第一章

第6話 開始

 

 チョーカーを巻いたのは、生まれて初めてだった。


 首の後ろでカニカンのような物を止めて、チョーカーを指先でなぞる。ピアスと同色の装飾はやっぱり綺麗だ。


 耳たぶに痛みなく埋まったピアスには驚いたけれど、一度抜いても穴は開いていなかったと言う不思議。


 目薬も違和感無く、視界良好だ。


 動きやすい服装を選び、履き慣れたスニーカーの汚れを落として自室で足を入れる。アミーさんの指定で、服は黒を基調としたものだ。


 首に鍵をかけて衿口えりぐちに仕舞う。あと五分で約束の時間だ。


 肩にらず君とりず君が乗ってくれて、背中にひぃちゃんが留まってくれる。


 りず君が、どこか感慨深く息を吐いた。


「とうとう来たなぁ、この日が」


「そうだね」


 笑ってりず君の鼻を撫でる。彼はくしゃみをしてしまい、私の笑いに声がついた。


「氷雨!」


「ごめんね」


 怒られたから、微笑んで謝罪する。りず君は頬を膨らませており、その可愛さに気が抜けた。


 ひぃちゃんの尾が私の首に回される。視線を向けると、お姉さんの赤紫色の瞳と目が合った。


 綺麗な目。宝石みたいだ。


「氷雨さん。どうか、ご無理はなされませんよう」


 それは――切願する声だった。


 心配で堪らないと言う声だった。


 口を結んだ私はひぃちゃんの顔に手を持っていき、お互いの額を合わせる。


 大丈夫、大丈夫だよ。


「勿論だよ、ひぃちゃん……ありがとう」


 笑って彼女の頬を撫でる。


 大丈夫、問題無い。


 私はちゃんと、自分が人間だって分かっているから。だから大丈夫なんだ。


 思いを込めてひぃちゃんから額を離す。聡明なドラゴンさんは少し目を伏せると、確かに頷いてくれた。


「行こう」


 部屋の電気を消す。仮眠はとったし、明日の準備も終わったね。


 電波時計が二十三時五十九分を示している。


 大丈夫だよ。


 行ったらアルフヘイムを観察して、ダミー祭壇を作る。


 それでいいから。それで大丈夫だと思うから。


 時計が全てゼロになる。


「ディアス軍、凩氷雨、アルフヘイムへ」


 呟いた瞬間――気づいた。


 この言葉でアルフヘイムに行けるって教えられはしたけれど、その先を、を、私は知らない。


 完全な確認不足。馬鹿やった。これだけ時間はあったと言うのに。


 心臓が一気に不安で握り潰されそうになった時――床に穴が開いた。


 え、穴って。


 理解した時には既に、私は穴に落ちていた。


 瞬く間に体が冷えて喉が締め付けられる。反射的にりず君とらず君を抱き締めると、茶色い針が腕に刺さって痛かった。


 とか思っている場合ではない。


 りず君が大きくした前足で、叫びそうな私の口を塞いでくれた。


 ありがとう、ごめん。そして落ち着け凩氷雨。


 これは只の穴ではない。当たり前か。これはアルフヘイムへ続く穴だ。別次元の世界に私を運ぶ道だ。


 体全てが闇に飲まれて、朧気にあった光さえ無くなる。思っていたよりも早くないと感じられる速度で沈んでいく私は、上に視線を向けて、自分の部屋への穴が閉じる瞬間を見た。


 あぁ、怖い。


 いいや怖くない、落ち着け。


 上下左右が暗くなった。


 あれ、私今、落ちてるんだよな?


