第109話 一通


 心臓が激しく脈打っている。


 余りにも激しすぎて目眩がしそう。


 私達はスケルトンの林の奥の奥。光りが当たりにくい芝に座り込み、何とか兄さん達から逃げ切っていた。


 不安で肩が揺れてしまう。もう戻れない所まで来てしまったという事実が恐ろしい。


 そんな弱い背中を撫でてくれる手があって、私は顔を上げた。


 無表情の帳君がそこにいる。


 彼は無言で背中を摩ってくれて、視線を前に向けると翠ちゃん達がいた。


 その姿に――安堵してしまう。


 らず君は梵さんに、りず君は祈君とルタさんに、ひぃちゃんは翠ちゃんに近づいて喜びを体全体で表し、皆さん顔色は良好そうだ。


 肩から力が抜けていく。みんな無事に戻ってきて、私の手首には五本の鍵がかかっていた。


「お疲れ、氷雨ちゃん」


 帳君が柔らかく頭を撫でてくれる。その温かさが心地よくて、私は笑ってしまうのだ。滲みかけた視界の向こうには大事な友達がいてくれる。


 それだけでいいんだ。なんて、酷い弱腰だな、氷雨。


 思っていれば翠ちゃんが近づいて来て、私の首に腕を回してくる。頭に乗っていた帳君の手は離れていき、ひぃちゃんは翠ちゃんの肩に乗っていた。


 翠ちゃんの肩口に私の額が押し当てられる。私の頭と肩を抱いている彼女の手はとても力強い。それを服越しに感じて、鼻の奥が水でも入ったかのように痛んでしまった。


「ありがとう、氷雨」


 あぁ、どうかその言葉を、私だけに与えないで。


 望んだ私は翠ちゃんの背中に手を回し、口角を上げることを我慢出来なかったのだ。


「おかえりなさい」


 翠ちゃんの腕により力が入る。私の手首では鍵がぶつかり合い、高い音を響かせた。夕焼けが深くなっていく。もうすぐ帰る時間だ。


 私は濃い影を見ながら伝えていた。


 どうか私だけに、お礼を言わないで欲しいから。


「翠ちゃん、私だけではないんです。帳君も凄く頑張ってくれて、もう御一方おひとかた、手伝ってくださった方もいて」


「そう、そうなのね」


 可笑しそうに頷いて離れた翠ちゃんは、酷く優しく笑ってくれる。その笑顔が綺麗だから私も自然と笑えたよ。


「ご尽力どうも、エゴイスト」


「やめて鳥肌立つから」


 翠ちゃんの頬が痙攣し、帳君は青くした顔で腕を摩っている。


 うぅん……この二人は本当に、もう……。


 空気が冷えた二人に口を挟む勇気がないまま、私は泣語さんを探した。


 まさか捕まった。怪我をされた。力の使いすぎで体力が。兄さんにもしかして――


 嫌な予感はふつふつと湧き上がり、私の心臓をまた早くさせる。どうにも出来ないこの感情が私は嫌で、確認する術が無くて、泣語さんの無事を願う自分がいた。


「氷雨さん」


 声をかけてくれたのは、ルタさんとりず君を抱いた祈君。彼は私の近くに移動して来てくれた。


 祈君が膝をついて座っている。その目は何だか泣き出しそうで、それを必死に堪えているようで、私は言葉を探していた。


「ありがとうございます。助かりました……兄が、すみません」


 あぁ、その謝罪は――


 私は鍵を下げた手を伸ばして祈君の頭に置いた。


 ただの自己満足。赤い毛先が指の間から抜けていく。


 少しだけ彼の顔を下に向けさせると、細い肩は小刻みに震えていた。


 夕焼けで出来た影が彼の顔を隠している。


 その見えない目から零れたであろう雫は、ルタさんとりず君の額に当たって弾けていた。


 私の片手は祈君の頭を撫でて、もう片手は頬を撫でる。


 きっと、戦士になる前やなりたての私ならば怖がっていた行為。相手を傷付けないか、相手は望んでいないのではないかと。


 しかし、翠ちゃんに抱き締めてもらえた時の私は確かに嬉しいと思っているから。帳君や梵さんに頭を撫でられる時、必ず穏やかになれているから。祈君が軽く背中を摩ってくれた時、酷く楽になれているから。


