第9話 日常

 

 これは酷い。


 思うんですよ、私は。


 自室のベッドに転がっている現在。


 らず君とりず君は何が起こったか分からない顔をして、ひぃちゃんは疲れ切ったように布団に突っ伏している。カーテンの向こうからは朝日が射し込み、私は目の上に腕を置いた。


 事は数分前。


 私がまだ、カウリオさんと一緒にいた時のこと。


 * * *


 カウリオさんが「是非」と言うことで、私はブルベガー・シュス・アインスを案内してもらった。


 シュス内はとても活気に溢れており、すれ違うブルベガーさん達はカウリオさんに親しそうに挨拶していた。彼らの容姿に内心で震えていたのは内緒だ。


 住人さん達は戦士や心獣が珍しいようで、何回自己紹介したかは覚えていない。日も傾き始め、透き通るように青かった空の色は変わり始めていた。


 それを見ながらシュスの外に祭壇を建てさせてもらい、見学していたカウリオさん達はとても興味深そうだった。恥ずかしい。


 切り開かれた丘に建つ祭壇は見つかりやすいだろうが、ここに近づくことはその時の現王様が手合わせを申し込みにくることが目に見えている。それで少しでも時間を稼げたらなんて、私は口が裂けても言えなかった。ルアス軍の戦士の人にもカウリオさん達にも、顔向けが出来ないから。


 その時、声がした。


「ひっさーめちゃん!!」


「ぇ、ぁ、アミーさん」


 突然鍵から映し出されたアミーさん。彼は元気に私を呼んだかと思うと、黙って私を見つめてきた。


 何でしょうか。何かやらかしましたか、ごめんなさい。初戦は黒星です。


 私は緊張して笑いながら、アミーさんを見つめた。


「うん、良かった。体調はもう戻ってる! いきなり手合わせになっちゃって災難だったねー!」


「ぁ、いや、大丈夫です、ごめんなさい」


「何を謝るんだか! あぁでも、心獣の力を使い過ぎたらまた体調不良起こしちゃうから気をつけてね! 心獣の力は氷雨ちゃんの体力と精神力に比例してるから」


「おぉ、はい、気をつけます」


 初めて聞いたよそんなこと。


 ひぃちゃん達はご飯を食べないし気づけば眠る子達だったから深く考えていなかった。


 え、それ私が体力つけないと。


 そこで別の事にも気がついた。


 その場にいたブルベガーさん達が全員膝をつき、頭を下げていると。


 待って何事。アミーさんか?


 分からなくてカウリオさんに聞こうとした時、アミーさんは溌剌とした声を出した。


「じゃ、今日はお時間なんでご帰還しましょ!!」


 その言葉と同時に。


 空から黒い手が伸びてくるなんて誰が言ったよ。


 私は大きな手によって胴体を鷲掴みにされ、アミーさんを見る。彼は元気にブイサインをしていた。


「バイバイ!!」


 いやいやちょっと説明を!


 なんて言える筈もなく。


 私は黒い手によって空に猛スピードで引きずり込まれ、体が軋む思いだった。強制送還とは文字通り。来る時に通った空間を過ぎ、私は自室の床から弾き出された。


 体が浮いた時に手が離れて、投げ落とされたのは自分のベッド。床に空いていた穴は、手を振っていた影と共に消えた。


 そして冒頭に至る。


 * * *


 何だこれ。何で私投げられたんだ。もうちょっと良い帰還方法ないのか。あれ、今更ながら空を飛べない方はどうしているのだろう。いやそんなこと気にしても仕方ないのか。駄目だ頭が痛い。カウリオさん達に挨拶出来てないし、何やってるんだ本当に。


 私はベッドの上で長く深いため息を吐き出し、カーテンを開けた。重たい動作で靴を脱いだ後にりず君達を抱き上げる。


 あぁ、温かいな。


「お疲れ様、ひぃちゃん、りず君、らず君。ありがとう」


「いいえ、氷雨さん。当然のことです」


「俺は何もしてねぇぞー」


「……」


 みんな首を横に振る。ひぃちゃんは空を飛んでくれて、りず君は武器になって、らず君は私の我儘に付き合ってくれた。何もしてない訳が無いのに。


 私は眉を下げて笑ってしまう。そしたらみんなも笑ってくれるから、それでいいと思うんだ。


 さて。


 制服を持って洗面所に向かう。


 まだ早い時間だからお母さん達は眠ってるな。よしよし。


 シャワーを浴びて制服を着込む。


 今日の朝ご飯は何にしようか。目玉焼きをして、ベーコンも焼こう。食パンがあるし、桃があるから剥いておいて。


 考えながらフライパンを温めて、手を翳す。適度な温度になった所で油をしいて、卵を三つ準備した。先にベーコンを入れて少し火を通す。その様子を確認しながら卵の白い殻をシンクの縁に当ててヒビを入れ、両手でフライパンに割り入れた。


