を飛び越えて神が殺しにかかるのか。


 氷雨には分からなかった。分からないことが多すぎた。眠っていた頭を動かす運動にはレベルが高すぎた。


 氷雨は地面から出てきた鎖をハルバードで叩き壊す。砕けた破片の向こうからはまた鎖。それもまた砕いて、裂いて、砕いて、また裂いて。


 アミーの業火が地を這って鎖を燃やす。


 祈は立ち上がり、顔面蒼白の兄の前に立つのだ。出てくる鎖を羽根で地面に縫い留めて、背後から迫ってきた鎖は銀の手裏剣が打ち壊す。


「楠さん!」


「闇雲! お兄さんを下がらせなさい! その人無茶しすぎよ!」


 紫翠は足に巻き付いた鎖を地面に叩きつけて剥がし、呼吸が乱れている鳴介を確認する。


 祈は兄を捕まえようとする鎖を翼で払い飛ばすのだ。


「兄貴! 背中に乗って! 俺は飛べる、俺なら飛べるから!」


 そう言う間にも兄弟を捕らえようと鎖が迫る。反射的に鳴介は祈の頭を庇い、その頭上を時雨の雷電が駆け抜けた。


 鎖が灰へと変えられる。鳴介はそれを確認して弟の目を見た。


「祈、相良君なら転移出来る! 彼をまずは助けなきゃ、全員、」


「あぁもう、うるせぇ馬鹿兄貴!」


 祈の頭突きが鳴介の額に叩き込まれる。


 兄は間の抜けた叫び声を上げ、弟は鬼のような剣幕で怒鳴るのだ。


「分かってる、分かってるッ、全部分かってるから! お前は黙って背負われろッ!!」


 祈は腹の底から叫び、唖然とした鳴介を鳥の足で掴む。そのまま許可を得ずに背中に乗せて飛び上がったのだ。


 鎖が祈を追う。


 それらに向かって投げられた石が煌めき、爆発を起こす。


 同時に豪快な拳が地面に叩きこまれ、地割れを起こさせるのだ。


「おい細流! 邪魔すんな! 足場悪くなるじゃねぇか!!」


「この、方が、お前が、投げる、石も、多く、出来る。鎖も、緩くなる。違うか」


 石を爆発させたのは淡雪博人。


 地割れを起こしたのは細流梵。


 二人は一瞬だけお互いを確認し、両者共に反対方向へきびすを返した。今は言い合いをしている時ではないからだ。


 祈は二人を見下ろして「ありがとうございます!」と叫ぶ。


「雛鳥、まだ羽根だせるよね?」


 宙にいる祈の隣に帳は並んだ。


 巨大化したイーグに乗るのは暁と光、茉白の三人。


 鷲の口に溜まっていた炎熱は豪快に吐き出され、急速に伸びていた鎖を造作もなく塵にした。


「どないしましょうねぇ、この状況」


「飛んでも追われるな。行き先が分からない転移がやはり有効的だろう」


 服についた砂埃を叩く茉白にイーグは答える。暁は相良を目で追った。


 一人迫る鎖の量が違う相良は直ぐに絡めとられ、少年に転移する時間は与えられない。


「時沼をどうにかしねぇとな」


「俺が行きます」


 剣を構えた光。その背中は嫌に静かであり、止める暁の声を聞かずに少年は飛び降りた。


 しかし、彼を掴む風があるから。


 ルアス軍の少年は目を見開き、反射的に上を向いた。


 いるのは呆れた顔の結目帳。


「結目君……」


 呟いた光は強制的にイーグの背へと戻された。帳はピアスに触れながら目を細める。


「下りないで、邪魔だから」


「邪魔って、お前!」


 憤慨する暁を横目に、帳は祈の頭を叩くように撫でる。両翼から出来る限りの羽根を零していく少年は背中にいる兄を気にしながらも、氷雨達がいる地面に意識を注いだ。


「ねぇ――結目……ストラス、助けられるかな」


 祈が小さな声で聞く。


 数か月を共にして、初めて「結目」と呼びながら。


 目を細めた帳は、イーグが燃やす鎖の向こう、風の檻にサンダルフォンとメタトロンを閉じ込めたオリアスを見つめていた。


「助けるんだよ――闇雲」


 同化した少年の羽根が鋭利になる。


 その答えだけで十分だった。十分すぎた。


 だから祈は自分の羽根を、帳に与えるのだ。


