第7話 対面

 

 フォーンの森上空を過ぎると、木々の密集地が終わり、なだらかな丘へと続いていた。


 丘は人工的に植物が刈られたように岩肌が見えており、全体的に灰色だ。その岩肌もまた美しく、淡く発光しているように錯覚させられる。


 ひぃちゃんに上昇してもらう為に、私は片手を上に振った。口で言うより手の合図の方が良いと相談した結果だ。ひぃちゃんは理解して、私を地面から更に遠ざけてくれる。


 ―― ブルベガー・シュス・アインス


 それは丘の頂上に出来た、岩肌と同じ灰色のシュスだった。中央には城塞があり、堂々たる佇まいでシュス全体を見下ろしている印象を受ける。


 ブルベガーさんは「狼が二足歩行しているような姿」だと教えられた。


 そして、まさしく教えられた通りの住人さん達を私は見ている。人間と言われる私とは違う容姿だ。


 まるで物語の怪物のような見た目に、不安が押し寄せた。胃のあたりが痛くなって、風に揺れる髪を掴んでしまう。


 落ち着け。この世界では普通なんだ。相手から見れば、私の方が奇異な見た目だと言われて恐れられるかもしれない。そんなの傷ついてしまうだろ。だから、怖がってはいけない。


 自分に言い聞かせて、頬を両手で挟み、私は笑みを浮かべておいた。


 眼下のシュスで、色とりどりの服を着たブルベガーさん達が生活している姿が伺える。肩で光るらず君が視力を上げてくれるお陰で、私の目には住人さん達が鮮明に映されていた。


