第99話 夕暮
統治権を争う競争が始まった。
強さこそが正義であり、人生を自分で切り開くことこそ幸福とするディアス軍。
生きる者は生まれた時から果たしていくべき宿命を抱え、時には使命が付加され、遂行することを幸せとするルアス軍。
競争初日、アミーの戦士が落とされるのはいつも決まってフォーンの森だった。それは中立者の皮肉だろう。
縁はナイに森の偵察を頼んでいる。同時に少年は一日早く競争を始めるディアス軍の戦士として祭壇を建てるのだ。
彼の姿を見つめるアミーは屋上での言葉を思い出している。
―― 笑ってた方がいいぜ、アミー。笑う門には福来たるって言うし!
アミーの表情は余り変わらない。大きな声を上げて笑ったことも無い。いつも世界を見つめて、憂いて、嘆く程度のことしかしない。
(こんな奴に、戦士なんて救えないよね)
自分に呆れるアミーは縁の姿を見つめていた。
縁は数日かけてフォーンの森とグウレイグの湖に祭壇を建てていく。グウレイグの生贄立候補を戦士は全力で嫌がり、兵士は嘆息せざるを得なかった。
したい、したくないの感情論で動いていては勝てはしない。
元より勝てる望みが薄い競走なのだから非道にならなければいけない。
それでも縁は――フォーン・シュス・フィーアから上がった悲鳴を無視できないのだ。
そこには近づくなとアミーは伝えられないまま、紅蓮の鴉であるナイが鋭い剣に変形するのを見る。
薄茶色の子兎であるラウは縁の肩に乗り、少年の聴覚を最大限に研ぎ澄ませた。
ナイの能力は「触れた物全てを切り裂く剣」か「必ず害悪を防ぐ盾」になること。
剣は伝承で言うところのエクスカリバー、もしくは勝利と共に破滅をもたらすティルウィングのようなものだ。盾は絶対防御のアイアスの盾とでも言っておこう。
剣だの盾だの使ったことの無い少年がその力を十分の一も使いこなせたら上々だ。
ラウの能力は「聴覚強化」
縁に触れている間、少年の耳はどんな音でも拾い逃すことが無く不意打ちだって撃破出来る。
しかし洪水のように流れ込んでくる音を処理出来る程の器量が縁には無く、長時間力を使っていれば発狂してしまいそうになるのが勿体ないところだ。
縁は悲鳴に引かれてフォーン・シュス・フィーアに走り込んでいく。
悲鳴は突如として聞こえなくなったが、それは少年の心を締め付けるには十分だった。
彼は城に向かって美しいシュスを駆け抜け、ふと物が焼ける匂いを嗅いだ。
縁が足にふんばりを効かせて止まり、匂いの元を見る。
そこには銀色の十字架に鎖で縛り付けられ、
十字架の向こう側でも動く影があり、一人ではなく二人が捕まっている。
縁の全身から汗が吹き出し、少年の足は動いていた。
十字架の周囲に敷き詰められた茶色の枝々が燃え始めている。
その一回り外を囲うフォーン達は両手を胸の前で組み、祈りを捧げているように見える。
縁は住人の壁の間を縫うように跳び進み、焼ける枝の中へと突撃した。
その想定外の部外者による行動にフォーン達は戸惑いを隠せない。
アミーは目を見開いて縁の映像を見つめ、紅蓮の剣を振り上げた少年は奥歯を噛み締めた。
磔にされている男子が目を固く瞑る。
縁は両手で握り締めた剣を振り下ろし、寸分たがわず鎖と十字架を斬り裂いた。
甲高い破壊の音。
何度も見てきた儀式の中で初めて聞いたその音。
群衆の中でメネは目を潤ませ、守るようにヴァンが姉を抱き締めていた。
その視線の先では、猿轡が外れた男子と背面に捕らえられていた女子を縁が鼓舞している。
「走れ!! 止まるな!!」
その声に、震えていた膝を止める二人。
背丈も顔も瓜二つの戦士達は頷くと、縁と共に燃え盛る火の海を飛び越えた。
ナイは鴉の姿に戻り、追ってこようとするフォーン達を威嚇する。
縁は自分より小さな戦士達を先に走らせてから振り返り、リタが眩く輝いた。
磨り硝子の子兎であるリタの能力は「幻覚」
一分ともたないが、リタの光を見た者は自分が望む夢を見ることが出来る。
持続時間が短い事とリタの力を使うと縁の体力も大幅に削られる事が欠点だろうが、代償分の対価はある。
