第2話 誕生

 

 帰宅したら青い兎の被り物をした変質者が玄関で待っていたなんて、笑い話にもなりはしない。


 何なら扉を開けたら過去だったとか未来だったとか、はたまた別世界だった位スケール大きくいけばいいのに。


 いや嫌だ。普通が一番だよ馬鹿。異世界も過去も未来も今の自分を保てなくなるだけで良いことなんて何も無いんだから。と言うよりも今は現状をどうにか打破すべきだろうが能天気。


 この人何者なんだ、何処かにサーカス団でも来ているのかな。タキシードなんて初めて見た。感想言ってる場合かど阿呆。


 どうしようも無いほど状況整理が出来ない私――凩氷雨は、現実を受け止めることが出来ていなかった。


 目の前にいる怪人は、ご飯を食べて、お風呂に入れて、布団で眠れる普通に幸せな生活を壊す何かを持っている。そう感覚が言っている。人間が持つ本能とでも言うやつか。


 あぁ、駄目だ。頭が回らない。声も出ない。顔だけが口を引き結んで笑う。


 兎さんが、動く。


 駄目だ逃げろ。


 瞬間、弾かれたように私は家の中に駆け込んだ。


 頭の中で警鐘が鳴っている。あれは駄目だって。近づくなって。


 スニーカーが踵に引っかかったけれど、もつれるように脱いだ。脱ぐ必要があったかどうかは分からないけれど、只の習慣だった。


 家の中は靴を脱ぐ。


 そういう風に、日本人として育った私は出来ている。


 リビングに駆け込んでドアを閉め、携帯を両手に握った。誰かに助けを。誰かに助言を。どうすることが正しいか。何をすべきなのか。無意識に髪を掻き毟りながら緊急通報することにした。警察のかたに迷惑をかけない人生でいたかった。


 それでも今、かけないわけにはいかないよ。しっかりしろ。


 震える指で画面を触る。


 そこで気がついた。意味が分からなくて、口から震える吐息が零れ落ちる。理解が出来ず、笑顔が剥がれ落ちた。


「ん? 何してるの?」


「ぁ……」


 正面から赤い硝子の瞳に覗き込まれる。私の口は、呼吸とも呟きとも取れる音を漏らしてしまう。


 人が発しやすい母音だったかな。弱々しく空気に溶けそうな声だったな。なんて、他人事かよ。


「あれれ、氷雨ちゃん」


 ドアに背中を預けて、力が抜けるように座り込んでしまう。


 足に力が入らない。思考が散漫だ。リュックサックの肩紐はずれ落ちて、携帯の画面には「圏外」と表示されていた。


 家で圏外なわけがないのに。なんで、どうして。


 頬から汗が流れる。


 駄目だ、何も理解が出来ない。


 兎さんが目の前にしゃがんで首を傾げている。夕焼けの光が、彼の被り物の半分を照らしていた。凹凸のある被り物に濃い影が出来て、異質さが極まっていく。


 あぁ、駄目だ怖い。


 叫ばなくてはいけない。助けを求めなくてはいけない。


 それでも、喉は貼り付いたように言葉を発する機能を失い、正常ではない呼吸しか許さなかった。


 なんでさ、私の喉よ。仕事をして欲しい時に何故働かない、役立たず。


 白い手が伸びる。


 反射的に目を閉じて、何かしらの痛みを待った。


 しかし与えられたのは――穏やかな抱擁だった。


 口から空気の塊を吐き出してしまう。背中をあやすように叩く手は大きくて、優しい動作しかしない。頭に兎の被り物で隠した顔を乗せられて、私の視界は兎さんの肩に埋められた。