 焼ける音がして、香ばしい匂いもする。


 太陽光が台所にもリビングにも射し込んで、今日が始まる。


 夜の幕は上げられた。


 いつも通りの朝。


 いつも通りの風景。


 あぁ――私は、生きているんだ。


 酷く実感してしまう。


 今日のお弁当は何を入れようか何て、頭の片隅で思案しながら。


 * * *


「おっはよー氷雨ちゃん!」


 朝の教室で黒板の日付を書き変えていたら、元気な声に背中を押された。振り向くと小野宮さんがいて自然と笑ってしまう。


 まだ人が疎らな時間。彼女の茶髪が光を浴びて明るく見えた。


「おはようございます、小野宮さん」


 返事をして、小野宮さんの声を聞く。今日の入学式について。


 寝不足だから式の間はきっと眠ってしまう。けどそんな所を顧問の先生に見られたら大目玉だ。それでも眠いものは眠い。眠たいけれど、部活を早くしたくて仕方がない。


 快活に笑う小野宮さんが眩しくて、私も笑顔で相槌を打つ。


 私と話すより少しでも仮眠を取った方がいいのでは無いかとも思ってしまうが、小野宮さんのマシンガントークを止めることは難しそうだ。


 話し続ける小野宮さんを何となく席に誘導する。朝練が無いにも関わらず間違えて早く登校した彼女を労いながら。陽気な声に耳を傾けて。


 そうしていれば陸上部の朝練が早めに終わった湯水さんが来てくれて、挨拶を交わした。小野宮さんは欠伸をしており、登校する生徒が増えていく。


 少し賑やかになってきた教室と相反して、私の瞼は若干重たかった。


 それもそうか。実質昨日はほぼ徹夜だ。少しの仮眠しかとってない。これから毎日眠れない日々が続くと思うと頭が痛くなりそうだ。実際すでに痛い。


 今も机に伏せて眠りたいところだが、話をしてくれる彼女達を差し置いてそんなことは出来ないな。帰って眠ろう。そうしよう。


 考えていると、不意に小野宮さんは誰かに手を振っていた。


「あ! 楠さんおはよー!!」


 彼女が挨拶をした相手――楠さんは昨日と髪型を変えて、昨日と同じ平坦な挨拶をして、席に着いていた。


 綺麗な姿勢。それが崩れたと思ったら、楠さんは鞄を枕に伏せてしまう。


「寝ちゃった」


「だね」


 小野宮さんと湯水さんの感想を耳に入れる。私の視線はイヤホンをしたまま目を閉じている楠さんに向いていた。小野宮さんは再び欠伸をしたようだ。


「ふあぁぁ……私も眠たぁい」


「どーせまた夜中までスマホ弄ってたんでしょ?」


「ち、違うよ! ぇーっと……そう、勉強してたんだから!」


「はいはい、なずなは勉強しててて寝不足ね」


「信じてないなー!! 氷雨ちゃーん弁解してよぉ!」


「え!? えーっと……ぁ、勉強、お疲れ様です、小野宮さん」


 幼馴染二人の流れるようなやりとりが続くと思っていたのに、急に振られて心臓が跳ねる。半分以上意識が何処かに行っていたようだ。危ない。


 つたない返しに笑ってくれた小野宮さんを見つめると、湯水さんの呆れたような声も聞こえた。


「相手しなくていいよ氷雨ちゃん」


「酷い栄! ありがと氷雨ちゃん!」


 笑い声が上がる。私もつられて笑い、胸の真ん中を風が吹き抜けた気がした。


 あぁ――平和だ。


 そう思わずにはいられない。


 私は笑って、後五分でチャイムが鳴るのを確認した。


 ――その後の入学式は何も変わったことが無く、式中眠っていた小野宮さんを羨んで終わった。


 私も眠い。本当に。けど先生に怒られるのは嫌だ。目をつけられたくない。でもやっぱり眠た過ぎて気持ち悪い。


 式の片付け終了後のホームルームはまだ大丈夫だった。しかし昼休み後のホームルームでは、メモをしていた手が何回かペンを離してしまった。目だけは開いていた筈。文字は若干ミミズが這っていた。汚いぞ。