 その気持ちを貴方にも感じて欲しいと思ってしまう。それは傲慢で、エゴで、勝手な押しつけかもしれない。自分と相手が同じ感情な訳がないのだもの。


 それでも、頬に添えた手に祈君の手が重なるから。


 彼は唇を噛み締めて涙を零し続けるから。


 私はこの手を、離しはしないと決めるのだ。


「祈君は祈君だから。だからどうか、自分を責めないでください」


 祈君の手に力が入る。


「お兄さんのことは……また、ちゃんと話しましょう」


 私に出来ることはあるのか。私自身、まだ兄さんと敵対する勇気も覚悟も無いくせに。


 その場でしか言えない、確信も何も無い言葉。そんな不確かな言葉を与えてしまったのに祈君は頷いてくれた。ルタさんも静かに泣いてしまうから、私は言葉を無かったことにしないのだ。


 話をしよう。どうするか一緒に決めよう。一人で抱え込んではいけない。


 私は目を伏せて、微笑んでいた祈君を思い出した。ペリの天園を歩く中で、君は聞いてくれたよね。


 ――お兄さんがルアス軍だって知った時……どうしようと思った?


 あぁ、祈君。君は知っていたのではないですか。


 いつからか、気づいてしまっていたのではないですか。


 手が強く握られる。祈君の頬を流れる雫はとめどなく、震える声が聞こえた。


「兄貴の、馬鹿野郎……ッ」


「祈、祈、落ち着こう。どうにかなる、どうにかしよう。な、祈」


 ルタさんの翼が祈君の腕を撫でている。祈君は鼻をすすりながら頷いて、りず君と私は目が合った。りず君は首をゆっくり傾げている。


「……俺達もどうすっかな」


「……少なくとも、兄さんはやる気だろうね」


 自嘲気味に笑ってしまう。りず君は「だよなぁ……」と呟いて、その背の針は鋭い。祈君が怪我をしなければいいと思って、私の肩には硝子のパートナーが戻ってきてくれた。


 祈君と私を影が覆う。揃って見上げると、地面に膝をつく梵さんがいた。


 彼はらず君を私の肩に下ろしてくれたようで、硝子のパートナーは私の頬に擦り寄っている。


 それに癒されていれば、祈君と私の背中に手が添えられた。


 大きく骨ばった手。梵さんは私達を見下ろして、眉間には微かに皺が寄っていた。


「そんな、に、頑張ら、なくて、いい」


 穏やかに言われる。


 あぁ、喉が――震えた。


「メシア」


 急に呼ばれる。


 肩を揺らして振り返ると、大きな葉から降り立つ泣語さんがいた。私は、空から降ってくる黒い手と共に彼を見る。


「ご無事で良かったです」


「泣語さん……」


 ありがとうございます。貴方がいてくれたお陰で、私達は救われたのです。


 そう言う前に掴まれた体は無情で、私はまだ皆さんに鍵を返せていないことを思い出した。


 駄目だ、もう間に合わない。


 だから祈君から手を離して、鍵を握り締めて、瞬時に戻ってくれたひぃちゃんとりず君に安堵するよ。


 体が持ち上げられる。


 私は勢いよく空へと飲み込まれた。


 * * *


「泊まりに来たい? それとも泊まりに行ってもいい?」


「……へ?」


 昼間の学校で。じめじめとした梅雨の空気に皆どこか当てられる中、翠ちゃんは何の前置きも無く聞いてきた。


 体育館でバスケットボールの試合の時。男子は外でハードルの時期だけど、雨だから今日は一緒だ。人口密度が酷い。


 いや、と言うよりも今は翠ちゃんの言葉だ。


 泊まりに来たい? 泊まりに行ってもいい? ん?