 頭がもう、馬鹿になりそうだ。


「ごめんごめん、怖がらせちゃってたんだね。僕って鈍くって、本当に嫌んなっちゃうなぁ」


 彼は独り言のように呆れた声を零している。服越しに伝わる体温は温かい。散らかっていた頭の中が少しだけ整理されていき、私は自分の震えが落ち着いていくのを感じた。


 息を吐き出して、吸って、目を閉じる。それから開けて、どうにか最低限の機能を再開させた喉を動かした。


「ぁ、なたは……誰ですか。うちに大金なんて、ないと思うん、です。私を襲っても得なんて、ない、し、両親に面倒を、かけてしまうだけ、なんです。お願いします、強盗とか、誘拐とか、殺人とか、やめて下さぃ。あぁ、ごめなさぃ、すみません……」


 支離死滅な、どもった言葉を吐き出してしまう。兎さんは離れて、心底不思議そうに首を傾げていた。大きな手は私の頬を柔く撫で、可笑しそうな声がする。


「そんなそんな、僕は氷雨ちゃんを誘拐しに来たんじゃないよ。殺しなんてもってのほか。そんなことよりも重要で大切な報告に来たんだから!」


 誘拐や殺人をそんなこと扱いする所がまた怖い。なんて言いません。大丈夫です飲み込みます。


 兎さんは私の両手を流れる動作で掴み、立ち上がるよう促される。拒否出来ない動きだ。


 視界が揺れる。足がふらつく。


 また、頭が散らかってしまうではないか。


「おめでとう!! そして残念!! 凩氷雨ちゃん、君はアルフヘイムの戦士に選ばれました!! さぁ、僕の為に、僕達の為に生贄集めをしておくれ!!」


 踊るように足が動かされる。言葉の意味が理解出来ない。私の知っている言葉ではないのかもしれない。


 私の口からは「戦……士……?」と、情けない声が出てしまった。


 駄目だ、聞いてはいけないって思っている癖に。何で聞いてしまったんだ。私の馬鹿野郎。


 兎さんは、私の考え無しの言葉を待っていたように笑うのだ。肩と耳を揺らして、愉快そうに。


 あぁ、きっとこれは悪い夢だ。


 思いながら、私は目の前にある硝子の瞳を見つめた。


「そうさ、戦士!! 君にはディアス軍の一人として、六人の生贄を集めてもらう!! そしてアルフヘイムに平和を!! 世界に安息を与えておくれ!! 大丈夫簡単だよ、たった六人殺すだけでいいんだから!!」


 螺子ねじが外れたように笑う兎さんは幸せそうで、対して私は軽い眩暈に襲われた。


 平凡が崩れていく。普通が消えていく。いや、もしかしたら今まで当たり前だと思っていたことは当たり前ではなかったのかもしれない。普通だと思えることが、奇跡だったんだ。


 足からまた力が抜ける。兎さんは腰を支えてくれる。


「あ、嬉しくて腰抜けちゃった!?」


 的外れなことを言いながら。


 何故そう思うのだろう、私とこの人の感性はどこかが、もしくは全てがズレている。そう思わざるを得なかった。


「ぃみが、分からないです……」


 震える声で言ってしまう。今にも消えそうな、勇気の灯火をたぎらせて。


 口から言葉が溢れ出る。栓を失った蛇口のように、声が流れ落ちる。


 口も顔も引き攣って、頭が痛い。今は間違いなく痛い。痛いのは嫌なのに。


「戦、士……? アルフ、ヘイム? 何、それ、なんで、わけ、わかんない、生贄ってなに、ディアス軍なんて知らない。嫌だ、離して、嫌だ、何、何が言いたいのッ! もう嫌だ、こんな滅茶苦茶な不安、吐きそうだッ! 夢なら覚めろ!! 早く、覚めろ!! こんな悪夢は見たくない!!」


 藻掻いて叫んでしまう。手を挙げて、足を動かして、危険地帯から脱しようと抵抗する。


 夢なら覚めて。お願いだから戻ってきて。愛しく尊い現実よ。悪夢なんて大嫌いだ。夢の中くらい心配事なく息をしていたい。


 そんな願いも抵抗も虚しく、そんなもの関係なく、得体の知れない存在は私を見下ろして、さも当たり前と言わんばかりの口調で言うんだ。


「え、やだなぁ、夢なわけがないじゃん? これは現実だよ氷雨ちゃん! そして君には拒否権もないよ! これは決定事項だからね!! 当選おめでとう、選出されて残念。あぁ愛しいな、僕の駒!! どんな力が使いたい!? 心獣しんじゅう系がいい? それとも体感たいかん系かな! どっちだって大丈夫だよ!! どちらかと言えば僕は心獣系の方が好きなんだけど!!」