 だから――異変を見つけることも早かった。


 目に埃でも入ったのかと錯覚した「それ」


 そんな勘違いでは済まされないと直ぐに分かった異変。


  急速に近づくその形を理解した瞬間、私の体温が消え失せた。


「りず君!」


「よいしゃぁ!!」


 りず君が肩から跳躍して光る。大きな盾に変身してくれた彼を私は右手で鷲掴んだ。


 同時に。


 焦りの勢いのまま左手を振り抜き、ひぃちゃんは瞬時に私の体を斜めに倒してくれる。


 狂気を纏った「それ」は風を切り裂き迫りくる。


 私は、避けきれないかもしれないと言う不安に掻き立てられた。


 それでも力一杯りず君で「それ」を弾き、何とか直撃を防ぐことは出来たわけだ。


 ――なんて冷静な思考が出来たのは、りず君で異物を弾く重たい音を聞いた時だった。


 動作をしている時は全てが反射だった。らず君に補助された反射神経がりず君を呼ばせて、同じタイミングでひぃちゃんに指示をさせた。


 息が上がる。呼吸が痛い。まざまざと狂気を叩きつけられた体は震え、その恐れを弾き返すように顔は笑った。


 冷や汗が頬を伝い、顎を通って落ちていく。


 私は、自分が弾いた凶器を目で追った。


 弾いた異物は――黒々とした斧。


 直撃すれば、出血多量では済まないと主張する鋭利な刃。


 磨き上げられたそれは陽光を反射する。


 落下する斧を凝視した私は、再び心臓が握られるような不快感に襲われた。


 もしも下に誰かいたら、怖いから。


 私は体の重心を移動させ、ひぃちゃんも意図を汲んで翼を畳んでくれた。


 自然落下をしながら手を伸ばす。


 バンジージャンプより、よっぽど信頼出来る緊張を味わいながら。


 風が髪をもてあそんだ。


 ひぃちゃんが一度力強く翼を羽ばたかせ、落ちる速度が上がる。その勢いで私の手は斧の持ち手を掴むことに成功した。


 安堵して息を吐く。先程よりも岩肌が近くなっており、私は一度地面に足を着いた。


 膝が笑う。


 そのまましゃがみ込んで、私は理解した。


 自分が酷く怖がっていたと。その緊張が今、緩んだのだと。


 情けない。


 らず君と、針鼠に戻ったりず君が首に鼻を擦り付けてくれる。ひぃちゃんは耳に頬を寄せてくれる。


 その温かさが嬉しくて、私は笑ってしまった。


「ひぃちゃん、りず君、らず君、ありがとう」


「いえ、ご無事で良かったです」


「つーか何だよこの斧、あっぶねぇなぁ」


 りず君に頷いた私は、重たい斧を見下ろした。


 どう考えても私に向かって投げられた斧。何処からかと言われればシュスからだ。誰がと言われたら――ブルベガーさん、か。


 思い出す。私の方に向いていた一人のブルベガーさんを。


 これは、あの方が……


 思案していた時に聞こえた、地面を駆ける音。


 私は弾かれるように立ち上がり、視線は駆ける誰かを探した。


 直ぐに見つけたその誰か。


 シュスの方向からやって来た、黒の毛並みが美しいブルベガーさん。


 二足で駆ける姿が神々しいですね。斧を取りに来たのですか。ならば返さないといけませんね。


 いや、もしかしてシュスに近づいてしまったことを怒っていますか。そんなに近寄っていたつもりはなかったのですが。


 あぁ、その抜き身のなたは何ですか。


 指先が冷えて、力強く握り込むことで震えを抑える。


 ブルベガーさんの目的が、斧でも牽制でも無いことは分かっていた。


 私は戦士だ。


 彼らはブルベガーだ。


 目が合って始まることは一つしかない。


 けれどもそれは、もっと柔らかいものだと錯覚していたから。


 ブルベガーさんの目は、相手を射殺しそうな光を孕んでいた。


 斧を手放す。


 落としてしまって、ごめんなさい。


「りず君!!」


「おうよ!!」


 後ろに跳躍しながら、刀となったりず君を握る。ひぃちゃんは私が地面を蹴ると同時に羽ばたいて、らず君は肩で輝いてくれた。


 ブルベガーさんが鉈を振り上げ、坂道も相まって猛スピードで駆けてくる。ボウガンと矢筒を背負って、鉈を持っていない方の手には小さな円形の盾のような物をつけて。


 正に武装だと分かる姿。


 そんな彼が迫った瞬間、私はりず君を下から振り抜いた。


 全力で。全霊で。


 硬い刃同士がぶつかり、弾き合う音が周囲に響く。


 ブルベガーさんから伝わる熱気や息遣い。私の喉が勝手に出した呻き声。


 余りにも生々しい非日常が襲い掛かる。


 視界が滲んで呼吸が苦しい。


 再度振り抜いたりず君はブルベガーさんの黒の毛を数本切り落とし、血走る瞳に私は射止められた。


 あぁ、嫌だ。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。


 ――怖いッ


「らず君!!」


 お腹の底から声を出して、怖がりな彼を呼ぶ。


 どうか臆病な私に力をくださいと願いを込めて。


 目の縁から少しだけ零れた雫は、弱虫の証だ。


 私の胴や足目掛けて鉈を的確に振り抜いてくるブルベガーさんが怖い。怖くて不安で仕方がない。