 帳の腕が上がる。


 空気と言う当たり前に存在するものを操る行為は、たかだか一人の少年には過ぎた力。


 けれども彼は口角を釣り上げて、相良と出雲の鎖を壊した氷雨を確認した。


「降るよ!!」


 その掛け声で。


 氷雨も、紫翠も、梵も、理解する。


 相良の鎖を白玉が食い裂き、時雨と音央は降り注いだ漆黒の雨に舌打ちした。


 音央のリフカが氷雨を守ろうと伸びる。しかし少女は彼に気づいて微笑み、音央の動きも思考も止まるのだ。


「守らないで」


 少女の声が音央に届く。


 その間に地面に突き刺さる刃は、的確に鎖と長を狙ってみせた。


「ぅお!」


「おや」


 メタトロンの鋼の肌に浅くも刺さっていく黒の刃。


 サンダルフォンは羽根をかわす為に後退し、有象無象の鎖達は地面に縫い留められるのだ。


 相良の足が動く。


 地面に拳を叩きつけた時雨は地表に流せるだけの電流を流し、現れようとしていた鎖達の動きを止めた。


 ここしかない、今しかない。


 全員の頭にそう過り、時雨は叫ぶ。


「飛べ! 時沼!」


 相良の金髪が揺れる。少年は氷雨を見て、時雨を確認し、ここで優先するのは全員だと頭の中で弾き出した。


 確実な者から、堅実に。


 逃がせる者から逃がさなければ。


 転移した相良の手が出雲と博人を掴み、ムリアンの岩石地帯に転移する。


 二人を置けば次はイーグの元へ。


 イーグに触れた相良に鎖が迫り、それを根元から切り裂く氷雨。


 それでも届きそうになった先端を切り裂いたのは、イーグの背中から飛び出した光。


 相良は奥歯を噛み締めながら転移し、岩石地帯に暁、イーグ、茉白を下ろしたのだ。


 光は地面に跳ねながら着地する。


 氷雨は少年の後ろに現れた鎖を見て、光もまた少女の後ろに現れた鎖を見て、両者共に地面を踏み込んだ。


 すれ違い、叩き壊す赤黒い負の象徴。


 氷雨と光はお互いに目を見開きながら、振り返りはしなかった。


 相良が舞い戻る。目の前にいたのは音央。


 信者は「自分はいい」と目で訴えたが、相良は唇を噛んで灰色を掴んだのだ。


「時沼さん!」


 音央を掴んだ相良が転移する瞬間、鳴介が投げ込まれる。


 疲れ切っている鳴介を受け止めた相良は、祈を見上げた。


 既に転移を止められるタイミングではない。


「お願いします」


「ッ、祈!」


 笑った祈が鳴介の視界から消える。


 兄は息を呑んで地面に倒れこみ、酷い寒さに体を震わせた。音央は舌打ちしたくなりながら、暖を集める植物を咲かせて鳴介をくるんでいく。


「あと、少し!」


 相良が自分に言い聞かせて転移する。


 次に見たのは、青い業火の壁が二人の長を近づかせないように張られた光景だ。


 相良は視線を走らせ、ストラスを抱えた祈と、ヴァラクを抱いた紫翠に手を伸ばす。


 そこに向かって降って来る異物がある。


 降り注ぐは――赤黒い剣。


 それは空から降ってきた。


 瞬きの間に降ってきた。


 相良の手の甲と前腕に突き刺さったそれをアミーは知っている。


 ヴァラクも、ストラスも、オリアスも、エリゴスも。


 何度も見てきたそれは――鉄槌


 競争が終わる時だけ落とされる筈の剣が落とされる。


 終焉の鐘は鳴っていない。


 それは、中立者が戦士に送る終わりの刃。


「ふざけるなッ!!」


 片翼のヴァラクが立ち上がり、地面に崩れ落ちた相良を背に庇う。鎖と同じ作用を持つ剣が相良の転移を止めてしまう。


 相良は一瞬何が起こったのか理解が出来ず、次にきた「痛み」という熱さと鋭さに叫んでいた。


 背中を駆け抜けた肌寒さと噴き出す熱い汗。喉が潰れるのではないかと思いながらも止められない呻きと叫び。どこに触れても痛みは止まらず、広がり、相良の体全部に鳥肌が立った。