フォーン達は一様に足を止め、その場に立ち尽くしてしまっていた。
縁はそれを確認して捕まっていた二人と共に走り去る。ナイはすぐさま縁の横に並んで宙を翔けた。
反射的に瞼を閉じていたメネとヴァンの父親は、三体の心獣を連れて走り去る戦士の姿を目に焼き付けている。
アミーは、フォーン・シュス・フィーアから全力疾走で逃げ仰せた三人を見つめた。
シュスをだいぶ離れた所で止まった戦士達は激しく呼吸を乱し、一人は木に
「ぅえ……だい、じょうぶか?」
木に凭れている縁は二人に確認する。
座り込んでいた少女は顔を上げ、何度も首を縦に振った。
地面に転がっていた少年は勢いをつけて起き上がり、縁を見上げている。
「ありがとう、助かった」
「こういう時はお互い様ってやつだろ?」
人懐っこく笑って見せる縁。
助けられた少年は光りの粒を舞い上げながら立ち上がり、満面の笑みを浮かべていた。
「良い人だね、お兄さん。僕は
「俺は松風縁、よろしく」
握手をする縁と想太。
しゃがんでいた少女は立ち上がると、縁の横に静かに立った。それに気づいた心獣系戦士は肩を揺らし、少女は想太と似通った顔で笑っている。
「私、
「松風縁です。こっちこそよろしく。もう大丈夫?」
「うん」
はにかみながら頷いた考姫。縁は自分の肩にいる心獣達も順に紹介していった。
「こっちは俺の心獣達。鴉がナイで、茶色い方がラウ、硝子の子はリタって言うんだ」
「よろしく」
「よろしくねー」
頭を下げるナイとラウ。リタは何度もお辞儀をしており、長い耳が揺れていた。
想太と考姫は「可愛い〜」と顔を緩め、その顔はやはり瓜二つだ。
「……二人って双子?」
「そうだよ、僕が弟」
「私が姉なんです」
「そっか、えーっと……中学生?」
「うん、中一だよ」
想太は笑顔で答え、その斜め後ろに考姫は下がっている。弟と姉だと言ったが、見た目的には兄と妹のようだ。しかも学年は中学一年。
縁は一瞬悲痛そうに顔を歪めたが直ぐに穏やかな笑みを携えた。
「俺は高一なんだ、どんと頼ってくれていいからな!」
「ほんと!?」
「一緒に行動してくれるの?」
「勿論」
縁の言葉を聞いて見るからにはしゃいだ想太と考姫。
縁はその姿を見ながら笑っており、アミーは眉間に皺を寄せた。
縁はそうだ。誰かに直ぐに手を差しのべ、背負わなくていいものまで背負って笑う。
それが彼の心に亀裂を生んでいるとアミーは気づいており、しかし指摘することは無かった。
恐らく縁にその性格を治せと言ったところで、少年は笑ってはぐらかすのだ。「無理なんてしてない」「俺なら平気だ」と。
その姿をアミーは容易に想像出来てしまうから黙っていた。
――タガトフルムであろうと縁は何も変わらない生活をする。
仮眠を少しだけとり、結人と紡の面倒を見て学校に行く。
少年は遅刻ギリギリで教室に駆け込み、授業中には頬杖をついて寝てしまっていた。
アミーは呼び出されてもいないのにタガトフルムへ行ってその姿を遠くから観察し、いつか心も体も壊れてしまうと懸念する。
アルバイトの日数や時間は減らしても、それはきっと微々たる影響しかないだろう。
もちろん変えるということは大事なのだが、それよりも根本を変えなければ安息という解決には至らない。
もっと自分の時間を増やすべき。休む時間を増やさねばならない。
アミーは思ったが、縁は昼休みには必ず図書室へ行っていた。唯一氷華と話せる時間を無くさない為に。
氷華はいつもと変わらず微笑んでおり、縁と彼女は窓辺の席に並んで座っていた。綺麗な黒髪をハーフアップにしている氷華は可愛らしく、縁の顔も緩んでしまう。
その恋に恋しているような表情を見て、アミーは息をつくのだ。
「縁君、最近眠たそうだけど大丈夫?」
「ぇ、あ、うん。弟とゲームしてたら夜更かししちゃってさ!」
心配そうに眉を下げた氷華に一瞬固まった縁は笑ってみせる。
氷華はそれでも心配そうだが、縁が話したがっていないことにも気づいたのだろう。少女は話題を別の方向に広げた。
