第二章 剥奪する努力家編
第47話 会遇
闇雲君がチームメイトになってくれて数日。目指したシュスにやっぱり悪と呼ばれる人はおらず、私達は穏やかな住人さん達に肩を竦める毎日を送っていた。
複数のシュスを訪れたがそこに私達が思う悪はなかったし、誰も彼もが平和だった。
よく分からない粘液を吐き出して攻撃してくるヨーウィーさんや、私達の上にだけ土砂降りの雨を降らせるイピリアさん達には困ったけれど。
結目さんの御機嫌は斜めになるし、そのせいで空から落とされかける闇雲君や私は肝が冷える日々である。
「ふざけんなよッ!!」
「はー、うっさいなぁ」
……どうやら闇雲君と結目さんも仲がイマイチらしい。
私は胃を痛めつつ静かに息をついてしまった。
結局その日も次のシュスは決められないまま強制帰還させられる。怒涛の勢いで生贄を集めてしまった数日前が遠く感じた。
タガトフルムでは、ゴールデンウィークにかこつけて用事がない昼間は寝て過ごし、夜元気に活動すると言う半昼夜逆転生活を営んでいた。
勿論朝食準備は忘れないし家にいるので家事はします。宿題もして、全部終了した後に寝るのです。
そうでなくては罪悪感と言うか、しなければいけないという責任感に押し潰されて眠れない。両親が頑張って仕事をしているのに何もしないでいるなんて、私が私を許せないのだ。
食欲より睡眠欲を優先した為お昼を食べなかったことが多々あったが、そこは無視した。
そんな休養中の私は今日、濃い青色のエプロンをつけてアルバイトをしていた。
図書館の書棚整理等の仕事は一人で黙々と出来るので好きだ。りず君達はリュックサックに入ってロッカー内で熟睡中。私も仕事終わったらまた寝よう。
考えながら歴史のコーナーに来て本を戻す。最近武器関係の本を漁りまくったのでお世話になったコーナーだ。
本を棚に戻しつつ、目は他の本に向かう。次はどれを借りようかな。
その時ふと毎日聞く声を耳にした気がして、私は作業する手を止めた。
奥の、宗教の棚の方。
気のせいかもしれないけど、それでもあの声は聞いたことがある気がするから。
「――楠さん?」
口の中で呟いて、私は本を抱え直す。それから自分の作業時間を確認して本棚を離れた。
震えているような声が聞こえた気がしたから。
それが楠さんの声である気がしたから。
聞き間違いかもしれない。本当はいないかもしれない。でも別にいなかったらいなかったで不安は消える訳で、私は気の所為だと自分を笑って仕事に戻れる。
しかし、もし楠さんが居るのであれば無視出来ない。彼女は図書館の中で騒ぐような人ではないと思うし、人違いであったとしてもあれは会話による声ではない。
ゴールデンウィークの図書館は利用される方がそこそこ多い。勿論私語厳禁という訳でもないのでスタッフや司書さんと話している利用者の方はいる。
それでもあの声は、そう言う声とは違う気がした。
私は奥まった棚の間を覗いて、楠さんともう一人、男の人が話しているのを視界に入れた。
目が合う。揺れた茶色い瞳と。
いつも揺らぐことなく前だけ見る楠さんの目が、揺れたと分かり。
男の人に掴まれた手首は拒絶するように動いたわけで。
――何してる
私の体は、考える前に体が動いていた。
「ぁの、」
足が二人に向かって動き、手を楠さんと男の人の間に入れる。
男の人は見た事ない方で直ぐに楠さんの手首を離してくれた。
楠さんは腕を引いて私は男の人を見上げる。背は楠さんより高い。けど抜きん出て高い訳でもなく、威圧感と呼べるものは無い。
彼は柔和な笑顔でそこにいた。
それでもその目は、とても怖い。
無機質な結目さんや無感動な細流さんとは違う。揺れ動く闇雲君とも、活発で真っ直ぐな小野宮さんや早蕨さんとも、これは違う。
それでも見た事あるこの目。
私は――ウトゥックの九番目の王様を思い出した。
楠さんを欲していたあの人の目を。
「こんにちは、楠さん」
私は振り向きながら笑う。そうすれば楠さんは「……こんにちは」と挨拶を返してくれた。