 紫翠の顔と手に相良から飛び散った赤が付着している。


 それを拭う前に彼女は相良の首筋に触れ、触角の宝石を抜き出した。痛みというものを即座に無くしたのだ。


 相良の体の感覚が抜けていく。それでも乱れに乱れた呼吸を落ち着かせるには時間が必要で、紫翠は少年を抱き締めるのだ。


 ヴァラクの手が降り注ぐ剣に触れて、凶器を地面に反射する。


 ストラスはそれを見て口を開こうとしたが、出てきたのは言葉ではなく血反吐だ。彼の血を受け止めた祈からは体温が引き、迫る剣への反応が遅れた。


「祈!」


 梵が叫び、鉄槌を横から殴り飛ばす。


 祈の精神はそれでも安定せず、ルタとの同化が解けてしまった。


 ルタはパートナーを背に飛び出して羽根を零し、鉄槌に向かって刃の盾を作る。


 梵はヴァラクの横に並ぶ。


 時雨は凝縮した雷電で鉄槌を破壊し、光の盾は勢いよく剣を弾く。


 氷雨はひぃに頼んで剣が掠める間を縫って飛ぶ。


 帳の風が剣を止めようと動くが、少年にも向かう刃に容赦はない。


 アミーはそれを見て、炎の向こうで目を見開いている長達を確認した。


 炎の化身は今しかないと叫んでいる。


「さんざめく時空の光! 止まることなき我らの生に瞬きの猶予を与えたもう! 揺るがぬ瞳を曇らせ笑え、失せ者探しに幻想をッ、執着人には瞼の裏の幻影を!! 我が姿は霧が如く、我が声は空の鳴き声、現に残るは、記憶だけ!!」


