第三章 盤上のしがらみ編

第101話 普通


 窓を濡らす雨粒を見る。空を覆っているのは黒と灰色が入り交じった厚い雲で、降ってくる白い線が視界を悪くしていた。


 今日の帰りのバス混むかな。嫌だな……時間ずらして帰ろう。


 六月後半の日。私は安定しない意識の中、休むことなく学校に来ていた。


 どう頑張っても休息が足りてないこの頃。それでも、休むことは二度と立ち上がれなくなる大罪に思えるのだ。


 翠ちゃんは学校を絶対休まない。怪我をしても疲れていてもそれを顔に出さないし、祈君だって「テストが……毎日……あの小テストまじ……」と呟きながらちゃんとタガトフルムで生活している。


 梵さんは大学の講義に実家とのやり取りと顔には出さないが忙しそうだし。帳君と雑談したら毎朝在庫管理のバイトをしてから学校に行っていると言うから驚くではないか。


 みんな頑張ってる。だから私も頑張らねばいけない。


 ここで立ち止まることをきっと誰も責めはしないが、私が私を許さない。


 目を伏せた私は、廊下に響く話し声と微かに聞こえる雨音を体感していた。


「おーい氷雨ちゃーん、どしたのー?」


 ふと廊下で立ち止まっていたことに気が付く。


 生物の教科書を振りながら声をかけてくれたのは小野宮さんで、その横で手を振ってくれているのは湯水さん。私は「すみません」と苦笑して小走りに彼女達に追いついた。


 今は昼休み。移動教室から帰る途中。小野宮さんの横に並んだ私は、頭を軽く湯水さんの教科書で叩かれた。


「ぼーっとしてるけど、なんか疲れてる? 氷雨ちゃん」


「んー……雨降ると、なんだかやる気も元気も削がれまして」


「分かる〜、髪もなんか上手くまとまんなくなるよね〜、晴れて欲しいもん」


「あんたの髪の事情なんか知らないわよ」


「栄酷い!」


 頭の上で繰り広げられる歯に衣着せぬ会話に苦笑する。


 ムオーデルさんのシュスから離れて二日経っている今日、私は――アルフヘイムで兄さん達に会うのだ。


 ムオーデルさん達のシュスから何とか脱出させてもらい、梵さんに心配をかけたことを謝罪した。いつも能面のようだった彼ではあるが、私達の為に泣いてくれて、戦ってくれて、笑ってくれたのだ。


 この三ヶ月ほど色々なことがあった訳だが、みんな一様に進んできた。


 グローツラングさんに立ち向かってくれた翠ちゃん。


 シュリーカーさんの為に泣いていた祈君。


 ガルムさんの洞窟で自分と向き合った帳君。


 ムオーデルさん達と戦って想いを見せてくれた梵さん。


 かく言う私もグウレイグさん、ブルベガーさんとの再会で振り返るのは悪いことではないと学んだこの期間。


 不意に浮かんだのは、口を結んだ時沼さんの姿。


 彼は昨日、いや今日か、取り敢えず夜明け前までいたアルフヘイムで言ってくれた。


 ――時雨さん達に会いに行こう。大丈夫だ、凩。何も心配ないから


 そう笑ってくれた時沼さんの笑顔は綺麗だった。人を落ち着かせてくれる微笑みだった。


 それなのに、どうして私の鳩尾はざわついたのか。


 私に兄さんからの返事は来てないし、なのに私がまともに話せるようになったら会うだなんて……。


 と言うかまともってなんだ、まともって。いや、もうそんなことを言ったっていけない。


 何かしなければ進まない。けど、ルアス軍である兄さんに会ってどうする。


 まず会って話をすることが許されるのか。いや、寝返ってはいないし祭壇だって守っているのだから殺されることは無い。ルアス軍との過度な接触をアミーさんは嫌うだろうが、私達は生贄探しに必要だと銘打ってルアス軍と対峙しようとしているのだ。