「……何か、ご入用ですか?」
確認する。
私がここに割って入ったのは正しかったのか。必要なかったことではないか。邪魔だったのではないか。
溢れ出る後悔は私の指先を微かに震えさせる。
楠さんはゆっくり瞬きして、私を見てくれた。
「……本を探したいの、一緒に探してくれるかしら?」
楠さんが私の手を握ってくれる。私は呼吸を許された気がした。
「はい、勿論」
それから男の人を見上げる。彼は私に微笑むと、柔らかな声で言ってくれた。
「ごめん、騒がしかったかな?」
「ぁ、いえ……すみません、そんなことはないんです」
会釈すれば、楠さんが私の手を引いて歩き出してしまう。私は何回か男の人に頭を下げて楠さんに着いて行った。
彼女は館内の真反対の位置にある本棚まで来ると手を離し、ため息を吐いた。
「……ここの図書館だったのね」
「はい……」
そう言葉を交わしたっきり、楠さんは黙ってしまう。
腕時計を見ると私の残り作業時間は二十三分。残業はしないようにと言われている為、取り敢えず抱えている本は所定の場所に戻さねばならない。
それでもこのまま楠さんと別れてしまうのは心配なわけだ。
どう見ても先程の人と仲が良いという雰囲気ではなかった。
楠さんは今すぐ何かを話そうという空気ではなくて、だから私も深くは追求しない。
嫌な予感はするけれど、それを本人が話したくないなら聞くべきではない。この空間をどうしたらいいのかも分からないけど、分からないから……どうしよう。
笑った私は、視線を床に向ける楠さんを見た。
「……本、探しましょうか?」
楠さんの視線が上がる。彼女は首を横に振った。
「いいわ、大丈夫……ごめんなさい、仕事の邪魔をしたわ」
そんな風に言われるから、私は微笑みながら首を傾げるんです。
一体いつ、あなたが邪魔をしたのかと。
「そんなことないですよ」
伝えたのに、楠さんの顔はどこか浮かないままで余計心配になる。
その時彼女は私の後ろを見て、目を細めていた。
「紫翠、本は見つかった?」
あの声だ。
優しすぎて、吐きそうになる声。
私は努めて普通に振り返り、先程の彼を見た。
名前も知らないその人は、楠さんだけを見ているとすぐに分かる。
というか気づけよ。どう考えてもさっきのはその場しのぎの嘘だろと。こんな短時間で見つけられるなら、聡明な彼女は元より私なんか頼らないと察しろよ。その目は節穴なのかしら。
貴方と一緒にいたくないと、彼女はこんなにも伝えているではないか。
私は、近づいてくる彼と楠さんの間に入って笑い続けた。彼も穏やかに笑ってくれる。
「まだ見つからないんです」
「そっか、手伝うよ。どの本?」
あぁ、やめろよ鬱陶しい。
彼の検討が着いてくる。彼が楠さんにとっての何なのか。
主導権を握ろうとする喋り方に、大きな手。口には出さなくても、楠さんは貴方といることを嫌がっている。
もし風の噂が本当ならば、貴方は楠さんに近づくべきではないと私は思う。
声が震えないように意識して、私は努めて笑みを張り付けた。
目の前のこの人は、カウリオさんやウトゥックさん達に比べれば微々たる恐怖しか与えてこない。
強くあれ、凩氷雨。笑顔でいれば、それは強い盾になるのだから。
「大丈夫です。恐らく貸出中なので、確認後、予約処理をしないといけないと思うんです。楠さんにはお時間いただくようお伝えしています」
「そっか、どれくらい時間がかかる? 俺と紫翠はこの後デートなんだけど」
その単語を聞いて楠さんの手が握り締められたのが分かった。
あぁ――嘘だ。
分かるし、確信が持てる。
このひと月と少しで、私は他者をよく観察出来るようになったから。不安は噛み潰して捨てておけ。
今、私がここにいるのは正しいことかは分からない。デートに行かないにしても私はとんだお邪魔虫なのかもしれない。
そんな不安はあるけれど、震えた女の子を置いて離れるなんて胃に穴が開くんだよ。
嘘は好きではない。
