第100話 独白

 

「俺が氷華ちゃん好きになったのってさ、高校の入試の帰りだったんだ。珍しく雪は降るし親は迎えに来れなくなるし、雪が大粒でめっちゃ頭とか積もるし。頭から湯気出そうなくらい勉強したし、ガチガチになりながら面接頑張ったのにこんな仕打ちはねぇだろって悪態ついてさ、そしたら寒さで舌が回んなくて噛んで、厄日で受験落ちたと思った。でもさ、そんな俺に急に傘貸してくれた子がいたんだ。しかも初対面で。見たら超可愛い子で、まじで寒さで頭がやられたと思ったね。で、その子は「私はバスで帰るから、良かったら傘使ってください」って。んな漫画みてぇな事ある訳ねぇと思ったのに、ホントにその子はバス停の屋根の下に入って傘貸してくれて、合否が分かる日に返す約束したんだ。で、無事受かってたの確認してその子探してたらしっかり俺のこと覚えてくれてて、そこで初めて自己紹介したんだ。迷野氷華ちゃん。絶対忘れないって決めてブツブツ呟きながら帰った俺は今思えば変人だったんだろうな」


 それはある日の屋上にて。


「クラスに氷華ちゃんの名前があって、しかも席前後。後ろに氷華ちゃんが座ってて本気で席替えしたくないって思ったんだ。入学しても俺の事覚えてくれてたし、名前もちゃんと呼んでくれた。松風君なんて仰々しいから縁でいいって言ったら、ならってことで俺も氷華ちゃんって呼んでいいことになった。その日はなんでも許せたね。親が再婚したてで結人と紡が荒れたから家の中ハチャメチャだったけど、バイトの兎の着ぐるみ通行人にめっちゃ弄られたけど全部許せた。お前らは知らないだろって。俺はあんなに可愛くて優しい子に名前呼び許されたんだぞって。席替えしても氷華ちゃんは俺の斜め前の席にいて、ゴールデンウィークなんて無くなればいいって願ったけど、まぁ無くならねぇわな。入学した頃から氷華ちゃんが図書室好きなことは知ってたし、だから俺も頑張って本読んだんだ。どんな本が好きか聞いて、何となくそれに近いの選んでみて、うわ、今思うと気持ち悪ぃなこれ」


 夕焼けの中、少年は言葉を並べている。


「入学して一ヶ月で戦士なんかに選ばれて、そりゃ嫌だったよ。嫌だったけど、学校で氷華ちゃんに会えるだけで良かった。あの子に彼氏がいようと、それが絶対敵わない相手だって分かっても良かったんだ。俺は氷華ちゃんの気さくな友人枠を貰ったんだから。そうそう彼氏って言えばさ、慈雨先輩もめっちゃいい人なんだ。図書室で何回か俺と氷華ちゃんが話してるの見かけたらしいんだけど、氷華ちゃんが楽しそうだから良いかって。俺に牽制とか全然ねぇし、逆にめっちゃ良くしてくれる。廊下とかで会ったら声掛けてくれるし、俺の方から声掛けたら笑ってくれるし。でも別にイケメン感を鼻にかけてないって言うか、遠回しに自慢してきたり、当たり前だみたいな態度じゃないのがまた格好いいんだ、あの人。俺馬鹿だから、図書室でテスト勉強してたら氷華ちゃんと一緒に教えてくれるし、だから一学期末は赤点無かったって報告したら思いっきり褒めてくれるし。あの人の声落ち着く。慈雨って名前通りの人。氷華ちゃんと慈雨先輩ってこれ以上ないくらいお似合いだし、優しいし、俺……どっちも嫌いになれねぇんだよなぁ」