 ヴァラク達を囲うように生まれた結界。それは鉄槌を弾き、ストラスは力なく笑っていた。


 紫翠は視線を走らせて、氷雨と帳、光、時雨を見る。


 立ち上がったオリアスの風が無理やり帳と光を引き合わせた。二人は風の檻に閉じ込められ、鉄槌から庇われる。


「氷雨!!」


「ッ、時雨、さん!!」


 紫翠と相良が凩兄妹を呼ぶ。


 帳は風の檻から出て援護しようとするが、それをオリアスが許す筈も無い。


 光は帳が奥歯を噛み締める姿を見て、視線をオリアスに向けたのだ。


 血を吐く兵士は笑っている。


 笑って、笑って、その穴が空いた胴体に上書きするように剣が深く突き刺さった。


 帳の中に、血が、浴室が、死が、フラッシュバックする。


「オリアスッ!!」


 喉を裂く程の悲鳴を上げた帳が風の檻に腕を入れる。腕はすぐさま切り刻まれるが、それに帳は臆することもなく。


「止めて結目君!!」


「離せ、ふざけ、ッ、出せ、オリアスッ!!」


 地面に縫い止められたオリアスに向かって剣が降り注ぐ。彼を庇う為に広げられた青の業火は敵意を防ぎ、エリゴスはオリアスを庇うように立ち塞がった。


 氷雨の体から体温が引いていく。酷い不快感が四肢を侵食して冷や汗が流れ、呼吸が震える。


 彼女の足は地面から剥がれなくなり、ひぃの原型が崩れかけた。


「止まるな、氷雨!!」


 そんな妹を呼ぶのは、駆け出している兄なのだ。


 氷雨の意識が戻ってくる。


 彼女は自分を不安げに見つめる紫翠と、反対方向から走り出している兄を見て息を止めた。


「走れ氷雨!!」


「氷雨さん!!」


 ハルバードであるりずが叫び、ひぃが渾身の力で氷雨を前へと動かしてみせる。


 自信が無くて、心配性な彼女を突き動かすのは――いつだって彼女の心だから。


 氷雨は顔を上げて、地面を力強く踏み込んだ。


 アミーが作った結界を目指す氷雨。


 時雨も剣を避けながら走り続け、しかし梵の前に出来ている結界には――ヒビが入った。


 鉄槌が降り注ぐ。


 戦士の命を狩らんとして。


 その理由も意味も子ども達には分からない。


 いいや、神の意思を知ることなど、最初に作られた者達でさえ不可能なのだ。


!!」


 メタトロンが天に向かって叫ぶ。


 サンダルフォンは鉄槌の行方を見つめた。


 梵の目の前で――結界が砕け散る。


 氷雨に向かって剣が降る。


 疲れきった少女の足が芝を滑る。


 その一瞬の間に「避ける」と言う道が閉ざされ、倒れかけた自分を庇う人を見た彼女は叫ぶのだ。


「兄さんッ!!」


「大丈夫」


 時雨はそう、氷雨を固く抱き締めて言葉を零す。


 絶対に傷つけさせない。絶対に、絶対に、絶対にッ


「あぁ、ほんと――君達って子は」


 時雨の顔に、氷雨の頬に――血飛沫が飛び散った。


 目の前に鋭利な剣が迫っていた筈の梵は、自分の前にある背中を見上げている。


「――よぉ、無事だな? 梵」


 エリゴスが梵の方を向いて笑っている。


 擦り切れて握り締められた梵の手を穏やかに下ろさせながら。


 口の端から血を流して。


 その鋼の体に赤黒い鉄槌を――六本も受け止めて。


 エリゴスは笑っていた。


「は……ぁッ、エリ、ゴス!」


 梵の呼吸が乱れていく。彼の体は芯から震え、目の前は歪み、それをエリゴスは笑っていた。


 裁きの雨がやんでいく。


 剣の豪雨がやんでいく。


 氷雨の膝から力が抜けて、時雨も共に地面に座り込む。


 青い炎の壁を背負って笑うアミーは、ゆっくりと二人の前に膝をついた。


 左腕はもう上がらない。


 口から零れる血液は――彼の体を貫いた五本の剣のせいだろう。


 肩を、鳩尾を、背中を、足を、脹脛ふくらはぎを貫かれたアミーの背後から炎が消える。


 誰もが言葉を失って、皆の視界が滲んでいるというのに。


 エリゴスとアミーだけは――笑っていた。


 メタトロンは奥歯を噛み、天を睨んでから踵を返す。


 サンダルフォンは片割れの背中を視線で追った。


「まだ戦士は生きていますよ」


「うるせぇ、中止だ」


 言葉を吐き捨てて転移をしたメタトロン。息を着いたサンダルフォンはランプを揺らして光輪を広げ、氷雨達の姿を隠していた。


 どうか今だけは誰の邪魔も入らないようにと、兵士達の心を尊重して。


 サンダルフォンも転移する。兵士達はそれに気づき、アミーは口には出さずに感謝した。


 彼の右手は、時雨の頭を愛おしそうに撫でている。


「時雨君は、ほんと……良い、お兄ちゃん、だよなぁ」


「おま……な、んで……」


 時雨の腕が震えている。氷雨を抱き締める腕が痛いほどに揺れている。


「……守るって……決めたから」


 アミーが笑う。


 苦手だと言いながら、ここでやっと、初めて、彼は一番穏やかな顔で笑ったのだ。


 目の前で泣き出した二人の子どもを見下ろしながら。


 エリゴスの足が崩れ、梵は両腕で支える。兵士は血を吐きながらも、自分の戦士の頭を大きな掌で撫でて、撫でて、慈しんだ。


「梵、お前は、ほんと、立派な奴だよ……」


「エリゴス!!」


 梵は地面に膝をつき、エリゴスの血を止めようと傷に手を宛てがう。


 ヴァラクは光りの粒となり始めたエリゴスの足を見て、放心している紫翠や祈の目を片翼で隠すのだ。