それでも、誰かを守りたいと思う嘘を、私は悪いとは思わない。
「デートですか? この後、楠さんと私は買い物に行こうって約束を前からしていたんですけど」
真っ赤な嘘を並べて楠さんを振り返る。
男の人が舌打ちするのが聞こえたが気にするな。腕に立った鳥肌は気付かないふりをすればいい。
楠さんは目を丸くして、私を見てくれた。
「そうね。ごめんなさい、行きましょう、買い物。デートなんて約束してないもの」
その肯定だけで、貴方の気持ちが分かった気がする。
ここを離れなかったことも嘘をついたことも、許されたと錯覚した。
だから背筋を伸ばしたまま、男の人に向き直ることが出来るのだ。
「紫翠」
男の人が楠さんを呼ぶ。
楠さんよりも背が低い私では間にいるのも障害ではないと言うのか。元よりこうやって障害になろうとしているのはいいことなのか。
そんな不安が湧き出たが、良い悪いを見るべきではないだろ氷雨。
お前が見るのは、楠さんの震えた手だけで十分だ。
「もう帰って」
男の人は楠さんの声により、伸ばそうとしていた手を引っ込める。
彼は柔和に微笑むと「また連絡する」と残して去ってしまった。
私は息を吐いて嫌な汗を拭っておく。楠さんは細く息を吐いて、私の肩を後ろから持っていた。
振り返ることが出来なくなり、私は彼女の震えた手を視界に入れる。
「……ごめんなさい」
あぁ、なんで。
私は彼女が何に謝罪したのかを理解出来ないまま笑うんだ。
「買い物、行きましょうか」
* * *
バイトを無事に終えてひぃちゃん達の入った鞄を背負った私は、駐輪場へと向かった。
本は何とか戻せたし、やり忘れた仕事もない。大丈夫だと自分に念じて歩く足を止めはしない。
楠さんは図書館近くのカフェに入ってると言ってくれてたから、そこを目指してさぁ進め。
思い出すのは異様な雰囲気だった楠さんと男の人。二人の関係を予想出来るが、確信は無いので後味が悪い。
入口近くにいたスタッフさんに彼の特徴を言って帰ったかどうか確認させてもらうと、確かに帰って行ったのを見たと答えてくれた。
――なんだか怒ってたみたいだけど、凩さん、大丈夫?
そう司書さんには心配されたが、私は苦笑して「大丈夫です」と頭を下げたのだ。
鞄から自転車の鍵を出しながら館を出ると、四月以上の温かな空気が肌を撫でた。
吹き抜けるような青空を見上げて目を細めると、何か硬いものが落ちる音を聞く。
驚いて音のした駐輪場の方を向く。
そこにはグレーのロングパーカーのフードを被った人がいて、浮かんだのは闇雲君だった。
だが彼がここにいる訳ない。住んでる県が違うし遠目に見ても身長が違う。
フードの人は一眼レフのカメラを落としたようで、酷い慌てようだ。
え、大丈夫かな。カメラって高いって聞くのに。
私の足は小走りにそちらに向かい、転がっていたレンズキャップを拾い上げた。
「大丈夫ですか?」
無意識に笑った顔で声をかける。体躯から見て細身の男の人のようで、袖から覗く指先は細く綺麗だった。
彼の顔が上がるけど、フードの影で顔が見えない。深いフードは目元を隠して、片手は震えながらレンズキャップに伸びていた。
私の手からキャップが離れる。彼はカメラを大切そうに抱え上げて、私に深く頭を下げてきた。
え、あ、そんな。
私も慌てて頭を下げ、彼は走り去ってしまう。図書館の角を曲がって見えなくなったグレーの上着は、嫌に視界に焼き付いた。
浮かんだ疑問は、何を撮っていたのだろうと言うこと。市立図書館の周りなんて道路か建物かしかないのに。
いや、バス停が近くにあるから、何処かに撮影に行くのに通ってただけかな。ショートカット的な。
気にしても解決しない疑問に頭を振り、私は駐輪場に向かう。鍵を回してロックを外し、いざカフェへ。
と言っても、私に出来ることがあるかは自信が無いが。
漕ぎだした自転車は直ぐに私を目的地まで運んでくれて、停めればリュックサックが揺れた。
「帰らねぇのか?」