「泊まり……ですか?」


 情けなくも聞き返し、翠ちゃんは頷いてくれる。髪を高い位置で結った彼女は今日も綺麗で、シュートが決まったホイッスルと歓声が聞こえた。


「そう。今日、どうかしら? 学校は明日休みなわけだけど」


 翠ちゃんは私から視線を外してコートに顔を向ける。私は暫し黙って、彼女の言葉を頭の中で反芻はんすうした。自然と笑ってしまう。


 何もかもお見通しとはこのことだね、翠ちゃん。


「ちなみにうちはマンションで狭いから、泊まりに来るのはおすすめしないわ」


 そう言ってくれた彼女は周りをよく見られる人。何か言う時はもっと時間がある時に言う人。急な誘いは、きっと彼女なりの考えだから。


「……是非、来てください。来て欲しいです」


「そう。じゃあ放課後、荷物をまとめたら行くわ。住所だけメッセージで送っておいて」


「はい」


 笑ってしまって、何故だか胸の内は泣きたくなってしまう。


 その時「危ない!」なんて言葉が響いて、私は弾かれるように前を向くのだ。


 ボール、こっち、早い、弾くか、いや危ない。


 反射的に腕を顔の前に出して膝を曲げた時、私の前に出た手がボールを弾いてくれた。


「ッ、大丈夫?」


 そんな声がして、両手を下ろしつつ上を見る。


 いたのは、息を切らせている雲居君。


 目の前で試合をしていたチームのゼッケンを着ている彼は、盛り上がった周りにはやしし立てられるのを一切気にしていないようだった。


「大丈夫です……ッ、雲居君の手は」


「俺は平気だよ。良かった、凩さんに当たんなくて」


 眉や目元から力を抜いた雲居君。彼は転がったボールを相手チームに投げて「ノーコン!!」と叫んでいた。怒られた男の子は雲居君と私に手を合わせてくれて、周りの人は笑いながらコートに目を向けていた。体育の先生は状況を確認してホイッスルを鳴らしている。


「氷雨、大丈夫?」


「うおー! 氷雨ちゃん無事!?」


「当たんなく良かったね! バスケボールは当たると危ないし……」


 翠ちゃんに聞かれ、別の場所にいた小野宮さんと湯水さんが駆け寄ってくれる。私は自分の両手を見下ろして、湯水さんの心配そうな言葉尻を拾っていた。


 顔を上げると、心配そうに眉を八の字に下げた小野宮さんと湯水さんがいる。自分が出来る安心を与えるであろう笑顔を向ければ、花が咲いたように二人は笑ってくれた。


 あぁ――太陽だ。


 近づきすぎて翼を燃やしてしまうことを恐れる私は、イカロスになんてなれはしない。


 試合終了のホイッスルと歓声を聞く私は、笑い続けていた。


「心配してくださってありがとうございます、小野宮さん、湯水さん……嬉しいです」


 近づくことを恐れるくせに見放さないで欲しいとも願う私は、きっと道化師にだってなれはしない。


 あぁ、タガトフルムに戻ったら調べようって決めていた言葉は何だっけ。思い出せないから諦めよう。


 小野宮さんと湯水さんは顔を見合わせて、翠ちゃんが息を吐くのが聞こえてきた。


 ごめん翠ちゃん。それでも私は、太陽のように輝く優しさにれてしまって。死んでしまった時、その太陽に欠片さえも残せないことが怖いのだ。


 その後、私を心配した雲居君にも声をかけられて「大丈夫」だと笑っておく。バスケットボールを掌で受けてくれた彼の方が痛みを伴っていそうだが、見せてくれた手に怪我はなくて呼吸が楽になった。


 それからも雨は降り続いた。


 降って、降って、気温を下げて夏が近いのに肌寒くなる。


 休み時間は昨日から続いている帳君とのメッセージのやり取りをして、お母さんとお父さんに〈友達が泊まりに来る〉と言う事後報告をし、〈ぜひぜひ〉と言う了承を貰った。


 翠ちゃんには私の家の住所を送り、帰宅後に支度が出来次第きてくれることになった。


「翠ちゃん、晩御飯は何がいいですか? アレルギーとか嫌いなものとか……あ、うちはスナック菓子を置いてないので、大丈夫かと」


「ありがとう。特にアレルギーはないわ、予定は何か立ててた?」


「一応、肉じゃがを作ろうかとは……」


「じゃあそれで。手伝うわ」


 なんて会話をしながら傘をさし、横断歩道で分かれた。


 翠ちゃんと私の家は反対方面なので私は横断歩道を渡り、ちょうどやって来たバスに乗り込む。少しだけ学校を出る時間をずらしたからか、座れはしないが空いている車内は無音だった。


 手摺に捕まって窓に打ち付けられる雨粒を見る。


 ――ねぇ、ひさめってどういういみ?


 思い出してしまったのは幼い頃の記憶。私を膝に乗せた母が頭を撫でてくれることは無かったし、手を握ってくれることもなかった。


 後ろから腕を回してくれていたお母さん。常に手袋をつけて、手首を交差させていたんだっけ。


 ――そうねぇ……意味は、冬の冷たい雨のことよ


 ――あめ?


 ――うん。お母さんの氷って字と、お父さんの雨の字を合わせて、氷雨


 ――つめたい?