 あぁ、堪忍袋の緒が切れそう。


 私の顔に熱が集中する。言葉が理解出来ず、憤りと気持ち悪さだけが私の胸を埋めた。淀んだ感情が思考を鈍くさせ、私は強く言葉を吐いていく。


「訳が分からないって、言ってるじゃないですかッ!!」


「じゃあ僕の左右の手それぞれに体感たいかん心獣しんじゅうの玉を入れるね!! 選んだ方の力にしよう!!」


「離せ!!」


 ここで話を聞かなかった私は、馬鹿なんだ。


 どうしようもない馬鹿なんだ。


 急に離してもらえた体が嬉しくて、目先の自由しか得ようとしていなかった。


 抵抗していた私は兎さんの握られた左手を弾き、白い手袋が開く様子が視界に映る。


「――決定」


 私の目が〈心獣〉と書かれた玉を捉えた。それが兎さんの手袋から落ちていく光景が、ゆっくりと頭に入ってくる。まるでスローモーションを見ているように。


 これは夢だ。悪い冗談だ。現実なわけがない。


 ずっと頭の中で回っていた否定の言葉が止まった。


 兎さんの左手は私に伸びて――鳩尾みぞおち部分に埋まる。


 酷い違和感が体を襲って、後ろに倒れるしかなかった。それを追うように兎さんは上に乗り、左手を沈みこませてくる。


 理解が出来ない。何が起こっているんだ。痛く無いのに沈みこんでくる腕が気持ち悪い。何をしているんだ、一体全体訳が分からない。


 これは夢だ。夢なんだ。そうでなくては説明がつかないから。こんなことが起こる原理があるわけがないんだから。嘘だ、これは嘘だ、嘘なんだ。


 喉から悲鳴は上がらない。それでも、表情も、体も、恐怖と違和感に包まれて硬直してしまう。


 兎さんは左手を抜いて、天井に掲げた。何か異物を掴んだ手を。


 そこには――硝子で出来たハートが、握られていた。


 夕焼けを反射して光る硝子はひび割れて、中には緋色の液体が入っている。波打つ液体は裂け目から外に零れ、兎さんの白い手袋を染め上げていた。


 日常が壊れていく音がする。


 木端こっぱ微塵みじんに破壊されていく。


「成程。氷雨ちゃん、君の心は硝子のハートか」


 彼が呟く声は、私の耳には届かない。


 腹部から抜き出された硝子のハートは全面ヒビ割れて、隙間から零れ落ちる液体が私の頬に落ちる。


 冷たくて、拭う前に溶けるように消えていく。緋色が霧状になって空気に溶けていく。


「いいねいいね、綺麗だよ」


 兎さんの声が遠くに聞こえた。それは何処か不鮮明で、呼吸回数が増加してしまう。視界がぼやける。泣いてしまいそうになって、それを堪えて奥歯を噛み、口角を無理矢理上げた。


 笑いたい。笑い飛ばしたい。自分を守る何かが欲しい。苦しいからこそ苦しいという顔をしたくない。


 怖い、気持ち悪い。笑え、笑え、笑え、守れ、笑えよ、自分。


 それに同調するように、硝子のハートに亀裂が増えた。


 兎さんは汚れていない手を伸ばして私を起こしてくれる。優しく優しく、壊れ物を扱うように背中を撫でられてしまう。その優しさを受け入れられない私は鳥肌を立てて、歪な笑顔を保てなくなってしまうのだ。