りず君のこもった声がする。私は少しだけファスナーを開けて「ちょっとね」とだけ言ってみた。
りず君にらず君、ひぃちゃんは顔を見合わせて頷いて、また寝る体勢へと入っていく。
私は苦笑してお店の中へと向かった。
お店はモダンな内装で女性のお客さんが多いという印象。
「一名様ですか?」
「ぁ、待ち合わせ、です」
笑顔が眩しい定員さんに何とか返事を絞り出す。
奥の席で楠さんが私を見ていることに気がつく。
何度か定員さんに頭を下げてから席に向かうと、楠さんは何も注文しないまま待っていたようだった。申し訳ない。
「すみません、お待たせしました」
「大丈夫よ、待ってないから。気にしないで」
椅子に腰掛けながら謝罪すると、楠さんは首を横に振ってくれた。それからメニューを開き「何食べる?」と聞いてくれる。
見せられたメニューには五月のスイーツと称し、サクランボを使ったお菓子が色々と載っていた。
「サクランボのタルト、食べます」
「飲み物は?」
「珈琲のブラックで」
「そ、」
一目見て決めた写真を指し楠さんにメニューを向けようとする。しかし彼女はメニューを一瞥して呼び出しボタンを押していた。
楠さんは店員さんが来ると、メニューを見せながら注文をしてくれる。
「サクランボのタルトとパウンドケーキを一つずつ。あとブラック珈琲を二つ、お願いします」
店員さんは笑って頷き離れていく。楠さんはメニューを仕舞ってくれて、私は「ぁ、ありがとうございます」と会釈した。
それから注文した物が来るまで会話は無く、お互いに机の端を見つめてしまう。
……え、何喋ろう。と言うか何か喋った方がいいのかこの状況。
お店の中にあの男の人はいなかった。楠さんの棘のある雰囲気も無くなってる。
あれ、私が変な約束してしまったからこういう状況が生まれてしまったのではなかろうか。
私が若干後悔し始めると楠さんの携帯が鳴り、それを彼女は切っていた。……ため息が深いですね。
目が合った楠さんはバツが悪そうに眉を
「お待たせしました」
そんな定員さんの業務的な言葉にどれほど救われたか。
私は頭を下げて目の前に並べられた珈琲とタルトに視線を向ける。湯気立つ黒々とした珈琲に、切られたサクランボが綺麗に並べられた三角形のタルト。
楠さんの前には同じように温かそうな珈琲と、サクランボが生地に練り込まれたパウンドケーキが二切れ並んでいた。
二人揃って「いただきます」と口に出してフォークを持つ。
切り取って口に運んだタルトは、サクランボの甘酸っぱさとムースの控えめな甘さ、程よい固さの生地とが相まって、思わず「美味しい」と口にしてしまう味だった。
少し甘くなった口の中に珈琲を含めば仄かな苦味が広がって、またタルトを食べたくなるという素敵な循環。
駄目だ美味しい。
頬がついつい緩みながら食べていると、楠さんに言われてしまった。
「美味しそうに食べるわね」
「……ん」
言われて、自分の口の中のタルト生地を早急に
珈琲を啜りながら見つめてくる楠さんに気づいたらもう駄目だ。顔に血が集まるのが感じられて、私は何とか口の中のものを飲み込んだ。
「す、すみません」
「あら、良いじゃない。見ていて飽きないわ」
「お恥ずかしい……」
頬を手の甲で押さえて苦笑する。
楠さんは肩を竦めてパウンドケーキを口に運んでいた。
お昼をご一緒する時も思っていたが、食べ方が綺麗な人だな。
胃が締められるような恥ずかしさを覚えながら珈琲のカップを両手で持つ。口に少し含んで飲み込むと一口目よりも苦い気がして、意味もなく
「聞かないのね」
楠さんの声がする。
前を向くと、私を見つめる茶色い瞳があった。
「アイツのこと」
アイツ。
私の中に本棚の横に立つ男の人が浮かんだ。
聞く……というか、なんと言うか。
私は苦笑したまま首を微かに傾けた。
「私が踏み込んでいいのは、ここまでだと思うので」
楠さんの手を引いて彼との距離を取らせた。それだけだ。