 あぁでも、それでは私は兄さんを殺そうと――


 考えて冷や汗が出た瞬間、ポケットの中に入れている携帯が振動した。


 不意に現実に戻されて、私は卵焼きを持っていた箸を一度置く。


 一緒にお弁当を食べている小野宮さんと湯水さんは部活動についての話に花が咲いており、私は静かに携帯を出した。


 メッセージが送られてる。ディスプレイに映っている名前は〈結目帳〉


 私は一瞬息を呑んで携帯を仕舞っておいた。視線を湯水さんに向けてみると視線が合ってしまう。


 反射的に笑えば、微笑みを返してもらえた。


「何か連絡?」


「はい、その、別の高校の方から」


「へー、中学校とかの友達?」


 小野宮さんが興味深そうに私に顔を向けてくれる。私は曖昧に首を傾げて隣に置かれたお弁当に視線を向けた。


「何の話?」


「翠ちゃん、おかえりなさい」


「おかえりー、呼び出し終わった?」


「えぇ、お断りしてきたわ」


「さっすが紫翠ちゃん! モテる女は違うねぇ〜」


「なずな、茶化さない」


 小野宮さんの頭に湯水さんの手刀が打ち込まれていたが、いつも通りなので笑っておく。


 翠ちゃんは少し遅れてお昼に合流された。彼女は椅子に座って「準備ありがと」と私を見てくれる。


 何故机を準備したのが私だと分かったのか謎だが「いえいえ」と首を軽く横に振っておいた。


 翠ちゃんが遅れた理由は二つ隣のクラスの男の子からの呼び出し。登校したら下駄箱に手紙が入れられていたのだとか。古風、可愛い、素敵だ。


 手紙を貰ったと翠ちゃんに教えられた時は、何だか信用されている感じがして嬉しかった。恥ずかしいので言いませんが。


「で、なんて言われたか聞いてもいい?」


「栄だって話聞こうとしてる〜」


「だって気になるもん。あ、でも言いたくなかったら大丈夫だよ、聞かないから」


 律儀に手を振って苦笑している湯水さんは、いつもとはまた違って、凄く汐らしく愛らしい。


 翠ちゃんは「良いわよ」と頷いて、私は少しだけ教室を見た。色々な所で色々な話題が盛り上がっており、私達の会話もこの一部になるんだろう。


 翠ちゃんは綺麗な無表情のまま、手を合わせてからお弁当箱の蓋を開けていた。


「一年生の頃から気になってたから、付き合って欲しいんだって」


「ほほぉ〜、テンプレですな!」


「こら」


 小野宮さんの額を弾く湯水さん。目を瞑って額を押さえた小野宮さんは停止しており、湯水さんは息をついていた。


「やっぱり紫翠ちゃんってそう言うの多いの?」


「別に。三ヶ月に一回位よ」


「それ結構な頻度だと思うんだけど」


「ここにゼロが二人もいますよ!」


 涼し気な顔で答えた翠ちゃんに、異を唱えるのは小野宮さんと肩を組まれた湯水さん。


 そうだよな、無いよ普通。私も無いもん。これは私もノリに乗ってもいいやつかな、楽しそうなのですが。


「プラス一で」


「え」


「え?」


「え、」


「ぇ?」


 話に混ざろうと手を少し上げると翠ちゃんから順に、湯水さん、小野宮さんに見られてしまった。何故だ。


「またまた~、あるでしょ? 氷雨ちゃん、白状しちゃいなさい」


「いや、ホントに無いんですけど……」


 何故嘘をついてしまわねばならんのか。ないものをあるとは言いませんよ。


 私の頭を疑問が満たし、小野宮さん達の頭上にも疑問符が飛んでいる気がした。


「え、マジ?」


「マジ、です」


 お箸で持ったままだった卵焼きをやっと口に入れる。今日は出汁巻き。ちょっと出汁入れ過ぎたかな。


 考えていれば、小野宮さんの「もしや」と言う悪戯っぽい笑顔が見えた。


「既に彼氏がいるとか」


「いやいや、いませんよ」


 そんな余裕はございません。誰が誰と付き合ったという会話はテレビを通した向こう側の話のようだ。もしくは額縁の向こうの絵画の中の世界。はたまた小説の向こうの非現実。そんなもんだ。