 ブルベガーさんの鉈とりず君がぶつかり、耳を劈く金属音が上がる。鍔迫り合いのような、お互いに体重と力を掛け合う状態になってしまった。


 冷や汗が流れて、私は奥歯を噛み締める。


 ブルベガーさんとの力勝負だなんてこちらに不利でしかないのに。今ここで少しでもりず君にかけている力を抜いたら、られる。


 過呼吸になりそう。


 怖くて仕方ないのに、逃げたら死ぬって分かってしまった。


 目の前にいる獣の顔を持つこの方は、私が背中を向けた瞬間ひぃちゃんごと斬り殺す。


 間違いない。これだけは間違えない。私のどうしようもない本能がそう言っている。


 逃げるな。逃げれば終わりだ。私が終わる。


 死にたくは、ないだろッ


「我が名はカウリオ!! ブルベガー・シュス・アインス、現七日間の王である!!」


 怒号とも取れるような声を上げたブルベガーさん――カウリオさんは、鈍く輝く瞳で私を見つめ、鋭い声をぶつけてきた。


 手足が震えて後ろに微かに押される。


 駄目だ呑まれるなッ。


「纏う衣の色からそなたをディアス軍の戦士と判断し、ここに我との手合わせを申し込む!!」


 腕に鳥肌がたち、流れていた冷や汗すら引っ込んでいく。


 体の中心には言葉で殴られたような痛みが走り、喉からは引き攣った呼吸が漏れた。


 手合わせなんて嘘ではないか。


 これは、殺し合いではないですか。


 私の中で溶けた不安と緊張と絶望が混ざり合い、果てしない恐怖が溢れ出す。


 ひぃちゃんとりず君は唸り、らず君は震えていた。


 手合わせとはもっと静かで、礼儀作法とか難しいものを考えていたのに。


 今そんな雑念いらないだろうが馬鹿。世界が違えば流儀や言葉の意味が違うのは当たり前だ。


 頭では分かっていても心がついていかないんだよ。もう嫌だ逃げたい。その申し込み断ってもいいですか。


 いい訳あるか逃げ腰かッ


 自分で自分を叱咤した瞬間、左のこめかみに激痛が走り、私の体は吹き飛んだ。


「ッ、ぁ、氷雨さん!!」


 倒れそうになった私をひぃちゃんが無理矢理起こし、足裏を何とか地面につけることが出来た。


 それでも痛くて、痛くて、涙がこみ上げて膝が笑う。


 痛みが脳天を直撃して気持ち悪い。吐きそうだ。


 駄目だ息が止まる。止めるな。吸って、吐いて、吐いて、いいや吸って。


 あぁ――苦しい。


 完全に死角から受けた盾での殴打。こめかみから体を駆け巡った痛みは私の頭を叩き起こし、涙が自然と頬を伝った。


 逃げたい。ここにいたくない。痛いのなんて嫌だ。我慢出来ない。逃げたい、止めたい、眠りたい、戻りたい。怖い怖い怖い怖い、勝てるわけがないッ


 ないしかないのか、臆病者。


 私に何があるんだ、心配性。


 不安と恐怖が肩に伸し掛かって猫背になる。


 肺が痛い。目眩がする。気持ち悪い。もう嫌だ。


 ――帰りたい。


 私は自分の願望に、目を見開いた。


「……は、ぁ……あぁ……」


 息を吸って、私はりず君を両手で握り締める。


 震える肩をひぃちゃんの尾が撫でてくれる。


 らず君は目一杯光り続けてくれる。


 こんなにも心強い子達がいるのに、私が折れてどうするのだ。


 ないばかりを集めたってどうしようも出来ないだろ。


 今日死ぬことはないと知っていただろ。


 今は殺されそうだけれども、殺されると確定したわけでは――ないだろッ!


「ッ、帰りたいなら、そうなるように努力しろッ! 馬鹿!!」


 誰でもない自分に怒鳴って、前を向く。


 言葉で震えが止まる訳では無い。目に輝きが出来る訳でもない。恐怖が軽減することも無ければ、凄い力が出せる訳でもない。


 それでもこの言葉は、私が立ち上がる為の、欠片の勇気にはなってくれる。


 背中を伸ばして前を向く。カウリオさんはこちらに走り込んで来ており、私は震える足で地面から跳び上がった。


 胴体があった部分を鉈が真一文字に切り裂いていく。


 カウリオさんの頭上を前転するようにひぃちゃんが飛んでくれて、私は彼の後ろ側に足を着いた。


 りず君に刀から槍に変わってもらう。


 苦し紛れに刃を振り抜けば避けられて、距離を取って足を踏ん張らせる。


 こめかみが痛んで目眩がした。よろめいた足は岩肌を滑り、斜めである地面に倒れ込みそうになる。


 灰色に赤が落ちた。


 左手で触ると、生暖かい液体を拭った。


 手が赤くなる。こんなに血が出ている様子を見たのは、初めてだ。


 私は槍であるりず君の石突の部分を岩肌へと突き立て、前を向いた。カウリオさんの目と視線が交わる。


 さぁ笑えよ、凩氷雨。


 笑顔は私を守る盾になる。


 恐怖する時こそ笑っていろ。


 私は頬を故意に釣り上げて、笑顔を貼り付けた。


 カウリオさんの目が丸くなる。


「私は、ディアス軍、心獣系戦士、凩氷雨と申します!!」


 りず君を手に取り直して勢いよく回す。ひぃちゃんは翼を広げて、らず君が私の治癒能力を補助してくれる。こめかみの痛みが、徐々に引いていった。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。


