第37話 多面

 

 凩氷雨とりずがドヴェルグ・シュス・エルフから去る様子を、楠紫翠は見つめていた。


 肩を少し過ぎた黒髪を風に揺らして遠のく少女は、紫翠にとってある種の観察対象だ。


 凩氷雨。


 紫翠と同じ高校の同級生、兼クラスメイト。


 只それだけの関係であった二人は不思議なことに、同じクラスになる前から互いへの認知が成立していた。


 氷雨が紫翠を知っていたのは風の噂で。成績優秀、羞月閉花しゅうげつへいか、スポーツ万能。正に才色兼備の「楠紫翠」の噂を耳にしていた氷雨は、凛々しく真っ直ぐ、前だけ見つめるクラスメイトの背中に淡い憧れを抱いていた。


 紫翠が氷雨を知っていたのも風の噂で。学力優秀、純情可憐。運動面も学力面も特にこれと言って悪い面がなく人当たりも良い。生徒の間でも教師の間でも「優等生」で通っているのが氷雨だ。


 紫翠もクラスの、特に男子の間で出てきていた「凩さん」と言う名前を記憶しており、一年生の時も何度かすれ違って顔を覚えていた。


  ――いつも笑顔の凩さん


 そんな渾名あだなを紫翠が聞いたのは、一年の二学期になってだった。


 いつも笑顔で頼めば相談に乗り、お願い事は断らないと言う意味を含んだ呼び方。


 最初に言ったのは誰だったのか。


 悪意がある訳ではなくとも、その呼び方には不快感を覚えたと紫翠は記憶している。


 ふと、氷雨が体育館裏に来た日が蘇り、紫翠は自分を嫌悪した。ウトゥクに捕まり心身ともに疲弊していたとは言え「いつも笑顔の凩さん」と本人に聞かせるのは、嫌味以外の何ものでもないからだ。


 あの時の氷雨の顔を紫翠は見ることが出来なかった。いや、見ようとも思っていなかった。


 戦士もアルフヘイムも知らない幸せ者だと、氷雨のことを思っていたのだ。


 だが彼女はここにいた。


 凩氷雨は全力で、全霊で、楠紫翠を抱き締めた。


 幸せ者だと決めつけていた同級生と、今では命をかけた競争を共に進む言う不思議な因果。助けられたと言う事実。


 紫翠は、氷雨の背中が見えなくなったことを確認してきびすを返す。様々な異種が作り出す波は進行を妨げ、小柄な氷雨には苦境だと思いながら。


 紫翠の肩に行儀よく乗ったひぃは周囲を観察し、住人達がディアス軍に多少なりとも関心を寄せていると察していた。紫翠もそれは感じており、分かっていないのは脳筋こと、細流梵だけだろう。


 背が高く、整った体躯をしている梵はいつも何処か抜けている。口から出てくる言葉はつたなく機械的で、表情も帳が表するような「鉄仮面」


 喋っている途中も意識は別の場所にあるような感覚を相手に与え、感情の起伏が全く読めない。梵の態度や言葉を深く気にする者など、行動を共にしている者の中にはいないわけだが。


 細流梵はそう言う人。


 それが紫翠だけでなく、氷雨も帳も思っている事だ。


 紫翠は隣を歩く梵を一瞥し、彼が色々な住人にぶつかっては謝罪している様に息をついた。


 ドヴェルグ・シュス・エルフには様々な種族の住人が足を運ぶ。その為〈シュス内での戦闘、喧嘩は禁止〉と言う立て札が各所に設けられており、それを住人達は律儀に守っていた。守らなければ求める武器を手に入れられない為、当たり前と言えば当たり前なのであるが。


 ディアス軍の戦士もここでは生贄が捕まえにくそうだと、紫翠はどこか他人事のように考える。彼女の目は近くの店先へ向かく。


 遠距離用武器を扱うシュスだけのことはあり、並ぶ武器名は多様を極めていた。武器にそこまで詳しくない紫翠と、元来武器を持つという思考が無い梵はどの店に寄るべきかで悩みを生じさせてしまう。