 足を揺らして背中を伸ばす縁。背後にいるアミーは屋上の手摺に触れていた。


「独白どうも。取り敢えず、危ないからこっち戻っておいで」


 アミーは柵を越えた先に腰掛けている縁に言う。少年は満面の笑みで頭を掻いた。アミーは手摺を握る手に力を込める。


「想太が最後に見た景色、想像してんだよ」


 縁は口角を上げている。アミーの心臓は締め付けられ、再び縁の独白は始まった。


「考姫と想太さ、すっげぇ仲良かったんだよ。一ヶ月も一緒に行動なんてしてねぇけど、まだ十二歳なのにすっげぇ頑張って生贄集めるし、お互いのこと分かりあってるし、そこにいるの当たり前みたいだったし……だから想太はきっと、考姫が自分を庇って居なくなって、体の半分が無くなった気持ちだったんじゃねぇのかなって思うんだ。今更だけどさ。考姫がいなくなって暫く二人で一緒にいたのに、俺、想太の笑顔の裏なんて読んでなかった。笑顔だから乗り越えようとしてるんだって思って、言い聞かせて、だから大丈夫だなんて言い聞かせて」


 縁は自分の顔を両手で覆う。


「なぁ、なんで飛び降りちまったんだよ。考姫は想太に生きてて欲しいから反転したんだと思うのに……想太はそれ、全然読んでねぇ。何でそこだけ間違えんだよ。つか、そんな苦しかったんなら何で俺に言わねぇんだ。どこの県に住んでたって行ってやったのに。俺のバイト代舐めんなよ。余裕なんだよ。お前一人も抱き締められねぇほど俺は弱く見えてたのか? あぁ、くそ、ごめん、ごめん想太。お前、ここから足を離した時、何思ってた? いや違う、それ以上に何で誰も覚えてねぇんだ。おい親、しっかりしろよ、お前達には二人も子どもがいたんだぞ。滅茶苦茶良い子だった。頑張れる子達だった。俺の方が助けられてばっかで、なぁ、くそ、おいッ!」


 縁の声が荒くなる。アミーは、自分から夢角家の住所を聞き出して進んだ少年の行動力を賞賛した。


 扉が開かれた時に「考姫と想太? いや、うちにそんな子いませんけど」なんて。言われた時の縁の顔は、見るに堪えないほど打ちのめされた色をしていたが。


「……競走中に死ねば、それはアルフヘイムであろうとタガトフルムであろうと迎える結末は一緒なんだよ。死ねば戦士と兵士以外からは忘れられる。だって家族が、」


「悲しむから」


 縁はアミーの言葉を奪い、兵士は口を閉じる。それから暫く二人の間には沈黙が流れ、蟋蟀こおろぎの鳴き声が聞こえた気がした。


 夏服を着ている縁は今にも夕焼けの中に飛び込みそうな危うさを持っている。


 今は九月。


 そう、九月なのだ。


 競走が始まったのは五月。


 既に――四ヶ月を迎えている。


 アミーは奥歯を噛み、縁に言葉を送った。


「ねぇ、縁君。違うよね、君が一番口にしたいのはそこじゃない筈だ」


 縁は肩を揺らす。鍵を握り締めた少年は自嘲じちょう気味に口角を上げ、微かに振り返るのだ。


「……そう言うルールってだけだろ?」


 縁はアミーを責めはしない。何もかも受け入れる。


 アミーは手摺をこれでもかと握り締めた後、柵を飛び越えて縁の横に並んだ。


「ごめん」


 アミーの目に涙の膜が張っている。


 縁はそれを見て目を丸くし、頭を垂れたアミーは薄水色の髪を掻き毟った。


「ごめん、本当にごめん。僕は何も出来ない、出来てない。どうすれば君を救えるかとか、生き残らせてあげられるかとか、どれだけ考えても答えが出ないんだ。救いたくて、生きていて欲しくて、死なないで欲しいのに僕は何も出来ない。何で、どうして、どうすれば君を、縁君を、子ども達を死なせずにッ」


「アミー」


 今にも発狂しそうなアミーの肩に縁の手が乗る。


 反射的に顔を上げたアミーに、縁は柔らかく笑ったのだ。


「縁君って、初めて言ってくれたな」


 ――松風縁君


 いつからアミーはそう呼ばなくなったのか覚えていない。もう随分と頭の中では「縁君」になっていたのだから。しかしそれを口にしたことはなかった。その壁を崩してしまったら、本当にアミーは耐えられなくなりそうだったから。