「弟、いるんだね」
「……まぁね。結人って言って、まだ四歳なんだけどゲーム強くってさ。妹もいるんだ、結人の一個下で名前は紡。結人と一緒に家の中暴れ回るんだよなーこれが」
「小さいんだね。年が離れてるのって可愛いと思うけど」
「いやそれがさ、」
縁は身振り手振りをつけて氷華に家族のことを当たり障りなく話してみせる。
氷華は肩を
釣られた縁も声を小さくして破顔させている。
頭の片隅で彼氏に悪いなと思いながら。それでも、この時間だけは譲りたくないとも強く思って。
アミーは縁から氷華に視線を向ける。
教室で見る中、氷華と言葉を交わすのは満くらいだ。他の生徒は可憐な少女に声をかけるのを
こうして図書室で話し相手となってくれる縁は彼女にとって、きっと貴重な友人なのだ。
「氷華ちゃん、兄弟とかは?」
「私は一人っ子なんだ。お姉ちゃんとかお兄ちゃんとか良いなーって思うから、いる子は羨ましい」
「へー上かぁ、確かに憧れるよな」
笑っている氷華に同意しながら縁は思ってしまう。
だから年上の幼馴染と付き合ってるんですか、と。
そんなことは、当たり前であるが聞けはしない。
卑屈な考えに飽き飽きとした縁は明るい顔で話し続けていた。
彼氏はどんな人ですか、どんなところに惹かれたんですか、なんて聞く勇気もないまま。
どうか俺に振り向いてくれないかな、なんて小さな嫉妬の火を
「不毛だよ」
アミーは呟く。
走り回って心をすり減らしている少年がたった一人の少女に癒され、嫉妬させられるのだから。
縁にとって昼休みは大切な時間。その時間を割いてまで自分との時間を作ってくれた日を思い出し、アミーは頭を抱えた。
「君を死なせない方法。君をその子の傍に置いてあげる方法。誰も死なない道。誰も悲しまない道……思いつけアミー。お前はどうなったって良いんだから。痛みなんかいつか慣れるんだから」
アミーは呟き、空を移動していく太陽を憎く思う。
夜なんて来なければいい。アルフヘイムに朝など来なければいい。
そう思うのに、時間が止まるわけもない。
タガトフルムの夜、縁達は戦士としてアルフヘイムに降り立っていく。
体感系である想太と考姫は縁の道を切り開き、三人は生贄を捕まえるのだ。
生贄を捕まえる毎に縁の心が削れていく。
祭壇を壊されて救われる毎に崩れそうになる。
それを感じさせない縁に懐いた想太と考姫も疲弊の色は顔に現れていた。
「想太、考姫、大丈夫……じゃないな」
「大丈夫だよ!」
「もうちょっとだし!」
拳を握って笑う想太。
グローツラングの森で捕まえたカーバンクルを抱いている考姫は「だよ、ね」とつけ加えながら住人を見ていた。
カーバンクルは赤い宝石を輝かせながら考姫の腕の中におり、想太も逃げていたカーバンクルを捕える為に動いていた。
想太の体感系能力は「毒霧」
肺の中で神経毒素を持った霧を作ることができ、それを吐き出せば狭くとも半径十mにいる生物は動けなくなる。
効き目は体の大きさに比例する。大き過ぎる住人を行動不能にするにはそれだけ大量の霧がいるという事と色が濃い紫なので視界が悪くなる欠点があるが、少年は意外と気に入っているようだ。
その近くにいても害を与えられないのは考姫。彼女の体感系能力は「反転」
白は黒に、毒は薬に、熱気は冷気に、怒りは悲しみに。考姫が知っていることしか反転出来ないが、毒素を無害にすることだけはきちんと学んでいた。
そのお陰で縁も毒霧を受けることはなく、痺れて倒れたカーバンクルを想太は捕まえていた。
双子の片割れは体が重たそうなカーバンクルを両腕で持ち上げて霧は消えていく。
「捕まえた!! 四人目!!」
「おう! ありがとう!」
戸惑いと謝罪を隠した笑みを浮かべた想太は縁達の方へ走ってくる。
考姫と縁は末っ子に近づき――その背後に宝石を見たのだ。
輝く宝石の目を持ったグローツランが、濃い紫色の霧が晴れた先にいる。
縁と考姫の心臓が一気に競り上がる恐怖を味わい、姉は
「
「な、ッ!!」
気づいた想太は後ろにいるグローツラングと目が合ってしまう。