 タガトフルムとアルフヘイムでは武器も変わってくる為、どれを選べばいいかで迷うのは仕方がないことだ。


「紫翠さんは、どう言った武器を考えておられるのですか?」


 聞いたのは、従順に紫翠の肩に留まっているひぃだ。


 紫翠は「そうね」と呟きながら住人をかわし、一つの店先で足を止める。


 そこに並んでいたのは多種多様なボウガン。正確に言えばボウガンだと思われる武器であり、中には紫翠や梵が思い描くボウガンとはどこか違う武器も含まれていた。


 細かいことまで気にし始めては武器など選べないと考える二人は、もはや武器の名前などどうでも良くなっている。


「ボウガンや弓は無いわね。矢に限度があるし、構えまでの動作や打ち方を習得する時間が惜しい」


 それを店先で言うのが紫翠だ。


 彼女に悪気というものは無い。思ったことを思ったままに言うのが彼女の性分であり、自分を曲げて偽る行為を嫌悪しているからこそ、氷雨は憧れるのだ。ひぃはそれを感じて頷いてみせる。


「成程。では、自分の元に戻ってくるブーメランや、その場で攻撃材料を入手出来る投石器などを?」


 紫翠は止めていた足を動かしながら「ブーメラン……」と呟く。店の前にいた数人の客が、唖然とした様子で紫翠を見ているとひぃは気がつき、会釈だけしておいた。


「あれは軌道を決めるのは難しくないかしら? 投石器は持ち運びが不便そう」


「では、持ち運びがしやすく、使う為の技術習得がしやすく、使える制限が少ないものをお探しなんですね」


「そうなるわね」


 我ながら我儘だ、と紫翠は思う。それでもひぃは嫌な顔一つせず言葉も丁寧なまま微笑み、正しく紫翠が知る「凩氷雨」のような雰囲気をかもし出していた。


 ひぃは自分の知識の中にある武器を色々と思い浮かべ、梵はそんなドラゴンを見下ろしている。


「ひぃは、詳しい、のか? 武器に」


「詳しい詳しくないで言えば、詳しい部類に入るやもしれません。私がというよりは、氷雨さんが詳しいと言う方が正しいのでしょうが」


「氷雨が、か」


 梵は首を傾げ、武器を背負ったデックアールヴとぶつかり謝罪する。そうやって足を止める間にまた別の者とぶつかりそうになる彼に紫翠は呆れ、梵の腕を引いて歩かせた。梵は目をゆっくり瞬かせ、ひぃは穏やかに微笑んでいる。


「前を向いていなさい」


「あぁ、分かった」


 抑揚のない音声が聞こえる。教科書を朗読でもしているのかと思うほど言葉に意思が乗らない梵を、紫翠は気にしなかった。気にする程のことでもないからだ。


 梵はぼんやりと紫翠からひぃへ視線を動かし、見られたドラゴンは会話を再開させた。


「氷雨さんがりずを変形させる上で必要になってくるのが、その物に対する知識です。どんな形か、大きさは、重量は、何の用途で使える物か。氷雨さんが知れば知るほど、りずが変身できる物の種類は増えていきます。だから氷雨さんは武器の知識を詰め込んだんです。それが結果として武器に詳しくなることになり、一緒に学んだ私やりず、らずも武器に関してならばある程度の知識を身に付けました」


「なる、ほど」


「氷雨さんの心配性が成し得る、努力の賜物たまものというやつですね」


 梵は頷き、ひぃはどこか誇らしげに笑う。紫翠はブーメランであろう武器が置かれた店先で足を止めた。


「心配性、ね。彼女は一体、何をそんなに心配しているのかしら?」


 紫翠が思い浮かべる氷雨の態度は、いつも自信が無さそうで、笑っているのに不安で堪らないと言う空気を纏ったものだ。


 気づけば笑顔でそこにいて、口にする提案はディアス軍であることを十分に考慮したもの。紫翠や梵に対する優しさは温かく、本当に、人として好感が持てる彼女の欠点と言えばそこだ。


 おかしなほどの、心配性。


 嫌なほど板に着いた低姿勢で、口にはしないが自分を卑下ひげし、他人の考えが及ばぬところまで心配して不安がるあの性格。


 紫翠にはそれが疑問だった。何故、あれほど能力がある彼女は自分を信じないのか。何をそんなに恐れて心配するのか。


 紫翠は刃のような鋭さを持つブーメランを手に取り、代金は〈貴方が最も守りたいものを教えること〉という文面に眉根を寄せた。


 ひぃは紫翠の質問に対して微かに目を伏せ、真意に答えてみせる。


「武器に対する探究心だけでお答えするならば、氷雨さんは、知らないことを心配しているんです」


「知らないこと?」


「はい。言うなれば、知らなかったことによる最悪の状況。それを氷雨さんは恐れて、心配して、その種を潰しておきたいんです」


 ひぃは首を傾げ続ける梵に気づく。「例えば」とドラゴンは尾を上げて苦笑した。


「自分がとても敵わない相手の前で、本当は有用な武器があるにも関わらず、その武器を知らないが為にりずを変身させられず、結果的に追い詰められる状況。起こり得るかは分かりませんが、起こらないとも断定出来ないマイナスの可能性を氷雨さんは心配して、心配しなくていいように解決策を持っておきたい方なんです」