 穴の中は不思議な空間で、生温い水の中に沈められたような、心地良いとは言い難い感覚に包まれている。


 息は出来る。それでも苦しい。


 目は見える。周りは暗い。いや黒い。


 足元を見つめていると、ひぃちゃんが翼を広げてくれた。りず君は私の口から手を離す。


「ありがとう、りず君」


「おう」


「ひぃちゃん、飛べそう?」


「……いえ、ここでは無理ですね。すみません」


「ううん、一緒にいてくれるだけで十分」


 ひぃちゃんの頭を撫でて、足元に輝く一つの光の粒を見る。それは徐々に大きくなっていき、私は眩い光源に包まれた。


 瞬間。


 弾けるように。


 空が波打ち吐き出される。


 ゆっくり進んでいたらしい体は重力に引かれて落ちる速度を格段に上げ、確かに上空と言える場所から落下した。


 その事実に全身が冷えた時、私の視界が光り輝く世界を映す。


 出かけた悲鳴を忘れさせた、その世界。


 目を見開いてしまい、輝きに視界を奪われる。


 下に広がるのは美しく輝く新緑の森。その中には、汚れなき白の建物の密集地。それは街のようで、中央には立派な白色の城がそびえていた。


 アミーさんはアルフヘイムの国を「シュス」と呼ぶのだと、教えてくれたっけ。


 雲らしき物からは輝く水が流れ落ち、見たことも無い鳥のような生物が飛ぶ。私を吐き出した空はどこまでも続く青さと不思議な透明感を持っており、何故だか鼻の奥が痛んでしまった。