「意外、氷雨ちゃんは絶対モテると思うのに」


「えぇ……ぁ、ありがとうございます?」


 初めて言われたことに顔に熱が溜まってしまう。それを気にしないようにプチトマトを頬ばれば「可愛い〜」と小野宮さんの高い声が聞こえた。


 なんでこんなことになった。私はただ話に混ざってみたかっただけなのに。


「氷雨は可愛いわよ」


「翠ちゃんまで……」


 薄く笑いながらサンドイッチを齧っている翠ちゃん。私はどう答えたものかと頭を悩ませ、話が逸れるような内容を考えた。


 考えたところで私が思い浮かぶ話題なんて「動物何が好き?」とか「最近面白い本あった?」位だ。小学生でもまだマシな話題出せるわ。


 翠ちゃんを見上げながら話題変更を求める。


 もう余計なこと言いません。自重します。話に混ざろうとしてごめんなさい。きっと欠片ほどあった乙女心と言うやつが私の口を滑らせたんです。もう混ざりません。


 その念を翠ちゃんは素敵なアンテナで感じてくれたようで、私の心には安堵が広がった。


「そう言えば、さっき私が来た時は何の話題だったの?」


 おっとぉ……。


「あ、そうだそうだ。氷雨ちゃんなんかメッセージ貰ってんだよね、別の高校の子から。返事いいの?」


 湯水さんに確認され、私は視線を明後日の方に向けておく。


 相手が相手だ。そりゃ返信したいが、友達とご飯食べてる時に返すのは気が進まないと言うか。


 いや、もちろん帳君をないがしろにしたい訳でもないが、返信で「誰々?」なんて聞かれてみろよ。「アルフヘイムで会った友達です」なんて言えない。


 でもだったらなんて言うんだ。帳君とは県だって違うのに何処どこで会ったって言うんだよ。中学の同級生なんてのも無理あるぞ。いやいけるのか? どうなんだ、もう駄目だ分からん。


「いやー……あー、返信していいですか?」


「どぞどぞー、もー氷雨ちゃん律儀だなー」


 笑ってくれた小野宮さんに微笑み、携帯を出す。ごめんなさい帳君。


 今までは別に帳君の連絡先なんて知らなかった。昨日というか今日の夜中、アルフヘイムで梵さんが突如として言われたのだ。


 ――連絡先が、知り、たい


 タガトフルムでも連絡が取り合えたら嬉しいと思った為、私は梵さんに電話番号を教え、祈君、時沼さん、帳君とも交換した。


 翠ちゃんは既に知っていたから交換無しだが「別に何でもメッセージ送ってくれたらいいわよ」と言われて破顔した。幸せかよ。


 そしてタガトフルムに帰ってきて学校に行く間に、四人から〈よろしく〉と言う類のメッセージを貰って返信した。新しく連絡先が増えた場合はどう言ったタイミングで連絡をすればいいのか果てしなく悩んでしまう為、先に貰えたのは申し訳なさ半分、嬉しさ半分であった。


 そこから帳君とは少しだけメッセージが続いている。


 学校着いてからとかホームルーム前とか。今は昼休みにやってきた。内容はアルフヘイムでは考えられないほど日常的。いや、日常なんですけどね、確かに。


 バイトのこととか梅雨が嫌いだとか、授業が眠いとかそんな、普通。


 帳君とのメッセージ画面を見る。翠ちゃんが横目にこちらを見ていたのに気がついて、私は画面を見せてみた。翠ちゃんなら良いと思うのです。


 帳君の名前を読んだ彼女は眉間に皺を寄せていた。


「止めときなさい氷雨、そんな相手返信するだけ無駄よ」


「翠ちゃん……」


 帳君に対して恐ろしいほど冷たい翠ちゃん。彼はそこまで悪い人ではないのですが、出会った頃から二人はお互いに最小限しか関わらないんだよな。二人の間隔なので私は何も言えないのだが。