 紫翠はその言葉を聞き、良く言って用意周到、悪く言えば神経質な性格だと目を細める。


 起こってもいない可能性を心配するなんて、余りにも不毛だとも思うから。


 だが氷雨の心配性によって習得された武器や防具は確かに力を発揮し、小柄な少女を支える強さとなっていることも知っていた。


「不毛で、不器用ね」


 呟いた紫翠は歩き出す。ひぃは「そうですね」と答え、やはり怒ることなどしなかった。


「だから氷雨さんは、紫翠さんに憧れてしまうんです」


 紫翠の足が止まる。ひぃは首を傾げ、梵も「紫翠?」と少女を呼んだ。それでも彼女の足は動くことをせず、住人達は止まった彼女を避けて動く。


 空には黒雲が流れ始め、ドヴェルグ達は雨が降り始める前に対処を始めた。店先の物を仕舞い、注文をしてくる住人は屋根がある所へ誘導する。出来上がっている武器はデックアールヴに渡し、ドヴェルグの亜種である彼らはシュスから走り去っていく。


 紫翠はそんな動きを視界に入れつつ、目を伏せた。


 彼女の脳裏には、八十三点の答案用紙を持って溌剌はつらつと笑う妹の姿が浮かぶ。それにつられて笑う両親と、百点の答案用紙を握り潰した自分。そんな紫翠を後ろから優しく抱き締めたのは、彼女の中学時代の先輩だった。


 白い線が紫翠の足先に落ちる。それは徐々に量を増やし、彼女の肌や服にも水滴が当たった。


「紫翠」


 水滴が直ぐに当たらなくなる。


 見ると、梵が上着の裾を広げて紫翠とひぃを覆い「雨宿り、しよう」と諭していた。


 頷く紫翠はすぐ近くの軒下に入る。雨は段々と強くなり、通行人は消えていく。ひぃは、真っ直ぐ前を見る紫翠を心配そうに覗き込んだ。


「紫翠さん、すみません、何か気に障ることを言ってしまいましたか?」


「いいえ、違うわ。ただ私に憧れるだなんて、やめた方がいいと思っただけよ」


 紫翠はひぃの頭を撫でる。ドラゴンは心配そうに赤紫色の瞳を揺らし、その表情は氷雨と何処となく似ていた。梵は上着の水気を払い、紫翠はお礼を口にする。


「ありがとう、助かったわ」


「それなら、良かった」


 片言に、何処を見ているのか分からない目で梵は頷く。


 彼はふとその店の商品を見て「手裏剣」と言葉を零した。紫翠とひぃも振り向いて、店の中に座る一人のドヴェルグと視線が合う。


 彼は薄汚れた茶色い服に髪のない頭、皺の寄った険しい顔で、決して近寄り易いとは言えない雰囲気を持っていた。


 しかしそんなことに臆する者はここにはいない。


 紫翠は手裏剣に分類出来るであろう武器を見下ろし、視線を走らせた。


「ひぃ、手裏剣の種類は分かるかしら?」


「はい。一応一通りは」


 その返事を聞いて紫翠は可笑しくなってしまう。手裏剣についての知識をひぃが持っているということは、氷雨も知っているということ。接近戦用の武器だけでなく、遠距離用の武器にまで手を出しているだなど、心配性にも程があると思ったのだ。


 紫翠は「そう」と微笑し、ひぃは目を瞬かせていた。


「あの奥にある短刀みたいなのはなんて言うの?」


「あれは棒手裏剣の一種ではないでしょうか。タガトフルムのものとは少々違いますが、持ち手や形状を見るに」


「棒、手裏剣」


 梵は呟き、紫翠は長さ二十cm程の武器を手に取ってみる。


 剣のように両刃性で先に行くほど細い形状をし、持ち手にはグリップの代わりのような皮が巻かれている。塚には深緑の宝石が埋め込まれ、重さも軽い部類に入るだろう。


「これなら投げる練習を家でしても良さそうね、ホルスターか何かさえあれば持ち運びも出来そうだし」


「難しいのは、投げた後の回収でしょうか」


「そうね。ダーツは得意なつもりなんだけど、外す割合の方が高い場合を想定したら、使い勝手は悪いかもしれないわね」


「紫翠さんが得意と自負出来るなら、その心配は杞憂であると思います」


「どういうことかしら」


「私からしてみれば、紫翠さんは常に高みを目指して自分におごることは無い方だと思っています。なので紫翠さんが得意だとご自身で言われることは、とても自信があることなのだと思うのですが」