 エリゴスは笑っている。梵の背中を叩いて、頭を撫でて、愛を知らない子どもに自分が与えられるだけの愛情を乗せて。


「無理、すんなよ、梵……お前は、強いが、危ういから、なぁ」


「もう、喋るな! 頼む、から!!」


 梵は治癒力の倍増化をエリゴスにかける。倍にして、倍にして、倍にして。


 それなのにエリゴスの血が止まることはなく、体の消失は止まらない。


 アミーは時雨の頭を柔く撫でながら、ゆっくり額を寄せていた。


「……僕はね……君達だけは、守るって……大事な、友達と、自分に……誓ったんだ」


 アミーの足先が光りの粒へと変わっていく。それは空へと昇っていき、氷雨は兵士に縋り着いた。


「アミーさん、治療しましょう! 今すぐ! 今、すぐに!!」


「……あったかいなぁ……氷雨ちゃんは」


 アミーは笑っている。


 時雨の頭から氷雨の頭へ動かした手は、壊れ物を扱うように優しく撫でるのだ。


 彼は滲む視界の中で、かつて守れなかった子ども達を浮かべている。苦しめた子ども達に懇願する。


 後悔だけを引きずって歩いて来た長い生。


 その中で自分に希望を与えてくれた少年がいて、彼が大好きだった二人の間に出来た兄妹が、アミーは大好きで仕方がなかった。


 好きだから、大好きだから――愛しているから。


 守りたいと、二度と失いたくないと兵士は立ち上がったのだ。


「……あぁ、やっと……守れた」


 アミーは笑う。


 彼の左肩は外れて地に落ち、光りとなって消えていく。


 梵は光りになっていくエリゴスに必死に力を使い続けた。


 気が遠くなりそうなほど倍にして。死ぬなと必死に叫びながら。


「はは……もう、いいぞ……梵」


「エリゴス!!」


「……これが、最後だ、かんな……そうさな……お前に、一番、言いてぇのは……」


「もう、止めろ!!」


 梵の両目から雫が零れる。


 エリゴスはそれを感じて視界を滲ませながら、快活に笑っていた。


 最後の言葉を決めて。


 手向けの言葉を確かに決めて。


 顔を上げたエリゴスは、梵の涙を見ながら言葉を贈った。


「――生きろ、梵」


 瞬間。


 エリゴスの体が光りとなり、弾けてしまう。


 梵は自分の腕の中から空へと昇っていく光りを見つめて、目を見開き、胸を掻き毟るのだ。


「アミーさん、そんな、待ってッ!!」


 氷雨がアミーを抱き締める。


 消えるなと、逝くなと、少女は大粒の涙を流して切願した。


 その願いが叶えられることは無いとどこかで分かっているのに。


 少女は願うことを止められない。


 笑っているアミーは消えていく右手で、溶けだしそうなひぃと、ヒビが入ったらずを撫でたのだ。


 ひぃの体が元のドラゴンへと戻される。


 らずのヒビが青い光りによって消されていく。


「……これが、最後……もう、壊しちゃ、駄目だよ、氷雨ちゃん……終わるまで、守れなくて……救って、あげられなくて……ごめんね」


「アミーさん!!」


 ―― ……幸せで、あれ、あみー


 縁の声が蘇る。


 アミーは奥歯を噛んで、右腕を目一杯伸ばした。


 氷雨と時雨を抱き締める為に。


 愛しい兄妹を抱き締める為に。


 そのまま兵士は、やはり笑うのだ。


 笑っていた方がいいと言ってくれた友人がいるから。


 アミーは目を閉じて、縁に答えてみせた。


 ―― ……大丈夫だよ……僕は……この子達に会えて……幸せだった


 アミーの体が消えていく。肩が、背中が、腕が、消えていく。


 彼は口を開いて、最期まで大事な二人を想うのだ。


「――幸せで、あれ……時雨君……氷雨ちゃん」


 刹那。


 アミーの体が弾けて消える。


 光りとなって溶けて昇る。


 欠片となって、空に舞い上がる。


 氷雨と時雨の中から彼は消えて、逝ってしまったのだ。


 梵の叫びが、木霊する。


 氷雨の嘆きが、残響する。


 顔を覆い、背中を仰け反らせ、天に吠える青年がいる。


 頭を抱え、体を折り曲げ、地に向かって吼える少女がいる。


 どれだけ泣いても戻らない。どれだけ嘆いても戻らない。


 自分達を愛してくれた優しい人が、自分達の背中を押してくれた掛け替えのない人が。


 言葉を授けて、逝ってしまった。


 氷雨は咽び泣き、その頭には一つの答えが弾き出された。


 考えてはいけなかったこと。


 考えないようにしていたこと。


 風の檻から出てきた帳は駆け出す。なんとか体を起こしたオリアスを確認し、壊れたように泣き続ける氷雨に向かって血だらけの手を広げた。


 少年は、砕けてしまった少女を抱き締める。


 紫翠は地面を殴る青年の背中に頬を寄せ、その双眼からは大粒の涙が溢れていく。


 祈は空を見上げたまま無表情に泣き続け、ルタの体が崩れていく。


 宝石のように尖り、かと思えば水のように流れ出しそうになるルタは、唯一崩れない瞳で自分のパートナーを見つめていた。


 その日、二人の兵士が消失した。


 一人は豪傑の化身、エリゴス。


 一人は炎の化身、アミー。


 その光りはアルフヘイムの空を流れ、救いたいと願った子ども達の心に――刻みつけられた。

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