 ――意味はね。それでも、込めた願いは違うのよ。どんな時でも冷静に、周りに流されず、自分の道を進める子になりますようにって思ってつけたの


 ふと思い出してしまった言葉が、温かさが、私の肩を震わせる。気づけばバスは最寄りのバス停に着くところで、少し急いで開いたドアから降りておいた。


 帰宅したら敷布団を引っ張り出して私の部屋の前に置く。寝ることはないけど、一応だ。その後は着替えて簡単にリビングや自室の床を掃除した。


 終わったら敷布団を部屋に押し込んで、落ち着かないまま翠ちゃんを待ったのだ。


 鞄の中で寝ていたりず君達を起こさずに準備は終えた。よしよし。


 ふと部屋に置いた五本の鍵を視界に入れる。翠ちゃんが来たら彼女の鍵は返しておこう。


 考えていると、雨に交じった車のエンジン音を聞く。


 小走りに玄関に向かえばインターホンが鳴らされて、私はサンダルを足に引っ掛けるのだ。


「はーい」


「こんにちは」


 見えた瞬間頭に浮かんだのは「美人」と言う単語。


 翠ちゃんは制服でも黒を基調した服でもなく、カーキで膝丈のシャツワンピースとスキニーズボンを履いているという格好だった。


 ふぁ……美人。


 それしか浮かばない。傘を畳んでいる彼女は、肩から提げた小さなエナメルバックに触れながら笑ってくれた。気づいた私も笑い返し、家の前に止まっている車を見る。


 運転席の窓から手を振ってくれる男の人。翠ちゃんと似ている明るい茶髪に、人懐っこそうな笑みを浮かべた彼は、もしかして……。


 慌てて頭を下げてから翠ちゃんを見ると、彼女は車の人に手を振っていた。


 男の人はハンドルを握って車は走り去っていく。それを翠ちゃんと一緒に見送り、私は彼女を家に迎え入れた。


「翠ちゃん、今の人……」


「あぁ、父さんよ。今日休みだったから家にいたの。友達の家に泊まるって言ったら喜んで送ってくれたわ」


 靴を脱ぎながら「お邪魔します」と言ってくれた翠ちゃんが教えてくれる。私は出しておいたスリッパを勧めて、翠ちゃんを自分の部屋に案内した。


「お父さん、若いですね」


「まぁね、今年で三十九よ」


 あ、でもお母さんと同い年か。


 思いながら相槌を打ち、自室の扉を開ける。中に入った翠ちゃんは部屋の隅に鞄を置いて、友達が部屋にいる状況に私は若干の感動を覚えていた。


 気を引き締めつつ翠ちゃんに鍵を返せば、彼女は微笑んでくれた。


「ありがとう、守ってくれて」


 表情を緩めてくれた翠ちゃんは、学校にいるよりも肩の力が抜けているような印象だった。


「一晩お世話になります……と言っても、零時から消えるけど」


「ですね」


 慣れてしまったことに頷きあって、私達は晩御飯の支度に取り掛かる。


 肉じゃがと胡瓜の酢の物を作って、お味噌汁と白ご飯を準備する。翠ちゃんはテキパキと料理の手伝いをしてくれて、家でご飯を作っていると言うことがよく伝わってきた。


「料理、好きですか?」


「好きでも嫌いでもないわね。ただ母さんに作らせたら半分焦げるから作ってるの」


「わぁ……」


 翠ちゃんのお母さんは中高と陸上部の人で、今も大会に出ているのだとか。そのお陰か翠ちゃんも昔から走ることは好きらしい。お父さんとお母さんは別の高校で、お父さんは私達と同じ高校だったとも聞いた。


 何とも他愛ない会話。お互いの家族のことなんて、今まで話す機会は何だかんだと無かったのだもの。私は嬉しくなりながら翠ちゃんの言葉を聞いていた。


「そう言えば前、父さんが気になること言ってたのよね……」


「気になる?」


 翠ちゃんがお皿に肉じゃがを付けてくれながら呟いている。私は首を傾げて、玄関が開く音を耳は拾った。


「ただいまー……あ、いらっしゃい、ぇっと」


 帰ってきたのはお母さん。少しだけ濡れた前髪を触りながらはにかんだ彼女は、三十代と言っても信じて貰えないことが多いとか。とても同意出来る。


 翠ちゃんは姿勢を正して、軽く会釈してくれていた。


「楠紫翠です。今日は急にお邪魔してしまってすみません。一晩お世話になります」


「ぇ、そんな、いいの、いいのよ、気にしないで。氷雨が誰か呼んでくれること全然ないから、嬉しいの。ぁ、私は氷雨の母です。よろしく」


 頬を染めながら全身で「嬉しい」と言う雰囲気をかもし出すお母さん。それに気恥ずかしくなりつつ、私達は三人で晩御飯を食べた。お母さんは「美味しい」を連呼してくれて、嬉しくも恥ずかしくなってしまう。