「過大評価ね」


「そうでしょうか?」


 口角を緩めて紫翠は笑う。ひぃは過大評価ではないと思うと同時に、氷雨に伝える話題が増えたことに笑った。


 知的な二人が会話をすると、梵はだいたい蚊帳の外だ。特にそのことを気にするでもなく、彼は彼で並んだ武器を順々に手に取って目の高さに上げていた。


「お探しものかい、ディアス軍の戦士の方よ」


 しわがれた声が不意にする。


 紫翠は視線をドヴェルグへと向けて「えぇ」と頷きを返した。細い指は武器を器用に回し、刃が鈍く光っている。


「戦士が来るのは珍しいことかしら?」


「珍しいという程のことでもねぇが、あんたみたいなお嬢さんは余り見かけねぇかもな」


 ドヴェルグは答え、いでいた武器を研石とぎいしから離す。水に濡れて光るそれは酷く鋭利で、触れるだけでも切れそうだ。


 紫翠は「そう」とまた素っ気なく答え、ドヴェルグは聞く。


「あんたが望むなら、俺はあんただけが使える武器をお作りしよう」


 その言葉に、武器を回していた紫翠の手が止まる。彼女の聡明な瞳はドヴェルグに向き、醜い妖精は持っていた武器を横に置いた。


「それが俺達、ドヴェルグの宿命なんでな」


「武器を作り続ける職人であること、だったかしら?」


「あぁ、知ってんのか」


「えぇ、簡単になら」


 ドヴェルグは顔を歪めて笑い「そうかそうか」と頷いている。紫翠は棒手裏剣を一つ持ち、妖精に近づいた。


「作ってもらえる? 私だけの武器。このタイプがいいんだけど」


うけたまわる。戦士の武器を作れることは名誉なことだ。何か要望はあるか? 大きさ、色、性能、あんたが求める武器に仕上げよう」


 紫翠はそれを聞き、自分が望む機能を言っていく。


 投げたり持ち運ぶのに支障がない重さであること。切れ味は任せる。持ち手は長め。殺すのではなく足止めが出来る武器を求めている。


 本数は自分の体躯から見て持ち運べる最大数を。恐らく投げて使うことを主とする為、回収するまでのロスを減らせる工夫があれば尚良し。


 そこまで言って、紫翠は自分の我儘ぶりをあざけてしまう。


 タガトフルムでは到底不可能な要求を、アルフヘイムの妖精は叶えてくれるかもしれないと言う欲目が、彼女の要望を大きくした。その結果がこれだ。


 ドヴェルグは無表情に紫翠の要望を聞き終わると、汚れた歯を見せて「いいだろう」と笑った。それには紫翠も微かに内心で驚き、しかし表情には表さなかった。


「出来るの?」


「あぁ、相手に必ず当たる武器や、一撃で間違いなく殺す武器っていう要望に比べりゃ安いもんだ」


「それはまた、無茶苦茶な希望ね」


「言われたら成すのがドヴェルグだ。文句は言わねぇ、仰せの通りに。じゃなきゃ首が飛んじまう」


 そう言って笑ったドヴェルグは、座っていた椅子から腰を上げる。彼の硬い皮膚を持つ手は紫翠に差し出された。


 紫翠は薄汚れたドヴェルグの掌を見つめ、手を重ねてみせる。


 ドヴェルグは満足そうに笑っていた。


「もう要望はねぇか?」


「ないわ」


「よし、それじゃぁ最後だ。ディアス軍の選ばれし戦士よ。あんたが最も守りたいものは何だ?」


 紫翠はその問いを聞き、目を細める。ドヴェルグは紫翠を見つめて彼女の答えを待っていた。


「……それは代金ね?」


「その通り。俺達ドヴェルグは、注文者が何を持ってその武器を手に入れたいのかが知りたい。その答えはなんだっていい。ソイツが出した答えこそが、俺達に武器を作る為の力をくれる。だから答えてくれねぇか、お嬢さん」