 あぁ、怖い。なんだ、これは。一体何なんだ。


「驚かせちゃったね氷雨ちゃん、大丈夫だよ〜、ほら!! ゆっくり深呼吸しようね!!」


「……なんです、か、それ……もう、意味が……ついて、いけなぃ……」


 右腕で自分の体を抱き、左手で頭を抱える。兎さんは私の目の前に割れ硝子のハートを持ってきて、それにはまたヒビが入っていた。


「頑張ったんだね。いや、頑張ってるんだね、氷雨ちゃん」


「……は、」


 口から空気が漏れる。


 優しい声が降ってくる。


「硝子のハートは、壊れやすいのに無理をする人の象徴だ。君はどれだけこの硝子にヒビを入れて、壊して、歩き続けてきたんだろう。本当に君は、」


 そんな言葉、言わせない。


「うるさい黙ってッ!」


 気づけば私は、兎さんの手を弾いて立ち上がっていた。


 何が頑張っているだ。誰が壊れやすい人だ。無理をする人だ。壊してないし歩いてないし無理なんてしていない。分かったような事を他人がベラベラ語るな吐きそうだ。


 息を荒らげて後ずさる。何処を見ればいいのか分からない。理解されようとすることが気持ち悪い。口調が荒くなってしまうではないか。


 兎さんは肩を竦めて、落ちた硝子のハートを拾い上げた。


「駄目だよ氷雨ちゃん、自分の心を守れるのは自分しかいないんだから」


「それが私の、心だって言うんですか」


 そんなヒビ割れた硝子のハートが、私の心。


 そんなわけが無い。硝子のハートなんて御伽噺おとぎばなしの産物だ。物の例えにすぎないではないか。


 そんな壊れ物を私の心だなんて言って欲しくないのに、心が可視化出来る筈がないのに、兎さんは肯定する。


「そうさ、普段は見えない心を具現化したもの。それがこのハートさ。そしてこれから氷雨ちゃんの心を、僕は心獣に変えるんだ」


「な……は……しん……じゅ、う?」


 譫言うわごとのように呟いてしまう。聞いた事も無い単語を。


 私は、膝をつく兎さんを凝視した。


 理解出来ない事が続くと、恐らく人は考える事を放棄するのだ。少なくとも私は放棄した。兎さんの前に座り込むことによって。立つ気力が失せたと言っても過言では無いだろう。


 穏やかな声が与えられ、私はそれを耳に入れる。


「心獣を作ったら、一から全部説明してあげるからね」


「……は、ぃ」


 反射的に返事をしてしまった。


 こんなもの、夢に決まってるのに。


 兎さんは頷き、硝子のハートを両手に持ち直した。


「まずは、中の液体から一匹」


 硝子のハートが輝いて、緋色の液体が宙に浮いて出てくる。それは徐々に形を成していき――小さな緋色のドラゴンに姿を完成させた。


 落ち着き始めていた心臓が、また早鐘を打ち始める。


「次に、ヒビから一匹」


 次にヒビが発光し――茶色い針鼠になる。ヒビは硝子から分離した為、兎さんの手には綺麗な硝子のハートが残っていた。


 喉が痛い。目の前が歪んだ。


「最後に、硝子から一匹」


 最後に硝子から生まれたのは、茶色い針鼠と対になるような――透明な針鼠だった。硝子細工で出きているようで、酷く儚げな存在に見える。


 手足が冷えていく。震えてしまう。


 なんだ、これは。


 何が起こったんだ。


「この三匹が、氷雨ちゃんの心獣だよ」


 動かない三匹を兎さんが私に抱かせる。腕の中で三匹が拍動するのを服越しに感じ、私はいよいよ自分に嘘がつけなくなった。


 食い入るように三匹を観察する。


 茶色い針鼠さんの針は鋭利に尖り、硝子の針鼠さんの方は先が丸く削れていた。


 ドラゴンさんは背中にある翼を畳み、首も尻尾も長い。本の挿絵で見るよりも、実際のドラゴンの鱗も姿も綺麗だな。なんてね。


 この温かさは、夢ではないだろ。


 この不安に押し潰されかけている苦しさも、確かに私が感じている現実だろ。


 私の顔はまた、引き攣るように笑い始めた。


 変な笑い声が口から零れた気がしたが、気の所為だったかもしれない。


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