 私なんで美化委員になったんだっけ。誰もいないから推薦されて頷いたんだな。馬鹿野郎。


 自分に落胆しながら何とか今日の日程が終わり、机に伏せたいのを我慢する。


 帰って寝よう、それが良い。そうしなければ夜がもたない。


 手帳やファイルを仕舞いながら、颯爽と部活に行かれた湯水さんと小野宮さんを見送っておく。一年生の勧誘は明日かららしい。小野宮さんは茶髪を揺らして、私とハイタッチしてくれた。


「また明日ね! 氷雨ちゃん!!」


「はい。また明日」


 クラスメイト達が減って行く音を聞く。今日は最前列の人達が簡易清掃当番の日。他の人は部活にバイト、はたまたバスの時間を気にして去って行く。


 私は自転車だから急ぐことは無い。校門は混んでいるだろうから、少し時間をずらそう。それでも教室にいたら邪魔だから、図書室にでも行こうかな。あぁ眠たい。


「凩さん!」


 急に声をかけられて肩を竦めて笑う。いたのは掃除当番に指名された、たしか、穂崎ほざきさん。黒の巻き毛を結った美人さん。


 彼女は私を両手で拝み、頭を下げてきた。


「お願い! 掃除当番変わってぇ〜! 私今日バイト早めに入れちゃっててさぁ〜、遅れたら店長に怒られちゃうんだよ〜!」


 切願されて、顔が笑い続ける。


 アルバイトがあるなら仕方がない。


 それでもまだ時間的には早いものなのではなかろうか。


 いや、きっとバスの時間とかあるんだろう。代わらなくて彼女が怒られるのは気が引けるし、迷惑をかけたくない。


 私が既に迷惑だ。


 うるさい。彼女を困らせたくはないだろ。


 考えた私は、笑顔で頷いてしまう。


「良いですよ。アルバイト、遅れたら大変ですよね」


「ありがとう!! この埋め合わせはするからね! ほんとごめん!!」


 不安そうだった彼女の両目が輝き、ほうきを渡される。それを受け取って、鞄を掴んだ穂崎さんを見つめた。小さく手だけ振っておこう。


 そのまま掃き掃除をして机を整え、掃除用具を片付ける。他の人は「終わった終わった〜」と教室を出て行ってしまった。


 あの、まだゴミ捨てが……


「お、凩、丁度いい。後で職員室に来てくれないか? 掲示物があってな〜、頼みたいんだ」


「ぁ、は、はい」


 担任の筒屋つつや先生が教室に顔を出して名指しされる。


 私しかいないから仕方ないのだろうけど。まず私がここに残っていることがおかしいと思いませんか。思わないんですね。掲示物ですか。分かりました。


 笑いながら頷き、一人教室に取り残される。


「……よし」


 誰もが帰った教室でゴミ箱を持つ。ゴミ捨て場は西側外階段の向こう。私の教室とは真反対。


 両手で持ったゴミ箱を膝で蹴らないように気をつけながら歩く。まだ二日しか学校は始まってないのに、捨てる物は結構出るものだ。今日のお昼のゴミとかが大半かな。


 外階段に辿り着いて下に向かう。ゴミ捨て場には用務員のおじさんが立っていてくれたから、会釈をしておいた。


 ゴミを出したらまた頭を下げて教室に行く。階段を上がると軽くなった荷物に少し膝が当たった。軽い音がして、息を自然と吐く。


 廊下に戻ると、多様な部活用の服を着た生徒さんが廊下を歩いている風景が目に入った。


 平和だなぁ。


 教室に戻ろうと足を進める。自分の両手を塞いでいるゴミ箱を、また膝が蹴った。


 教室の定位置に持っていた物を置いて息を吐く。それから吸って、職員室に向かった。


 渡り廊下を歩けば風に髪を揺らされる。


 そこで、美しく輝くアルフヘイムを思い出した。


 今日から始まるルアス軍との競争を思って体が重くなる。足を引き摺りそうになる。


 探さなければいけないんだ。絶対、生贄を。


 ――誰を選ぶべきなのかではなく、誰ならば君は選べるのかというのが重要だと、私は思うよ。


 カウリオさんの言葉が頭を回る。


 私は誰なら選べるか。


 分からなくて、延々と考えながら職員室へ向かう。先生に渡されたのは時間割表や一年の予定表、今週一週間の特別時間割に、明日の課題テストの日程表等だった。


 諸々を両手で抱えて教室へ。先生に「頼んだぞ〜」なんて言われて笑っておいたけれど、私が貼っていいのだろうか。頼まれたからやるしかないのだけれども、綺麗に貼れる自信が無いな。