 ドヴェルグは空いている方の手で、紫翠の手を優しく叩く。


 その節くれだった手は今までにいくつもの武器を作ってきたと分かる感触をしており、紫翠は一度だけ瞬きをした。


 それから彼女は、凛と答えるのだ。迷いのない目で背筋を伸ばし、堂々と。肩にいるひぃはその姿を見て微笑んでいた。


「私は、私を必要としてくれる人を守るわ」


 紫翠は答え、ドヴェルグは少女の目を見つめる。揺らぐことなく妖精を見返す目は強く、ドヴェルグは穏やかに微笑んだ。


「あぁ、そうか、それでいい」


 小さく呟くドヴェルグは紫翠の手を離し、その掌に指で何かを書いてみせた。


 指が通った場所は光の筋となり、紫翠は掌を見つめる。そこにはうっすらと〈ハンヴェル〉と言う言葉が浮かび、そして見えなくなった。


「これは?」


「それは俺の名前。あんたの武器が出来たら赤く光って教える、サインみたいなもんだ。武器の受け渡しが終われば消えるから安心しな」


 ドヴェルグ、もといハンヴェルはそう言いながら、紫翠が持っていた武器を貰う。紫翠は自分の掌をもう一度だけ見て、気にすることなく頷いた。


「そっちの兄ちゃんは……」


 ハンヴェルは武器を見つめていた梵に声をかけ、だが直ぐに「……いや、やめておこう」と目を伏せた。


 紫翠とひぃは顔を見合わせ、梵はゆっくりハンヴェルを見る。妖精は梵の目を見つめて、ゆっくり頭を振った。


「どう、した?」


 梵が聞く。機械的に、感情がこもらない声で。


 ハンヴェルは梵に近づくと、彼に手を差し出した。梵は皺のある手を見下ろして、自分の手を重ねてみる。


 ハンヴェルは梵の手を握ると「あぁ、兄ちゃん」と憐れむように呟いた。


「あんた、自分を持ってねぇんだな」


 雨が強くなる。


 外は白い線が降り注ぎ、屋根からは大粒の水滴が滴り落ちた。


 梵は表情を微塵も変えることなくハンヴェルを見下ろす。職人の手は優しく戦士の手を労り、そして離していく。梵は離された自分の手を見て開閉し、ゆっくり首を傾けていた。


「兄ちゃん、あんたに守りたいものはあるか?」


 ハンヴェルは聞く。諭すような柔らかな声で。


 梵は瞼をゆったり閉じて、開けて、紫翠とひぃに視線を向けた。


 紫翠は観察するように梵を見つめ、ひぃも黙って彼の答えを待っている。


 梵はハンヴェルへと視線を戻し、ゆっくり、拙く、まるで幼い子どものように言葉を探した。


「守り、たい……もの」


 梵の頭に響いたのは、道場の床がしなる音。厳しい父の声と、落ち着いた母の声。


 継ぐ者として、長男として、細流として、当主の息子として。


 握った拳の解き方が分からなくなる曖昧な感覚。


 一番高い場所に上って貰ったトロフィーの重さは、覚えていない。


「――すまない」


 その謝罪が、梵の答えだった。


 ハンヴェルは頷いて踵を返す。紫翠は「よろしく」とだけ妖精に告げ、「任せときな」と言う返事を聞いた。そのままハンヴェルは店の奥へと入ってしまう。


 梵はぼんやりと雨が降りしきる外を見つめ、紫翠はその横に並んだ。


「その手、」


 凛とした声がする。


「解いてもいいんじゃない?」


 目一杯握り締められている、梵の片方の拳。


 梵はハンヴェルと繋いでいなかった方の手を見下ろして、まるで自分の体ではないかのように「おぉ」と呟いた。


 本当に気づいていなかったという反応。まるで他人事のような仕草。


 紫翠は横目に、自分の手の指を一本ずつ開く梵を見つめていた。


 ひぃは何も言わない。何を言うべきが正しいか分からず、口を開くことは正しくないと思っているから。


 雨が降る。


「ねぇ、ひぃ」


「はい、紫翠さん」


 紫翠は地面で弾けた水滴を見る。その横顔を見て、ひぃは穏やかに尻尾を振った。


「あの子はどうして、エゴと一緒にいるの?」


 あの子。


 ひぃはそれが自分のパートナーであると直ぐに分かり、何故自分に問うのかも察してみせた。


 心配性の彼女は紫翠からこの質問をされても、苦笑してはぐらかしてしまうと、質問者である少女は知っているのだ。


 ひぃは少しだけ黙り「そうですね」と呟いてみる。


 明白な答えをひぃ自身も知らないが、予想することは出来る。そしてその予想は大体当たる。氷雨の理性であるドラゴンは、帳が少女に言った言葉を忘れない。


「利害の一致。もしくは、補い合い、とだけ言っておきますね」


「……そう」


 紫翠はその答えに追求することは無く、緋色のドラゴンの顎を撫でる。ひぃはその手に頬擦りをして、梵は雨を見つめていた。


 雨は微かに弱くなる。


 それでも、止むにはまだ時間がかかりそうだ。


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