 アミーは無意識の内に保身に走っていた。これ以上親しくならないように。情を移さないように。そうしなければ戦士が消えてしまった時、アミーは耐えられないと踏んだから。


 縁は顔いっぱいに笑みを浮かべて立ち上がった。


「アミー、俺、お前のこと好きだぜ。良い奴だと思う。お前が俺の兵士でよかったと思うし、そんなに悩んでくれてたって知れただけでも十分だ」


「縁君」


「でもな、アミー……ごめん、俺、勝てねぇかもしれねぇ……生きられないかもしれねぇ」


 縁は呟く。その遠くを見る目に、アミーは少年が気づいていると悟るのだ。


 少年が気づいてはいけなかったこと。神の悪戯で決められた戦士が気づいてしまったこと。


 ――この競争さ、俺達が勝ったら……ルアス軍の戦士は死ぬんだよな


 ――そうだよ


 ――……嫌だなぁ


 縁が頭を抱えたのを思い出す。


 もしかしたら少年は、その時から――心のどこかで決めていたのかもしれない。


 ――嫌なもんは、嫌なんだよ


 いつも見ていた少女の鞄から一瞬だけ覗いた銀の鍵。


 形状は少し違い、それが縁と対を成している戦士の物だと少年は悟っていた。


 ――アルフヘイムでは祭壇が増えなくなったことにより、一気にルアス軍が優位に立っている。


 縁は心獣達と共に祭壇を死守しようとするが、やはりどうにも穴が出来ていく。


 五十あったものが三十に。


 三十あったものが十に。


 十あったものが五に。


 五あったものが、等々一に。


 縁は肺が痛くなるほど日々走り回った。


 走って生贄を捕まえても、祀れる祭壇が無い。


 少年は苦悩して走り回り、常にアミーに残りの祭壇数を聞いた。その数は日を追う事に減っていき少年の肝が冷えていく。


 アミーは考えた。どうすればこの競争を止められるか。この子を無事に日常に帰してあげられるか。


 それだけ考えて、考えて、しかし答えが出ない時。


 縁は忘れられた泉の近くを走り抜け、戦士達の墓とは反対方向、少しだけ開けた場所にある最後の祭壇を見つけていた。


 誰も知らない丘の気配の薄い祭壇。


 縁はそれを喜んで死守しようと走ると同時に、祭壇に向かう白い後ろ姿を見て息を飲んだ。


「ナイ!!」


「あぁ!!」


 ナイが勢いよく飛び立っていく。紅蓮の鴉が駆けるルアス軍との距離を縮めた時、横から突然白い塊に殴られていた。


「ッぅあ!!」


「ナイ!!」


 遠くの木に激突したナイが震える。縁は狼狽うろたえ、ラウによって強化された聴覚は恐ろしい狼の遠吠えを聞き取った。


 瞬間、縁もラウも、リタも動けなくなる。


 筋肉が硬直し、動けない縁の両肩が勢いよく掴まれた。


 満月のように輝く金の瞳。白金の狼の毛皮を被った少年。


 爪は鋭く速さは獣。


 縁はその顔を見て、これでもかと目を見開いた。


 縁の背中が地面に打ち付けられ、リタとラウが飛んでいってしまう。


 それを気にすることが出来ない縁は自分を押さえた少年を見て、心が砕けそうになった。


「……嘘じゃ、ないっすよね」


 縁は苦く笑いながら呟き、狼の少年は現実を受け入れられない。


 首をゆっくり横に振った狼の少年。彼を見つめる縁は、全てを諦めたように笑った。


「俺の負けですわ――慈雨じう先輩」