「よく名乗った氷雨!」


 りず君が褒めてくれる。


 背筋が伸びる。呼吸をしろ。


「ありがとう。りず君、ひぃちゃん、らず君」


「氷雨さん、貴方なら大丈夫です。私達も支えます」


 ひぃちゃんの言葉が胸に染みる。


 この子達は私の心獣。


 私が求める言葉をくれるだけかもしれない。私が願うから、優しい台詞をくれるのかもしれない。それでもいい。それでいい。


 私は、私を想う言葉があれば、消え入りそうな勇気の灯火を滾らせることが出来るのだから。


「お願い。弱虫な私を、どうか見放さないで」


 呟いてりず君を回す。


 彼の先端はより細く鋭い槍になり、斧部と鈎部かぎぶも形成される。


 怖いものに近づきたくなくて、槍と一緒に知った武器。


 ヨーロッパで使用されていた槍斧そうふ――ハルバード。


「任せろ」


「お任せを」


 りず君を構えて、ひぃちゃんが翼を広げてくれる。


 カウリオさんは腰を低くして鉈を構え、笑っているようだ。


 私も笑い返し、カウリオさんの遠吠えのような叫びを聞く。


「いざ、尋常に――参る!!」


 らず君が輝いて、視界を鮮明にしてくれる。


 カウリオさんが飛び込んでくる。


 私も地面を蹴り、彼の鉈にりず君を叩きつけた。ひらけた周囲に反響する金属音。


 素早いカウリオさんの鉈使いに翻弄されるが、間合いが広いのは私だ。


 後退して足裏に力を込める。りず君を握り締めて振り被り、音を響かせ、弾かれて。


 心臓の鼓動が早い。早すぎる。全力疾走をしているような苦しさと、体の動きを散漫にするような緊張感に足が縫い止められそうになる。真っ向からの対戦で私に勝機がないなんて、当たり前だ。


 いや、それでいい。勝たなくていい。勝てなくて、いいんだ。


 腹部を狙ってきたカウリオさんの攻撃を避けて、私の足は完全に地面から離れる。


 距離を、とれッ。


「ひぃちゃん!!」


「はい!!」


 ひぃちゃんは私の声と手の合図に反応してくれる。


 少し後方へ距離を取り、膝を曲げる。その流れのまま上体を前に倒し、ひぃちゃんが力強く羽ばたいてくれた。


 スピードを出したい時は俯せの状態になる方が風の抵抗が減り、ひぃちゃんがより良く飛べる。私はその邪魔をしてはいけない。厳しい姿勢を耐え抜け自分。


 私の翼に、本気を出してもらう為に。


 りず君の先端を一度後ろへ引く。


 怪我をするのは嫌だけど、怪我をさせるのも嫌だなんて、それは私の我儘だってッ


「ッあぁうるさい!!」


 らず君に補助してもらった筋力を全力で使い、りず君を振り抜く。


 カウリオさんは高く跳躍し、瞬時にボウガンを構えて矢を発射してきた。


 私では恐怖と驚きに支配されて避けきれないそれを、ひぃちゃんは的確に躱してくれる。


 空いた片手を私は前に振った。


 ひぃちゃんが数度羽ばたき岩肌を低空飛行してくれる。風が鼓膜を揺らす。私に今聞こえるのは、自分の酷い呼吸音と風の音。ただそれだけ。


 後ろを少し振り向くとカウリオさんが四足で走り、追いかけて来ていた。舌が口から零れ、目は血走り、岩肌を抉る猛々しい走りから殺意を感じる。


 体全体に寒気が走り、私は無理矢理笑った。


 どうすればいい。どうしたらいい。この状況を切り抜ける方法を探せ。


 戦いたい訳ではない。死にたくないし殺したくもない。


 怪我をさせたくないしもう怪我をしたくない。


 あぁ畜生、どうするッ


 酸素不足の私の頭は、最良の案を弾き出してくれはしない。


 あぁ、ならば――愚策で、駄策で、勝負しよう。


「ひぃちゃん、限界に入ったら、解除!」


「ッ、はい!!」


 ひぃちゃんがより速度を上げて服がはためく音が大きくなる。りず君が空気抵抗を受けて重たくなってしまい、肩も腕も痛い。らず君は、あぁ大丈夫、肩にいるね!!


 ひぃちゃんが今まで出せなかった速度まで到達した瞬間、私は叫んだ。目一杯、怖いと嫌だを吐き出すように。


「逆!!」


「痛い、ですよ!!」


 ひぃちゃんが私の体を無理矢理起こして、今まで向かっていた方向に翼をより一層強くはためかせる。


 飛行速度は急激に落ちて、私達の体に痛みが走った。


 それを無視してりず君の刃を岩肌に突き立て、より減速する。地面を滑る靴の裏が焼ける気がして、奥歯を食いしばった。


 速度が落ちる。無理矢理落とす。


 私はりず君を、地面から抜いた。


 無知な案だと分かっている。分かっているけど、焦っている私の頭はこれしか思い浮かべない。


 私達が無理矢理止まれば、同じように速度を上げ続けていたカウリオさんはどうなる。彼は四足歩行の体勢で、勢いのある自分自身を止める為には四足で踏ん張りを効かせるしかない。