 肩を落としそうになってしまい、いけないと背筋を伸ばす。教室では吹奏楽部の方が個人練習を始めていた。


 確かあの楽器は、クラリネット。三人の吹奏楽部さんはそれぞれ窓の外に向かったり椅子に座ったりと個々の好きな体勢で練習をしてるみたいだ。


 耳の良いひぃちゃん達が少し心配になって鞄を持ち、後ろの小黒板横に近づいた。


 ここと前の黒板横のコルクボードに押しピンを使って掲示物を貼っていく。外は雲が多くなっており、色は黒かった。


 雨、降らないと良いんだけど。


 願ったところで、私の願いなど神様は叶えてくれない。


 掲示物を全部貼り終わると小雨が降り始めており、ため息が零れかけた。飲み込んだけど。


 私の家は学校から遠いから、雨が降ったらバスで登下校するように兄さんに言われている。お父さんもお母さんも了承してくれているからバスで帰ろう。ロッカーの中には折り畳み傘を入れているし、バス停までなら歩くことが出来る。


 職員室の先生に貼り終わった報告をしたら「気をつけて帰るんだぞ〜」と言われ、変わらず笑っておいた。


 腕時計を見ると、今から歩けば丁度バスがやって来る時間だ。肩にかけた鞄を撫でて、私は呟きを落とす。


「おまたせ」


「いいえ、お疲れ様です」


 優しいお姉さんの声を貰いながら。


 それが嬉しくて顔が緩む。


 ふと暗い空を見て、心臓の鼓動が早まった。


 夜がくる。


 時間が来てしまう。


 窓に雨粒が当たるのを見て、足が地面に貼り付きそうな感覚に襲われた。意識を足先に向けて階段を何とか降りる。


 駄目だ、帰りたくない。時間よ止まれ。何も出来ない私に期待しないで。あぁ、吐きそうだ。


 スクール鞄と、ひぃちゃん達に入ってもらっている鞄を肩にかけ直す。みんな窮屈だっただろう。ごめんね。


 明日からは体操服を入れる大きめの鞄に変えてあげようと決めた。帰ったら広いベッドでゆっくり休ませてあげよう。


 また、鞄越しにみんなを撫でておく。そのまま昇降口の方へ。廊下には色々な楽器の音が木霊していて、昼間とはまた違った空間になっていた。


 溢れる音に耳を傾けて、歩みを止めることはしない。


 暗い昇降口に着いて自分の下駄箱を開けようとすると、不意に声をかけられた。


「あ、凩さん!」


「ぇ、あ、蔦岡つたおか君」


 いたのは同じクラスの蔦岡君。一年生の時から同じクラスの彼は、私の記憶が正しければ軽音楽部所属の筈だ。手にはダンボールに入った荷物を持っている。


「どうかしましたか?」


 笑いながら聞くと、彼は周りを見渡してから近づいてきた。そのまま手に持っていた物を押し付けられる。


 え、何ですか。


 私は反射的に受け取り、笑い続けた。


「ごめん! 俺入学式で寝てたからって、顧問の木野きの先生に荷物運びと備品室の掃除頼まれたんだけどさー、部活は明日の部紹介のミーティングするからあんまり抜けたくないんだよ!! だからこれ代わりに持って行ってくれね? 掃除は適当でいいし!!」


 言われる。よく通る声で。


 心底困った顔をする蔦岡君は、既に荷物から手を離していた。


 彼には時間が無い。私に急ぐ用事はない。


 でもこれを頼まれたのは彼だ。


 蔦岡君は困っている。


 本当に?