至近距離で光線を撃ち込まれれば全身が宝石になってしまうと知っているアミーは、手を握り締めた。
「駄目!!」
驚きで固まった想太の体は動かない。
縁もナイも間に合わない。リタの光りもグローツラングは見ないだろう。
「想太!!」
縁の手が伸びる。
グローツラングの目が輝く。
その瞬間――想太がいた位置に考姫が立っていた。
「ぁ……」
想太の口からは空気と共に文字が零れ、考姫は泣き出しそうな顔で笑っている。
カーバンクルを離した彼女の顔は複数の光弾の影となり、次に見えた時――少女は宝石と化していた。
想太の膝が崩れてしまう。
手を広げた形で宝石となった考姫は息なんてしない。
瞬きの間に正に骨の髄まで宝石となってしまった彼女は、もう人間でも戦士でもないのだ。
「
想太は喉が潰れそうなほど叫び、縁は地面を強く蹴る。
剣となったナイを振り上げた少年はしかし、グローツラングの目が輝くのを見て近づくことさえ許されない。
「返せよ、ふざけんなッ!!」
縁は強く叫び、グローツラングの長い尾が考姫を掴み上げる。
横向きに寝かされた状態で持ち上げられても微動だにしない考姫の姿は、本当に宝石になってしまったのだと強く感じさせる光景だ。
「考ッ、考姫!!」
何とか立ち上がって走り出す想太。
戦士の意識がカーバンクルから外れたことを感じたグローツラングは樹海の奥へと向かってしまう。
その早さに追いつけない想太はそれでも走り続けた。
奥歯を噛み締めた縁は、少年の前に走り出て立ち塞がる。
縁は想太を抱き締めて、暴れる少年を押さえつけた。
「離せ、離して!! 考が、考姫が!!」
「駄目だ、もう駄目なんだ」
「何言ってんだよ!! まだ考姫は生きて!!」
「心臓の音がしないんだ!!」
縁の決死の声に想太は体を震わせる。
頭の中で何度も縁の言葉を
聴覚を強化しても聞こえないと言うことはつまり、そういうこと。
唇を血が出るほど噛み締めた縁は、強く強く想太を抱き締めた。
考姫の能力は反転。
そこにあるものを彼女が反対であると思うものに変えてしまう。
白は黒に、毒は薬に、熱気は冷気に、怒りは悲しみに。
想太は――考姫に。
双子の弟は双子の姉に。
樹海の中に泣き声が
ディアス軍としての行いをすれば大切な片割れが奪われて、想太の心は今にも崩れてしまいそうだ。
縁の横でナイが泣き、ラウが泣き、リタが泣く。
縁は樹海の向こうにある空を見上げて、滲む視界を嫌悪した。
アミーは両手で顔を覆う。過ごした時間は短い考姫であったが、縁にとってはかけがえのない友人だったのに。
場所が悪かった。相手が悪かった。タイミングが悪かった。
「違う、悪いのは僕らだ」
アミーは呟き、考姫の担当兵の泣き声を聞いた気がした。
* * *
「おーい縁〜、授業終わったぞー」
「……ぅー……」
夕暮れの教室の中、机に突っ伏していた縁の頭を叩いて起こす千歳。
縁は呻きながら顔を上げ、赤くなった目元を擦っていた。
「爆睡か……って、どした?」
「……なんか、嫌な夢見た」
「夢かよ、心配させんな紛らわしい」
何とか絞り出した嘘を笑われ、縁も口角をぎこちなく上げる。夢であればいいだなんて願いながら。
「帰ろうぜ、今日バイト無いんだろ?」
「あー……いや、本返さねぇと」
縁は嘘を並べて鞄を肩にかける。
本を返すのは今日ではない。ただ一人になる時間が欲しいのだ。
千歳は縁を見つめると、笑って手を振っていた。
「分かった、また明日なー」
「あぁ、またな」
笑って手を振り返す縁。少年は教室に一人になり、遠くからは吹奏楽部の練習音が聞こえてきた。
誰もいない。
ここには誰もいない。
現状を飲み込んだ縁の目から涙が溢れてしまう。
出来たかもしれないことを考えて、耳の奥に残る想太の泣き声に体を縛られながら。
一人涙を流し続ける少年は机に腰掛け、顔を両手で覆う。
今にも叫びそうな自分を戒める為に唇を噛んだ少年は、暗くなる世界に取り残されたような虚無感を感じていた。
(いっそ、このまま……なんてな)
縁は実行しない考えを心の中で唱えるだけだ。