 体は恐ろしい速度で落ちているにも関わらず。


 怖い筈なのに――私は見惚れてしまったのだ。


 落下がスローモーションのように感じられる。


 それほどまでに、この世界は美しい。


 美しすぎて、悲鳴も恐怖も奪われてしまう。


 話には聞いていた。アルフヘイムは宝石のようなのだと。幻想溢れる童話なのだと。全てが魅力的なのだと。


 けれどやはり、百聞は一見にしかず。


 目で見るアルフヘイムは、私の知っている言葉では収まらない。


 全てが輝く、鮮やかな幻想郷。


 私は頭から落ちていき、ひぃちゃんは大きく翼を広げてくれた。


 落下の速度が弱まり、体を整えられた衝撃によって遠くにあった意識が戻ってくる。


 目を瞬かせてから私は息を吸い、頬を叩き、周りを確認した。心臓が跳ねるように鼓動を刻み、顔は自然と笑ってしまう。


 ここは美しくて、鮮やかで、光に満ち満ちていて。


「綺麗……」


 呟きながら、私はひぃちゃんに頼んで森の中に下ろしてもらう。


 森は耳鳴りがしそうなほど静かで、顔を上に向けると瑞々しい青さを持った木々が空を隠しにかかっていた。


 それも、鳥肌が立つほど綺麗だ。


 木は私が見て育ったものと同じようなのに、葉も幹も枝も淡い光を零していた。発光でもするように。私の指先が、震える。


 触れてはいけない。触れられない。こんなに清らかなものに。


 口から出たのは、感嘆のため息だ。


 ひぃちゃん達も息を零しているようで、私と同じ反応だって安心する。


 最初に呟いたのはりず君だ。


「綺麗だなぁ……」


「ここが、アルフヘイム」


 ひぃちゃんもどこか納得するように呟いて、私は頷く。りず君を肩に乗せて、らず君は腕の中。


 鼻を引くつかせているらず君は、集落があった方を見てくしゃみをしていた。


 眩い空気を吸って、鳥肌が収まらない腕を私は摩った。


「……怖いな」


 零した言葉に自分で驚く。口を手で塞いだけれど吐き出した言葉が戻るわけでもなく、これは無意味な行動だ。


 綺麗は尊敬出来る。


 それでも、過ぎた綺麗は――恐ろしい。


 そんなことを学べるなんて、思いもしなかった。


「氷雨」


 りず君に呼ばれる。私は彼の鼻先を撫でて、微笑んだ。


 首から下げた鍵を襟から抜き、背の高い森の木々の間、芝生の生えた地面にさす。


 鍵は水にでも入れたのだと錯覚するほど抵抗なく地面に埋まり、私は息をゆっくり吐いた。


 手が微かに震える。


 それでも意を決するしかない。


 私は鍵を、右側に回した。


 鍵が光る。


 それを中心に放射線状の光の線が伸びる。


 線は一定距離まで伸びると円を描き始め、かと思えば空へと真っ直ぐ伸びていった。


 光りが交差して立体的に何かを描いていく。静かに、素早く、的確に。


 それらの動きが止まった時、立体図が物質へと変わっていった。


 暗い灰色――煉瓦のような材質だと思われる壁ができ、光を遮り、冷気を携え、異質が形を成していく。


 足元が冷え切った材質の物で円形に埋め尽くされた時、私はこれが祭壇なのだと理解した。


 床の中で、白い六芒星で区切られた内側が檀となる為競り上がり、六つの頂点に十字架がそびえる。交差した部分に円があるから、ケルト十字と言われる十字架か。


 掌を握り合わせることで、落ち着かない自分を落ち着かせようと試みる。


 壁は円の床の縁から垂直に建ち、十字架を隠してしまうほど高かった。屋根は無く、壁の一箇所だけ、扉のように四角く切り取られた出入口が存在する。


 十字架にはそれぞれ手枷と足枷がついており、床との付け根には蔦が巻き付いたような彫り物がされていた。


 私は全ての工程が停止したのを確認して、祭壇から出る。四角い穴を潜り抜けて。


 振り返れば、何の問題もなく出来上がっている――それ。


 六人の生贄を攫い、祀り、あやめる祭壇。


 祭壇の周りを囲う壁は砦のようで。


 微かに見える十字架の上の部分が、中にある異質さを滲み出している。


 美しい木々を背景にたたずむ姿は、余りにも歪で不穏だった。


 芝生や木々が祭壇を避けるようにしなっている光景が目に付く。自然から拒絶される異物。


 青い兎さんは「ここに晒せ」と言った。


 弱者が強者に勝てないと誰が決めたのかと、兵士の彼は言ったんだ。


「これが……祭壇」


「……なんか、グロいな」


 ひぃちゃんとりず君は小さな声を零し、十字架を見上げてる。腕の中で震えるらず君を撫でながら、私は祭壇を観察した。


 高さは三mと、少しくらいか。十分森の中には収まっているけれど、雰囲気が異質だからある種の遺跡のようだ。