 その後は食器を片付けて翠ちゃんと交代でお風呂に入り、そこでお父さんが帰って来た。彼は翠ちゃんを見るとやっぱり嬉しそうに笑ってくれる。


「……はじめまして、氷雨の父です。娘と仲良くしてくれてありがとう」


 あ、お父さんの声、久しぶりに聞いたかも。


 感想を抱いていれば、お父さんも晩御飯を「美味しい」と言ってくれるから私はやっぱり恥ずかしくなった。


 だから早めに部屋に上がれば、翠ちゃんはとても納得したように言ってくるのだ。


「あのご両親あっての氷雨と兄ね。理解したわ」


「えー……そうですか?」


「そうよ。そっくりじゃない」


 敷布団を広げて座った翠ちゃんは仕方がなさそうに微笑んでくれる。


 そんなこと思ったことも無いし、言われたことも無いんだよな。素直に言えば「みんな知らないだけでしょ」と言われた。


 まぁ、確かに家に誰か呼ぶことないって言うか、お泊まり初めてだもんなぁ……。感慨深いぜ。


 あぁ、いや、と言うよりも……だな。


「……翠ちゃん、今日はどうしてまたお泊まりの提案を?」


 翠ちゃんの隣に座りつつ、どこかで分かっていながらも聞いてみる。彼女は横目に私を見ると静かに教えてくれた。


「貴方がまた我慢していたんだもの」


 言われる。


 我慢。私が、か。


 自然と時沼さんを思い出す。


 胸が締め付けられて、言葉が出てこないな。


 翠ちゃんは私の肩を軽く叩いてくれた。


「仲良かったでしょ。時沼相良と」


「……はい」


 膝を抱えて笑ってしまう。


「お兄さんのこと、まだ受け入れられてないんでしょ」


「……はい」


 眉が下がってしまうのが自分でも分かる。


「ならばそういう顔をしなさい。貴方は直ぐに無理するんだから」


 翠ちゃんが私の背中を摩ってくれる。それが嬉しくて、落ち着いて、しんどくて、口を結んだ。


 目の前が滲んでしまう。


「氷雨、貴方が悩むのは分かる。悩んでいいの。誰も貴方を責めたりしない」


「……それを言ってくれる為に、今日?」


 震えそうな声を我慢して、我慢して、聞いてみる。


 翠ちゃんは「そうよ」と返事をして、私は膝を小さく抱えていた。


 思い出したら止まらない。


 初めて会った時、ベンチに座って空を見ていた時沼さんは何を思っていたのだろう。あの時絆創膏を渡して、夕暮れに返しに来てくれて、並んで座って話をした時、確かに私達は友人であった筈なのに。


 ――……俺は、やっとお前を守れるかな


 貴方の優しさは嘘でしたか。貴方が私にくれた温かさは、嘘でしたか。


 ――……ごめんな、凩、お前に嘘吐いた


 頬を熱いものが流れていく。流れていって止まらない。


 あぁ、涙腺が緩くて困る。困るよ、本当。


 翠ちゃんは私の頭を引いて、彼女の肩に預けさせてくれる。そうされることが余計に涙を増長させて、私は顔を覆ってしまった。


「……翠ちゃん」


「何?」


「私……勝ちたいけど、勝ちたくないとも思って」


「うん」


「……友達に、生きて欲しいって思って」


「うん」


「……道が、分からなくなっちゃいそうで、」


「うん」


「ごめん、ごめんね……ごめんなさぃ」


 お先真っ暗とはこのことか。思う私は、頭を撫でてくれる翠ちゃんの手にすがりたくなってしまうんだ。


「許すわ、氷雨。だから一緒に考えましょ。闇雲にだってそう言っていたでしょ? ……だから良いの、今は泣いてさない」


「ッ、はい」


 雨の音がする。


 まだそれは降り止みそうになくて、私は翠ちゃんの肩を濡らしていた。


 弱い弱い、凩氷雨。ぐちゃぐちゃになった道を見つめて、選んで、進め。


 ――凩


 ――氷雨


 時沼さんの声がする。


 兄さんの姿が浮かぶ。


 あぁ、もう――戻れない。

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