その時、突然教室の扉が開く。
反射的に顔を上げた縁の目に飛び込んできたのは――美丈夫。
鴉の濡れ羽色をした髪に少しだけつった目。背は百八十cm以上ありそうで、浮世離れした顔に縁は釘付けになった。
現れた生徒の名札の色は縁と違う。それは二年生の色だ。
どうして二年生が一年生の教室にいるのかは疑問なところだが、縁はそんなことを気に出来なかった。
「……悪い」
バツが悪そうに頬をかいた美丈夫に縁は慌てて涙を拭く。
縁は顔に笑みを浮かべて「いえいえ!」と元気を弾けさせた。
「ちょっと目にゴミが入っただけなんすよ! すみません驚かせて! ……って、何か用ですか? もう俺しか教室いないんすけど……」
「あー……いや、すれ違いだ。気にすんな」
縁にとって先輩の立場にいる生徒は微笑んで肩を竦める。それから腕時計を確認し「校門か……?」と呟いた。
縁は鞄の持ち手を両腕にかけて背負い、美丈夫の近くにかかっていた教室の鍵を取りに歩いた。
あまりの先輩の綺麗さに震えそうな自分を否める為に明るく振る舞いながら。
「誰か探してんすか?」
「まぁな。俺がちょっと遅れたから先に行ったかもしれねぇ」
「そうなんすね! あ、じゃあ教室の鍵閉めても……」
「いいぞ、悪いな」
「いえいえ、うちの担任うるさいんすよねー、戸締りちゃんとしとかねぇと明日ドヤされます」
身振り手振りをつけて話す縁を美丈夫は笑う。それに縁も胸を撫で下ろし、左胸では名札が揺れた。
一年生は先輩と共に教室を出て鍵を回す。
「いつもありがとな、松風」
「いえいえ〜……って、ん? いつもってなんすか?」
目を瞬かせながら首を傾げた縁。その夕焼け以上に赤くなった目元を見た美丈夫は、少し言葉を考えた。
「……いや、まぁ、ちょっとな」
「そうですか……?」
首を傾げた縁を見下ろす先輩。彼は暫し間を置いて、窓の外から差し込む夕焼けに二人は照らされた。
廊下が橙の海のように染められる。黒い二つの影は、まるで闇。
縁は微かに唾を飲む。そんな後輩の頭を先輩の大きな手は撫でた。突然のことに、縁の口角は上がったまま固まってしまう。
「ちょ、先輩、なん、な、で、」
縁の喉が震えて涙が零れ落ちる。二年生はそれに気づき、後輩の頭を撫でる手に少し力を入れた。
縁の顔が自然と下がり、少年は腕で必死に涙を拭う。
美丈夫は少し視線を上げて、静かな声で言っていた。
「……また、目にゴミが入ったみてぇだな」
「……っす」
何度も頷きながら縁は泣いてしまう。
タガトフルムで、アルフヘイムでしか会ったことのない子を思って。初めて出会った先輩の前で。
少年は自分が情けなく惨めで、それでも涙は止まらなかった。
「お前は俺を知らねぇだろ? でも俺は、お前を知ってたんだ」
二年生は呟いて、縁は顔を上げる。
整いすぎた顔に微かな哀愁を滲ませて笑う美丈夫。
縁はその美しさに固まり、直感で、目の前の彼が誰の何なのかを悟ってしまった。
「……氷華ちゃん、すか」
「……あぁ」
先輩は呟き、縁の喉から嫉妬が溢れ出しそうになる。
しかし少年は理性全てを総動員して感情を飲み込み、震える手を摩った。少年の顔は笑ってしまう。
美丈夫は目を伏せていた。
「アイツ、学校で話せる奴がそういなかったらしいんだけど、図書室でお前と話すの……楽しいんだってよ」
縁は息を呑む。それから肩を竦めて拳を握るのだ。
「俺もっす」
美丈夫は笑って、縁の頭から手を下ろす。
少年は涙を拭くと、改めて自己紹介をしていた。
「改めて、俺、一年の松風縁って言います。よろしくお願いします」
「俺は二年の
縁の頭を手の甲で小突き、
諦めたように目から涙は流れ続ける。
その口元には笑みが浮かんでいた。
「あー、くそー……格好いいなー……」
縁は目を伏せる。
少年はその場に崩れるようにしゃがみこみ、頭を下げて後頭部に腕を乗せた。
「……勝ちてぇけど……勝てねぇよ……畜生が」
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