 あの十字架に人を張り付けても絶対目立つ。六人揃った時に初めて祭壇は働き出すということで、生贄は殺さずにあそこに祀らなければいけないし。


 え、無理ではないだろうか。


 首を傾げてしまう。


 生きた誰かを十字架に張りつけた所で、暴れられたら周囲に気づかれる。


 アルフヘイムの住人さんに気付かれても手出し出来ないルールらしいが、ルアス軍の耳に入ったら不利だ。


 祭壇に再度入って歩いてみる。スニーカーの踵が煉瓦に当たり、軽い音を響かせた。


 澄みきる青さを持った空からは柔らかな陽光が降り注ぎ、それでも祭壇は光を拒絶するように暗く冷たいままだ。


 一つの十字架に手をついて見上げる。


 ……難しいな。なんと言うか、生贄をここに置いていくというのが。


 想像してしまう。


 生きたままここにはりつけにされる恐怖と、怒り。その感情で濡らした目で、生贄に選んでしまった人達は私を見つめるのだ。


 胃がねじ切れそう。自分だったら絶対呪う。理解出来ない理不尽を。平凡を崩した異端者を。


 彼らからすれば、ディアス軍は悪であり、ルアス軍こそ正義なんだろうな。


 私からすれば、こんなゲームを考えた中立者さんを悪だと思ってしまう感情と同じように。


「……誰でもいいのか」


 呟いて、考える。


 私が選ばれたのは気紛れだが、私が選ぶ誰かは気紛れでなくてもいいわけだ。


 どんな人なら殺せるか。


 どんな人を選べば良いのか。


 どう言った人ならば、


「――私は、苦しくないんだろう」


 声は寂しく祭壇の中に反響する。返事は無く、一人自嘲気味に笑った。


 結局私は私のことしか考えていないんだ。苦しくならないように、罪悪感を少しでも減らすことが出来る方法を模索しているのだから。


 何て浅はか。何て滑稽。あぁ、醜く汚い人間が。


 暗い塀の中で口を押さえ、目を伏せる。聞こえてくるのは風に揺れる木々の音と、努めて穏やかな私の呼吸音。


 その中で、空気を揺らす音が増える。


 見ると緋色の尾が私の頬を撫で、硝子が柔らかな緑色に輝く光景が目に入った。


 らず君が力を使ってくれている。私の中は、ささくれ立っていた場所が緩和していくような穏やかさに包また。


 ひぃちゃんの尾に頬を寄せる。反対側の肩からは、溌剌とした声がした。


「氷雨、大丈夫だ。下は向くんじゃねぇ、前を見ようぜ」


「りず君……ありがとう」


 笑ってりず君の額を指先で撫でる。彼は嬉しそうに、目を細めてくれた。


 ひぃちゃんとらず君にもお礼を言う。


「ひぃちゃん、らず君、ありがとう。もう大丈夫だよ」


「はい、氷雨さん」


 ひぃちゃんは笑ってくれて、らず君も頷いてくれる。淡い輝きは消えていき、私は静かに息を吐いた。


 よし。


 祭壇から出る。日は高い。ここは美しい。


 頬を撫でて、髪を揺らした風は心地良い。


 前だけ向いていろ、凩氷雨。


 私はらず君とりず君、ひぃちゃんの額を指先で撫でてから、自分の鍵を三回叩く。すると、目の前にはホログラムのようなアミーさんの上半身だけが映し出された。


 一瞬驚きで息を飲んだが、もう固まるのは無しだ。


 私は、笑う。


「こんにちは、アミーさん」


「こんにちは氷雨ちゃん!! 早速祭壇を建ててくれたんだね!!」


「はい。ぁの、よかったら今私がいる場所がどんな所か、教えていただけませんか?」


「勿論!! ちょっと待ってねー!」


 アミーさんはいつも通りだった。いつも通り元気で、いつも通り明るくて、いつも通り全力で喋ってくれる。


 そんな彼の「いつも通り」に安心する私は、気づかないうちに毒されていたようだ。


 感想を抱きながら、「おまたせ!」と会話を再開させてくれたアミーさんに微笑む。


 大丈夫、笑えるよ。緊張し過ぎていないよ。落ち着いているよ。


 そんなの嘘のくせに。


 黙ってろ弱虫。


 頭の中で不安がる自分を黙らせて、アミーさんの陽気な声を聞いた。


「氷雨ちゃんが今いるのは、ブルベガーの丘とフォーンの森の境目だね!!」


 ブルベガーの丘とフォーンの森。


 その名称を聞いて、私はポケットからメモ帳を取り出す。アミーさんが教えてくれた、アルフヘイムのことをメモした束。


「出たな氷雨ちゃんの心配性ノート!!」


 笑うアミーさんに苦笑いして頁を捲れば、「ここだ氷雨」とりず君が小さな前足で示してくれた。


「ありがとう、ぇっと……」


 まずは「ブルベガーの丘」


 狼のような風貌と牛に似た角を持った、ブルベガーと呼ばれる種族の方が住んでいる地域。悪戯好きで無意味な殺生はしない方々だが、一度戦闘が必要だと判断された場合は大分好戦的になるらしい。