私は私の目の前で起こっていた何かを止めるだけで精一杯で、その深い所に入り込むには――他人過ぎる。
楠さんは私を食い入るように見つめてきて、肩を竦めてくれた。
「間に入った時とは、まるで別人ね」
「ぁ、ゃ、その、すみません。あの時は何も考えてなかったというか、その、楠さんが困ってるように私には見えて、心配になってしまって……他人の私が口出してよかったのか、今でも正直不安です」
「大丈夫よ、貴方の行動は私を助けてくれたわ」
その答えを聞いて、彼女が困っていたのは間違いではなかったのだと、安心と不安が混ぜ合わさった感情が出来上がる。
楠さんはケーキを切り分けて、静かに瞼を伏せていた。
「気づいてくれて、ありがとう」
その言葉に、救われる。
私は自分が目を丸くしたと分かり、自然と顔から力が抜けた。
「誰でもない、楠さんの声が聞こえたので」
伝えて、目を伏せる。
他の誰かの声ではなくて、いつも凛とした貴方の声だったから気づけたのだ。
その凛々しい声が微かに震えていると思ったから、心配になったのだ。
そんな言葉を飲み込で微笑んでみる。
楠さんは目を瞬かせると、カップに視線を落としていた。
「……憧れてくれてるそうね」
「……え、」
「ひぃから聞いたわ」
声が裏返りそうになって、それを飲み込みリュックサックを撫でる。
ひぃちゃん、一体いつ何処で楠さんにそんなことを言ったのですか。
私は努めて冷静に口を開けようとして、本日何度目かの「すみません」は震えていた。
「怒っている訳ではないの」
楠さんは穏やかに言ってくれる。しかし私の肩の力は抜けないのです。ごめんなさい。
フォークがお皿に当たって、高い音を響かせた。
「ただ、止めた方がいいと思ったのよ。私に憧れるだなんて」
「……そ、です、よね」
憧れていることを否定はしない。
何かを白か黒かで決めて、灰色に濁すことはしない彼女の性格が眩しくて。伸ばされた背筋や凛々しい声が、私には無いものだから見つめていた。
そんなことを勝手にされて気持ち悪いにも程があるだろう。
分かっていた。そんなこと。それでも無意識に、同じ戦士である筈なのに疲れも何も見せない彼女を目標にした。
強くありたくて、私の最も身近な強い姿が彼女だったから。
あぁ、穴があったら入って埋まりたい。
「変なことを考えてるわね」
指摘されて、俯きかけていた顔が上がる。
楠さんは仕方が無さそうに言っていた。
「凩さんのことだから、心配しなくていいことを自分の中で作り上げて心配したんでしょ。まだ長い付き合いではないけど、それくらいなら読み取れるわよ」
「え、あ、お、そんな顔に出てますか」
驚いて髪を強く引く。楠さんは「とっても」と教えてくれて、私の顔にはまた血が集まった。熱い……。
「損な性格ね」
「ぅ……承知しております」
「それでも、だからこそ貴方らしいとも言えるのだけれど」
楠さんは言ってくれる。私は自分の髪から手を離して、微かに震えた両手を擦り合わせた。
「私が言いたいのは、私自身、憧れて貰えるような人間ではないってことよ」
「……ほぉ」
よく、分からない。
私から見た楠さんは輝いているのに、私なんかよりも先を歩く素敵な方なのに、彼女は自分を否定する。
楠さんの綺麗な茶色い瞳は再び鳴った携帯に向けられて、電源が切られたようだった。彼女は携帯を鞄に仕舞っている。
「これは私が選択した行動の代償よ」
私の手がタルトを切る。
目の前の楠さんはどこか儚くて、その声は穏やか過ぎるものだった。
「……悪い子になりたかったの」
楠さんのフォークがパウンドケーキを突き抜けて、お皿に当たる音がする。
彼女はフォークを抜いて出来た穴を見つめていた。
「……食べたら買い物、行きましょうか」
誘ってくれる。
だから私は微笑んで頷くのだ。
タルトの固い生地をフォークで切って。
サクランボが、上から崩れてお皿に落ちた。
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