 こがらし慈雨じう


 ルアス軍、心獣系戦士。


 彼は弾かれるように振り返り、祭壇に触れた白の戦士に叫んでいた。


ッ!!」


 彼が声に力を乗せても、もう遅い。


 ルアス軍体感系戦士――迷野まよいの氷華ひょうかは、祭壇に触れていた。


 彼女の触れた場所から祭壇が溶けていく。ぐずぐずと、ぐずぐずと。


 確実な速度で崩れていく祭壇を、縁は動くようになった体を起こして見つめていた。


 氷華は自分を呼んだ慈雨の方を見る。


 絶望的に顔色を悪くした少年の向こうには、自分の大切な、友人が――


「ッ!! 嫌ッ!!」


 氷華は祭壇から手を離し、震える自分の腕を抱えてしまう。


 慈雨の背中にいた狼の毛皮は微かに光ると、パートナーとの同化を解いていた。


 氷華の全身を堪えきれない恐怖が襲う。


 奥歯を鳴らして涙を浮かべた少女は、優しく笑う友人から目が離せなかった。


 終幕の鐘が鳴り響く。


 祭壇の崩れは止められない。


 空から鉄槌が姿を現す。


 それを見た慈雨と氷華は言葉を失い、縁の方へと走っていた。


「駄目だよ」


 縁は笑う。彼の心獣達が氷華と慈雨、狼に突撃して足を止めさせる。


「行かせん!」


「もういいの、もういいの!!」


 ナイとラウは泣きながら戦士達の行く手を阻み、狼は小さな硝子の兎にたじろいてしまう。


 縁は空を見上げて、自分の方を向いている鉄槌に笑っていた。


 空気を切り裂き、鉄槌が少年に向かって発射される。


「嫌だ!!」


「止めろ!!」


(あぁ、今の今でも、二人は優しいな)


 縁は思って、想って、笑って、鉄槌を見つめる。


 あと数m。あと数十cm。


 思ったのに、覚悟したのに。


 その間に入り込んだ水色の髪を見て、縁は目を見開くのだ。


 アミーが業火で鉄槌を焼き払う。


 赤黒く光って獲物を狩らんとしていた剣は青い業火に押し負けた。


「アミー!!」


「殺させないッ!」


 アミーは言い切り、数を増やした鉄槌が彼に向かって降り注ぐ。


 兵士は全身から炎を巻き上げ、空を割く剣を業火の壁で燃やしていた。


「殺させて、たまるかッ!!」


 それはアミーの覚悟の咆哮。


 縁は、アミーが苛烈に抵抗する姿を見つめてしまう。その背中を見ていれば自然と涙が溢れてくる。


 少年を守る兵士は、必死に奥歯を食いしばって思考した。


 兵士が縁を強制送還させようとしても黒い手は空から現れなかった。中立者がそう言うように仕組んでいるのだろう。


 ならば他に縁をタガトフルムに返す方法は、アミーと共にと言う選択肢が可能性として残る。しかしそんな余裕はどこにも無く、数を増やし続ける神の鉄柱を防ぐことしか兵士には出来なかった。


 縁は必死に自分を守る兵士を見られずに顔を覆う。


「あみー、もう、もう……俺は、」


「諦めんなよ!!」


 アミーが息を切らせて叫び散らす。


 縁は目を見開き、燃え盛る青の業火を網膜に焼き付けた。


「笑っていろよ!! 福が来るんだろ!? こんなことまで受け入れなくていい!! こんな理不尽、叩き壊す気持ちでそこにいろ!! 春を祝って、夏を過ぎて、秋を感じて、冬を迎えて、それでまた、春を祝うッ!! そう願うなら、それらしく足掻けば良いんだよ!!」