 肩を竦めて笑ってしまい、私は送られてきたメッセージを読んだ。


 〈雨結構強い。体育卓球になった〉


 現状報告。でも大体メッセージってそんなもんだもんな。両親としかほぼ連絡を取らない私にとって、こう言うやり取りはとても新鮮です。


 私は少し考えて、文字を打っていた。


 〈そちらも雨が降ってるんですね。卓球頑張ってください〉


 当たり障りないと思いたい。返信出来たことに安心したら直ぐに返事が来て、私はまた画面を見た。


 〈早蕨光と強制的にペアになる。あいつ容赦ない〉


 〈あぁ、早蕨さん……クラスご一緒なんですか?〉


 〈違うかな。体育合同の組にアイツがいる。今も目の前でご飯食べてる〉


 そう言えば学校同じなんだよな、この二人。と言うか、帳君が「ご飯」と表記するのは意外。可愛いかよ。


 だがそんなことは文字にだって起こす勇気がなくて返信に悩んでいると、帳君から追加のメッセージが来た。


 〈ごめん、早蕨の話題出した。そっちも今昼休み?〉


 私の脳裏に暗い谷底で対面した早蕨さんが蘇る。


 戦士として動く私達を否定した彼は、一体何を望んでいるのか。


 ――誰も悲しませないことが、誰かの為を思って生きることが正しさです


 黙ってくれよ、エゴイスト。


 あぁ、私も似たようなものか。


 決して私に触れてくれない母と、喋ってくれない父の為に笑っていたい。


 これでは早蕨さんを跳ねのけるなんて出来ないし、それでも受け入れることは出来ないのだ。


 ――貴方達は、ディアス軍は間違ってる。どうして自分の為に誰かを殺せるんですか! どうして他の道を探そうと思わないんですかッ……その間違いを正す為に、俺は来た


 ――そうすれば、貴方は死なずに済むものね


 きっと、傷つけてしまった。


 それでも私が勝てば結局彼は死ぬのだから、傷つけただの敵対しただの考えていてはキリがないし意味もない。


 早蕨さん、貴方はどうして他の道だなんて言ったんですか。


 チェスの駒が盤上から落ちたら、それはもう捨て駒と一緒なのに。


 思う私は帳君へ返信をした。


 〈大丈夫ですよ。はい、昼休みです。翠ちゃんと、あと友達二人とご飯食べてます〉


 当たり障りなく、日常を切り取った文字を送る。


 それでいい、普通と退屈は違うのだ。教室の中で時々拾う「退屈」という文言は贅沢だと最近思う私がいる。


 普通に家に帰って、普通に学校に通えて、もしくは普通にパソコンや携帯が使えて、また普通に運動が出来て絵が描けて、はたまた普通に何処かに所属が出来て、仕事が出来る。その普通は幸せというのだ。


 普通の定義はみな違っても。それは確かな幸せなのだ。


 無くしてしまってからでは遅い。それを「退屈で、平凡だ」と言ってしまえば、貴方はその足元に転がっている幸せを見落とした贅沢者だと私は言ってしまいたくなる。言わないけれど。


 何も別に私は自分を可哀想だと思っているわけでは無いし、退屈だと憂う誰かを嫌っている訳でも無い。ましてや羨ましいとかも思わない。


 戦士に選ばれようが私には帰る家があるし、仲間だって出来た。これは幸せなことで、戦士を憐れむことは大切な仲間と自分自身を憐れむことになる。


 絶対にそんなことはしたくない。それは何より酷い冒涜だ。


 人は色んな痛みを抱えている。その痛みは人ぞれぞれだし、理解だってきっと出来ない。相手と自分は違うのだから何で痛みを感じるか、どうやって傷つくかなんて同じ筈がない。誰かの一の痛みも、誰かにとっては十の痛みなのかもしれないのだから。


 その痛みを抱えても、みんな生きて笑うんだ。


 世界はそうやって出来ている。だから退屈だなんて言うなよ。平凡だなんて嘆くなよ。その抱えた痛みを持って息をしているだけで十分なんだからって、私は勝手に判断してしまう。