 その一瞬だけでいい。一秒でいい。


 私は肩を回してりず君の重さに体を任せる。体は進行していた方向とは逆へ向き、予想通り、粉塵を舞わせながら四足で急ブレーキをかけていたカウリオさんを視界に入れた。


「りず、君、ごめん!!」


「ぉら、来いやぁ!!」


 りず君を、力の限り投げ飛ばす。


 目指すはカウリオさんの少し横の地面。


 私の体は無茶苦茶な姿勢と重力を受けたせいで前へと倒れ込む。それでも、カウリオさんとりず君から視線を離しはしない。


 瞳孔を開いたカウリオさんはハルバードを凝視する。槍部分が自分に触れかけるその時まで。


 その、一瞬で。


 彼が顔を微かに横へずらす様が見て取れた。


 なんて反射神経。凄すぎる。動体視力が補助されている私より格段に上だ。


 あぁ、そうではないだろ。


 顔を狙ったつもりはなかったのに。何も定まらない体勢での投擲だったから暴投してしまった。


 いいやそんなのは言い訳だ。投げたのは私だ。あぁ、なんて事をッ


 恐怖と心配に体が硬直し、りず君が岩肌へ突き刺さる。カウリオさんが背負っていた矢筒の紐が断ち切れた。


 弾けるような音がする。


 彼はそんなこと気にならないと言うように、瞳孔を開いたまま口角を釣り上げるから。


 私も同調して笑みを深めてしまうのだ。


 冷や汗が流れ落ちる。肩からひぃちゃんの荒い呼吸が聞こえてくる。らず君の光が弱まっていく。


 目眩がした。


「ッ、あぁ!! りず君!!」


「う、しゃぁ!!!」


 りず君がハルバードの形を崩して鎖状に伸びる。その先についた手枷はカウリオさんの手足を捕え、地面に突き刺さったりず君の一部は杭となり、カウリオさんを捕まえた。


 殺したくないならば、止めるしかなかった。


 殺したくないから、捕まえるしかなかった。


 だからみんなに無茶をしてもらった。


「ありがとう……ごめん」


 自然と零してしまう。それに笑ってくれた、ひぃちゃんとらず君。


 私は酷い頭痛と目眩に襲われ、今にも倒れそうな自分を叱咤する。唸り声を上げながら藻掻くカウリオさんを離すことは出来ない。彼に今突撃されたら、もう避けられない。


 汗が地面に落ちて、濃い円形のシミとなる。


 あぁ、気持ち悪い。


 これからどうする。りず君を直ぐに回収して、空に逃げてシュスから遠ざかる。そう、それがいい、単純に行こう。考え過ぎたら駄目になる。


 ここに来る前も手合わせになったら逃げようと決めていたわけだし。矢筒の紐を切ってしまったことは謝って。怪我をさせかけてしまったことも謝罪しよう。


 酸素が回り始めた頭で考える。


 目の奥が痛い。目の前が発光してる。呼吸も苦しくて、喉からは変な呼吸音が漏れた。それが遠くに聞こえて、体の重心も分からなくなっていく。


 自分の体調不良に気づいた時、つんざくようなカウリオさんの咆哮と、りず君の悲鳴が聞こえた。


「ッ、カウリオさッ、りず君!」


「氷雨逃げろぉ!!!」


 唸り声を轟かせたカウリオさんがりず君を引き抜こうと肩を怒らせる。その光景に全身から血の気が引いた。


 駄目だ、今すぐ飛び立て、氷雨。


 甲高い相棒の声は住人さんの声にかき消されそうだったけれど、私達の耳には十分届いたのだから。


 逃げろ。


 私の膝は考えとは反対に立ち上がることをせず、ひぃちゃんの翼に力が入らない。私の喉が締め付けられたように痛くなり、笑顔が削げ落ちた。


「ッ、ひぃちゃん、りず君!!!」


「すみません、ひさめさ、ん……」


 ひぃちゃんの謝罪を聞く。


 杭になっていたりず君が岩肌から抜けて宙を舞う。


 力任せにりず君を抜くだなんて、予想出来ていなかった。


 りず君、危ないッ!!


「離れてりず君! 解除!!」


「おぉ……」


 りず君は私の言葉を聞いてくれる。鎖から針鼠へと戻った彼は落下して、カウリオさんは片膝立ちになる。


 手にはボウガン。矢は装填済み。


 私の体全体が熱くなり、汗が吹き出した。


 私は背中を向けられない。向けたらひぃちゃんとらず君が危ない。


 私に立ち上がって避ける元気はない。もう体が動かない。


 どうする、どうする、どうする。りず君。彼は落ちている。スローモーションみたいだ。どうする。彼を何かにッ


 目の前が発光する。酷い吐き気と目眩が私の体の自由を奪う。体が何の抵抗もなく前のめりに倒れ、左足横をボウガンの矢が通過した。


 地面に刺さる矢の音がして、それでも目の前が霞む。


 カウリオさんが立ち上がって、りず君に手を伸ばしていた。


 ――あ、


 目の前がブラックアウトして、瞬間、私は知らない部屋で目覚めてしまった。

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