 疑うなんてしたくない。私はどうしたら良いんだろう。


 今から掃除なんて正直したくないって言うか、私にもバスの時間がある。


 それでもそれ以上に、ここで断ると彼に迷惑をかけるのではなかろうか。あぁそうだ、ここで断るのは余りいい事ではない。


 違う。受けなくていい。


 いいや、断ってはいけない。


 私は微笑んで、荷物を持ち直した。


「分かりました。備品室、ですね」


「マジ!? あーもーありがとう!!」


 笑顔の花を咲かせて走り去って行く蔦岡君。彼は「あ、これ鍵ね!!」とタグのついた鍵を投げ渡してきた。それを右手で掴み、会釈しておく。笑って、愛想よく。


 バスは乗れないな。


「断われよぉ……氷雨ぇ……」


 くぐもって聞こえたりず君の声。私は驚いて、それでも笑ってしまうんだな。


「ごめん」


 謝罪に返事はなくて、鞄を撫でておく。


 軽いダンボールを運ぶのは簡単だった。先程までいた職員室のある校舎の一階。その一番端にある扉まで来て「備品室」というボードを確認する。


 うん、ここだ。


 一度ダンボールを置いて鍵を開ける。鞄を肩にかけ直すと「ほんとに氷雨は……」とりず君の文句タラタラな声が聞こえた。「ごめんね」ともう一度謝って、苦笑する。


 備品室の中は微かに埃の匂いがして、少し咳き込んだ。一つだけある窓を開けて空気を入れ替える。雨は降り込まないだろう。


 ダンボールを持つと先程より重くなった気がして、私は直立で停止した。


 あ――駄目だ。


 何が駄目かは分からないけど、駄目だと思う。


 言葉では言い表せない感覚が胸を埋めて、私は今自分がここにいる理由が分からなくなった。


 指先から冷えていき、頭は熱くなる。目を伏せて深呼吸をして、それでも荷物が重すぎて、覚束無おぼつかない足取りで備品室に入る。


 荷物を机に置いて、私は足跡のついた床を見た。いつから掃除をしていないんだか。


「……やらなきゃ」


 箒を持つ。


 ――掃除はやり甲斐があった。掃いて、拭いて、息を着いた時には雨は止んでいた。通り雨だったようだ。


 晴れた空は毒々しい橙と紫に色づいて夜を運んでくる。


 私が鍵を返したら、蔦岡君が怒られるかな。


 きちんと考えて軽音部に顔を出すと、賑やかな雰囲気に臆してしまった。蔦岡君と目が合う。


 彼は駆け寄って来るから、やっぱり笑うしかないな。


「運ぶのと掃除、終わったので、鍵をお願いしてもいいですか? 私が返しに行くと、ちょっとまずいと思うので」


「勿論! ほんっとありがとね! また今度お礼するから!」


 彼のよく通る声が教室に木霊する。そのせいで他の人の視線を集めるのが嫌で、私は苦笑しながら退散した。


 やっと帰れる。帰れるよ。


 気持ち悪くて、吐きそうだ。


 なんて考える癖して、吐きはしないのだけれども。


 それでもやっぱり何処か気持ち悪くて、目眩がする気がして。


 全ては気分の問題で、私が弱いせいだ。だから気を張って背筋を伸ばして、笑っていよう。


 笑顔は盾だ。


 自分を守り、周囲も笑顔にする御守りだ。


 もしもそれで誰かを不快にしていたらどうするんだ。


 ならばどうしろって言うんだ。


 ――夕飯を終えて洗い物をしている時、食器が割れる高い音が耳に響いた。


 割ってしまった。薄くて白いお皿。


 右手はスポンジを握り締めて、左手の中には破片がある。


 台所だけに灯した明かりの中で、私は息を深く吐いた。


 今日も両親は遅い。兄は一人暮らし。ここには今私しかいない。


 だからなんだ。


 だったら少し泣いたって、


「うるさい黙れ」


 口に出して破片を離す。シンクに落ちた破片には血がついており、そこでやっと、私は痛いを感じた。


 痛いな、畜生。泡が染みる。


 思いを飲み込んで、しゃがみこむ。


 時間が過ぎる。時計の秒針がうるさい。なんで嫌なことばかり思い出すんだ。楽しいことだってあった筈だろ。駄目だ思い出せない。この役たたずの脳みそが。


「ひーさーめ」


 声がする。


 男の子の声。


「氷雨さん」


 肩に温かさと、少しの重さが感じられる。


 優しい声。


「……」


 足に当たる、繊細な鼻の擦り付き。


 視界の端に、光を反射した硝子が見えた。


「――りず君、ひぃちゃん、らず君」


 呼ぶ。


「おう」


「はい」


 返事が貰える。


 また、擦りついてくれる。


「手ぇ怪我してるぞ。らずに治してもらおうぜ」


「割れた食器は、片付けておきますよ」


 言ってくれる。


 笑って。私を気遣って。


 あぁ、畜生。


 優しさが、温かさが、眩しいから。


 どうか私に――優しくしないで。


 言わないで。


 言えないで。


 私は笑い返してしまうんだ。

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