 アミーの業火が鉄槌を焼き尽くす。その一瞬だけ狂気が止み、アミーは肺いっぱいに吸った空気を声として吐き出した。


「――生きろよッ!! 松風縁!!」


 縁の肌が泡立っていく。


 少年の目からは涙が流れ続け、アミーは次の鉄槌に備えていた。


 しかし、鉄槌が来る前にアミーに赤黒い鎖が巻き付く。


 気なんて弛めていなかった。それなのに突如として地面から生まれた鎖は、アミーを雁字搦がんじがらめにしするのだ。


「アミー!!」


 縁の声と共にアミーは鎖に投げ飛ばされて木に激突する。


 まだ足が宙に浮いている段階で木からも鎖が生まれ、アミーの動きを封じていた。


「ッくそ!!」


 アミーの体から炎が溢れる。


 しかしその間にも鉄槌は空から降り注ぐ。


「止めろ!!」


 まだ鎖は解けない。転移も出来ない。


 アミーは叫び、縁の手には紅蓮の剣が握られていた。


「あぁ!!」


 体全体で叫びを上げた縁は鉄槌を切り裂き、死を免れる。


 激しく呼吸する少年の剣は震えており、それでもパートナーを守ろうと必死だった。


 また鉄槌がくる。


 構えた縁。


 だが、どこからとも無く現れる鎖はナイを連れ去り、縁は奥歯を噛み締めるのだ。


 少年の目の前に死が迫る。


 それを食い止めたのは――白い二人の背中だから。


 縁は、心が締め付けられた。


「ごめん、ごめんなさい、縁君ッ、もう間違えないから!!」


「殺させねぇから、絶対!!」


 氷華の悲痛な声と、心獣と同化した慈雨が決死の思いで鉄槌を防いでいる。


 慈雨が雄叫びを上げれば鉄槌の動きが一瞬だけ止まり、その間に氷華は剣を溶かしていた。


 少女の背中と先輩の背中を、縁は脳裏に刻みつける。


 慈雨の口が鎖で塞がれ、氷華の手首も巻き取られる。


 鎖を燃やしたアミーは地面に足を着き、しかし再び地面から出てきた鎖に囚われる。


 誰もが反撃の手を奪われた。


 奪われたのに鉄槌は降り注ぐ。


 容赦なく、タガトフルムの子を殺す為に。


「俺――幸せ者だな」


 縁は呟いて、走り出した。


 ナイが鎖を渾身の力で抜け出て大きな盾となる。


 それを無慈悲に貫通した鉄槌は氷華と慈雨に迫り、その前に手を広げて立った少年がいた。


 血飛沫が上がる。


 氷華と慈雨の顔に生暖かい血液が飛び散った。


 目の前で自分達の方を向き、手を広げている少年の口からは血溜まりが吐き出される。


 大きな剣が少年の腹部を、足を、肩を、腕を貫いている。


 アミー達の顔からは血の気が引き、鉄槌は静かに消えていった。


 縁の体が崩れていく。


 それを氷華と慈雨は抱き締めて、目からは大粒の涙が零れていった。


 慈雨と同化を解いた心獣は、地面に倒れて消えていくリタ達に涙する。


 最後の最後まで自分のパートナーを守ろうとした獣達は、勇敢と言う称号が相応しい。


 縁の体は各所から光りの粒となり始め、それは空に昇っていく。


「いや、いやだ、いや、縁君、縁君ッ」


「縁ッ、そんな、くそ、あぁ、あぁ!!」


 縁の手を握り、体を抱き締める白の戦士達は懇願する。


 どうか連れて行かないでくれと。自分達の大切な友人を盗らないでくれと。


 覚束無い足取りで縁に近づき、膝を崩したアミー。


 彼の生きている左目からは涙が溢れ、溢れ、溢れていた。


 体が痛い。胸が痛い。心臓が痛い。頭が痛い。肺が痛い。心が痛い。


 アミーは縁の頭に手を置く。


 微かに意識が残っていた少年は目を開けると、順に自分を囲む者達を見て――笑っていた。


「……おれ、人が、ないてる、顔……すげぇ……にがて、なん、すよ」


 途切れ途切れに言葉を紡ぐ少年。


 彼の心残りは沢山あるが、一番は――少女に想いを伝えていないこと。


 自分を抱き締める氷華を見上げた少年は口を開き、言葉を必死に考えて笑うのだ。


「ひょう、か、ちゃん……たのし、かったよ……傘……ありがと……幸せに、ね……」


「ッ、縁君!」


 氷華の涙が縁の頬に落ちる。少年に残された時間はもう僅か。


(好き、好きだ、君が好き。優しくて、表情がすぐに変わって、俺なんかの話をしっかり聞いてくれて、小さなことにも気を配って、可愛くて、可愛くて堪らない君が、俺は……好きなんだ)