 あぁ、なんと傲慢な事だろう。


 ――春を祝って、夏を過ぎて、秋を感じて、冬を迎えて、それでまた、春を祝う。そんなもんで良いんだ。世界を救うとか、人を幸せにするとか、億万長者になるとか、そんな大それたことはしなくていいから……だから死なないで、氷雨ちゃん


 アミーさんを思い出す。きっと彼も私が知り得ない痛みを抱えて、苦悩して、だからあんなに優しくしてくれるのだと勝手な解釈をしながら。


「氷雨ちゃん? どうかしたの?」


 ぼんやりしていた意識を戻して、小野宮さんを見る。彼女はオレンジジュースのストローから口を離したところらしい。


 私は笑って首を横に振った。


「いいえ、ただ文字だけのやり取りというのは、とても難しいなって思っていただけなんです」


「あー、分かるなー、顔見えないと余計難しいよね」


 湯水さんは頷いてくれて「私電話とかも苦手、っていうか嫌い」と息をついていた。私はその言葉に何度も首を縦に振り、小野宮さんは「そんなもんか〜」とまたジュースを飲んでいた。


「なずなは好きだよね、メールのやり取りとかメッセージカード作るのとか」


「うん! だって面と向かってだったら恥ずかしくて言えないことも文字にすれば伝えられるし、何よりメッセージカードとか色々可愛く出来るしね! 色んな色使って、シールとか貼って!」


「あんたの文字って、あるだけで目に毒だもんね」


「酷くない!?」


 目の前で気の置けないやり取りをする二人が眩しくなる。


 この場所から、いつか私は消えてしまう日が来るのかな。


 そしたら翠ちゃんもいなくなってしまうわけで、そんなの嫌だと強く思うのに。時々、小野宮さんと湯水さんが二人で机を並べて笑い合う姿が浮かんでくるのだ。


 あぁ、死にたくない。


 でも、殺したくない。


 私に絆創膏を返してくれた時沼さん。


 自分の意思を強く貫こうとする早蕨さん。


 私と関わりたくないと言う目をしながら、それでもたった一人の兄。


 生贄は悪にすると決めていた。決めてここまでやってきた。なのに、どうしてここで知ってしまったんだろう。


 いいや、知らないままでいた方が私は絶望していたに違いない。知らないまま私が貪欲に勝利を目指し、勝ったところで兄が居なくなったことに気がつくだなんて。


 私はきっと耐えられない。


 だから知れてよかったのだと思え、氷雨。


 ちゃんと話そう。相手が何を思って話の場を作ろうとしているのか、知るべきだ。


 膝に置いていた携帯がメッセージの着信を知らせる。


 見ると、帳君ではない誰かが文字を打っているのだと分かる文面があった。


 〈凩さん、この前はごめん。俺も仲間のみんなも頭に血が上ってた。俺は君達を死なせたい訳ではないんだ。それは分かって欲しい。一緒に生きられる道を探したいだけなんだ。ルアス軍も、ディアス軍も、誰もが生きて歩める道。それを探して今も進んでる。また話をしよう。早蕨光〉


 私はそれを読んで、少し考えて翠ちゃんの制服の裾を机の下で引く。彼女は気づいてくれて、私は翠ちゃんの方にメッセージの画面を見せていた。


 彼女はそれを静かに読んで、息をついている。


 それから小さな声で言っていた。


「命がかかってるのに、その選択を六十六人の戦士全員が出来ると思っているのかしら」


 私は何も返せない。返せないままメッセージ画面には帳君の文字が送られてきていた。


 〈理想的博愛主義者は黙らせといた〉


 そう、早蕨さんの言葉は理想。いつもそう。まるで小説の主人公のように、彼はハッピーエンドを目指してる。


 私だって目指せるものなら目指していたい。


 それでも、その方法が分からないんだ。


 だから話をすべきなのかな。


 思う中で雨は降りしきり、時計は進む。


「モデルの海堂かいどう麟之介りんのすけ君、休業するんだって〜」


「えー、まじ? どしたんだろうね?」


「なんか学業とか私生活に少し集中したいんだって」


 そんな言葉を不意に耳にする。もう一人理想を抱いていた人がいたと、私は静かに思い出していた。

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