 宗派はディアス派。シュスに近づく戦士を見ると手合わせをしたくなる質だとか。私はしたくないぞ。


 次に「フォーンの森」


 山羊のような下半身と人型の上半身を持つフォーンと言う種族の方がおられる地域。彼らは自然を愛し、血を嫌い、礼節ある姿勢で他者と接する温厚な方々だとか。


 宗派はルアス派。戦士に対する態度はいくつかあるシュスでそれぞれで違うらしい。


 シュスとは、アルフヘイムでの国を表している。


 大きさは各シュスによって違い、その土地特有の鉱石を使って建物を建て、商いを行い、ルールを作る。


 唯一の共通点は、シュスの中央に必ずお城を建築することなのだとか。


 アルフヘイムには沢山の種族の方が住まわれており、彼らが住む地域もそれぞれ種族さんによって異なった習慣がある。


 私達で言う所の、人間には人間の、猫には猫の、鳥には鳥の、鯨には鯨の住みやすい条件があるということと等しい。


 決められた地域の中にシュスはいくつでも建てることができ、一つのシュスでその土地全ての方が住んでいる場所もあれば、十以上のシュスが存在する場所もあるのだとか。


 ルアス軍が統治している筈なのにディアス派のシュスがあるのは不思議だったが、アミーさん曰く、ルアス軍の方々の統治とは所謂観察のことらしい。


 それぞれにそれぞれの生き方があるからと言う理由で口出しはしない。ルールは各シュスに任せるスタイル。


 何を信仰しようが、何処で誰が野たれ死のうが、全て自由なのだとか。


 それを統治と言うかどうかは分からないが、アミーさんの機嫌が話してくれるうちに悪くなっていったのだけは確かだ。


「成程なぁ……」


 自然と口は笑った形を保ち、視線を上げる。


 鍵は勝手に宙に浮き、アミーさんを映している。


 な自分の順応性に内心呆れて自嘲した。アミーさんは変わらず溌剌と声を発し、人差し指を立てて兎の被り物の頬を押している。


「今の氷雨ちゃんの位置だったら、フォーン・シュス・フィーアかブルベガー・シュス・アインスが近いね!」


「あ、ありがとうございます」


 お礼を言って、メモ帳にまた目を戻す。


 まずは「フォーン・シュス・フィーア」


 フォーンの森に四つ目に出来たシュス。


 王政が取られていて、戦士には過激な場所らしい。戦士は異端者で、罰することが自分達の正しさだとシュスの全員に王様が言い放ち、私達を見つけた場合は捕まえて火刑にするのだとか。戦士は本来あるべき宿命や使命を放棄した許されざる存在で、そんな者達は認めない姿勢らしい。


 血が嫌いなのではないですかと思いはしたが、アミーさん曰く「ルアス派過激思想!」とのことなので、例外的なのだと理解しておいた。


 メモ帳の文字を追いながら、私に高らかとアルフヘイムについて語ってくれたアミーさんの姿を思い出す。


 彼が与えてくれる情報に、嘘はないと思う。


 けれども急に火刑だと言われても、私のお花畑な頭は理解してくれない。正直言えばそんなもの嘘だと言って欲しいところだったが、アミーさんは淡々と、軽々しく様々なことを教えてくれた。


 アルフヘイムで死ねば本当に死んでしまう。


 あぁ――死とはこんなにも近くに、転がっていたのか。


 足元が揺らぎそうになって、現実から目を逸らす。もう一つのシュスについて確認しよう。


 純粋な力で繁栄している「ブルベガー・シュス・アインス」


 七日経つ事にシュス内で闘いが行われ、優勝者が次の七日間を王としてシュスを治めるのだとか。七日統治し、一日闘い、また七日強者が君臨する。シンプルイズベストなんて感想を抱いた自分が怖い。


 どちらに向かうべきか、頭を捻る。


 変革の年の為、戦士がアルフヘイムに来ていることは全住民の方の耳に入っているそうだから、今フォーン・シュス・フィーアに向かうことは自殺行為ではなかろうか。まだブルベガー・シュス・アインスに向かった方が、最初は心臓に悪くない気がする。


 手合わせを申し込まれたら逃げてしまおう。勝ち目なんてないし手合わせなんて恐ろしいから。観察だけさせてください近づきません。そうだそうだ、ブルベガーの丘に行ってから、フォーンの森に戻ってこよう。折角今丘に近いならば。


 なんて、怖いと怖いを比べて、より怖い場所に行かない為の時間稼ぎをする。


 その口実の何と苦しいことか。


 いや、それでも実際丘が近いならば行けばいいではないか。火刑になんてされたくない。聞いただけのフォーン・シュス・フィーアが私は怖い。


 弱虫。


 耳にしただけの情報で恐れてごめんなさい。


 逃げ腰でこれから先どうするのさ。


 それでいいよ。そういうものだ。


「ブルベガー・シュス・アインスに行こうぜ、氷雨」


 りず君に言われる。私が口に出すよりも早く。一緒にメモを見返していたひぃちゃんも続いてくれた。


「私も賛成です。初日から火刑にされる恐れのある場所には行かず、少し様子を見るべきかと」


「僕も賛成だよ! 危険は避けてなんぼだから!! さぁ進め〜氷雨ちゃん!! あ、手合わせには気をつけてねん!」


 アミーさんは拳を突き上げる。私は驚いて、苦笑してしまった。


「はい、ありがとうございます」


 頭を下げてメモ帳を仕舞う。ひぃちゃんは背中で翼を広げて、私の腹部に尾を巻いてくれた。アミーさんは手を振ってくれる。


「いってらっしゃい氷雨ちゃん。また何かあったら小さいことでも声掛けてね!! 期待してるよ!!」


「分かりました、よろしくお願いします、アミーさん」


 笑ってお辞儀して、アミーさんは「まったねー!」と消える。鍵は支えを無くしたように落下し、私はそれを仕舞っておいた


 ―― 期待してるよ!!


 期待。期待か。


 私の中でアミーさんの声が反響する。


 ひぃちゃんが力強く羽ばたいて、私の体が浮く。


 期待なんて、されたことなかったな。


 私は、透き通る空へと飛び上がった。

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