 縁は想いを胸に仕舞う。


 彼は言わないでいた。


 伝えないまま逝くと、決めたのだ。


「……じう、せんぱい……ひょうか、ちゃん、なかせ、たら、おれ、たたります、ん、で……どうか、幸せ、で」


「縁!」


 自分の為に泣いてくれる美丈夫に縁は悪戯っぽく笑う。


 少しだけ嫌味を言いたかったが、これほど自分の死を悼んでくれる人に言える言葉など縁にはなかった。


「縁君、駄目だ、死なないで、止まれ、止まれよ……くそッ!!」


 アミーが縁の傷を塞ごうと手を宛がっても、直ぐに光りの粒となって消えていってしまう。慈雨や氷華が被った縁の血飛沫さえ昇ってしまう。


 アミーは頭を抱え、そんな兵士を縁は笑うのだ。


「あみー……ごめん、俺、まけた、けど……なかなく、て、いい、から、わらって、ろよ……お前、そのほう、が、ぜったい、いい……」


「縁君!」


「……幸せで、あれ、あみー」


 そう言い残して――縁の体全てが消える。


 弾けるように。


 溶けるように。


 氷華は顔を覆って咽び泣き、その肩を抱いた慈雨も唇を噛み締めて泣いていた。


 アミーは頭を掻き毟る。


 彼の口からは嗚咽が漏れ、溢れる言葉を止められない。


「笑えって、無理だ、何言ってんだよ、馬鹿、この、すぐ無理する馬鹿ッ、君が死んで、笑えるわけがないじゃないか!!」


 アルフヘイムに泣き声が溢れかえる。


 アミーは泣いて、悔やんで、また泣いた。


 自分の目の前で消えていった優しい子。


 誰かの為にと頑張って、傷ついて、我慢して、頑張るあの子が報われないだなんて。


 アミーは泣いた。


 これでもかと言うほど。


 泣いて泣いて、それでも涙が枯れることは無かったのだ。


 * * *


 ――二十三年後。


 アミーは縁の墓の前にいる。


 薄水色の髪に顔の右側には大きな火傷。繋ぎ止めた左腕に感覚はない。戦士の死を妨げた罰は、潰れた目の痛みを何度も経験して腕を数百回と引きちぎられる拷問だった。


 それに耐え抜いたアミーは再び担当兵に選ばれた。


「ふざけてると思うよ。こんな僕を兵士にするなんて。でも、もっと質が悪いのは僕の担当戦士さ。知ってるかい? 縁君。なんと氷華ちゃんと慈雨君の娘さんなんだよ。名前は氷雨ちゃん。氷華ちゃん似の可愛い子でね、でも祝福を貰った氷華ちゃんは上手く子どもに触れなくて、いつも苦しそうだ。あ、子どもは二人でお兄ちゃんは時雨君って言うんだ。慈雨君似の格好いい子。二人共いい子に育ってるんだけど、なんだかちょっと危うい気もしてさ、氷雨ちゃんは何となく縁君に似てるよ。いつも笑ってる。なんで知ってるかって時々タガトフルムに行って見てるからだよ。そんな頻繁に行くとまた腕もがれるんだけどさ、一年に何回か。見守る為に……多分、それを中立者は知ったんだ。だから反抗する僕への罰として氷雨ちゃんを僕の担当戦士にした。ふざけてるよ。あの日に氷華ちゃんと慈雨君を守りに来なかったルアス軍の担当兵もそうだけど、やっぱり中立者は一番ふざけてる」


 アミーは延々と語り、語り尽くして空を見上げる。


 それから立ち上がり、横に置いていた青い兎の被り物を手に取った。


「見て、縁君。これ作ったんだ。縁君がバイトしてた着ぐるみと似てるでしょ。一応ラウとリタに似せようとしたんだけど無理だった。これ被って氷雨ちゃんに会いに行くね。まだ上手く笑える気がしないから、これで隠すんだ。声は頑張って明るくして、氷雨ちゃんが怖くないようにおちゃらけていようと思う。その方が良いって、君ならきっと言ってくれるでしょう?」


 憂いを纏って笑い、アミーは兎の被り物をする。それを木陰から見ていたオリアスは何も言わずにその場を立ち去った。


 アミーはタガトフルムに行く。


 アルバイト帰りの氷雨を、横断歩道を挟んで見つめてみる。


 一瞬だけ少女と目が合った気がしたが直ぐに転移し、氷雨の家の玄関で待つことにした。


 氷華と慈雨の帰りが遅いと知っているから。氷雨が一人で頑張っていることを知っているから。


 アミーは自転車のスタンドがかけられる音を聞く。


「守るよ、縁君。君が愛した友達の宝物を、僕は守る。死なせなんかしない。僕はどうなったって構わない」


 玄関の鍵が開けられる。


 アミーは開く扉を見つめながら、自分を確認して固まった氷雨に元気よく言葉を渡していた。


「やぁ、おかえり!! 氷雨ちゃん!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る