僕らは痛みと共にある
藍ねず
序章
第1話 襲来
変なものを見た。
アルバイトの帰りだった。
赤信号で止まっていた時、向かいの通りに「それ」はいた。
自転車のハンドルを握る手に、一瞬力が入ってしまう。
視界に入っている青い兎の被り物。黒いタキシードを着た体は細く、周囲にいる人達よりも頭一つ分大きな背丈をしていた。
赤い硝子の双眼が私に向いている。感情も表情も読み取ることが出来ない瞳が、確実に私を映していると伝わってくる。
自意識過剰ではないと思うんだ。
処理し切れない違和感を持つ「それ」から目が離せなくなっていた時、目の前を大型トラックが通り過ぎた。
「……ぁれ、」
自然と声が零れてしまう。
向かいには長身の青い兎などいなくて、私は額に手の甲を押し当てた。
……バイトで目が疲れてるのかな。あんな変な人、立ってるだけでも周りの人が騒ぐ筈だ。駄目だな。しっかりしろ自分。
頬を叩いて前を向く。早鐘を打つ心臓は無視をして。
平凡ではない、違う何か。
予定とか分かりきっていることではない、不確かな何か。
それに平和な時間を崩されそうで、消化出来ない不安をかき消す為だけに息を長く吐いた。
信号が青に変わる。
自転車を押して道路を渡り、周囲を何気なく見てしまう。視界には兎も青も入らなかった。
大丈夫、何処にも変な所なんてない。大丈夫、大丈夫。忘れよう。そう、最近ファンタジー小説を読んでいるから、何かしら影響したんだ。
言い聞かせてまた前を向く。自転車を漕ぎ出すと、冷たい空気が頬を撫でていった。
別のことを考えよう。あぁ、今日の晩御飯は何にしようか。
思って、考えて、帰宅路ではなくスーパーへ向かう道を進む。
確か挽肉があったからハンバーグでも作ろうかな。ポテトサラダでも添えたらそれっぽくなりそうだし、うん、そうしよう。
献立を考えて少し落ち着く。お母さんもお父さんも帰りが遅いから、だいたい晩御飯の当番は私だ。お米はあるし、卵は買うし、挽肉を解凍しなくては。
冷蔵庫の中を思い出しながらスーパーに到着したら、入口横のベンチで天を仰いでる人が視界に入った。三人がけの休憩場所を完全に占領している、金の長髪を束ねた同い年位の男の子。
一目見た印象は「ヤンキー……さん、でしょうか」だ。
あ、頬から血が出てますね。喧嘩でしょうか。事故では、無いと思うんです。雰囲気的に。
一瞬彼と目が合った気がしたが、私の気のせいかもしれない。
視線を何となく逸らすと、周りからベンチの人を怪しむ声がした。
何歳くらいだ。学生だろう。怖いから近づかないでおこう。
自転車に鍵をかけて籠に入れていたリュックサックを背負う。横目に確認した男の子は、周りに興味が無さそうだ。
手の甲まで怪我してるんですか。壮絶な喧嘩だったんですか。大丈夫では、ないと思うんですけれども。
私とは違う人。顔も名前も知らないし、私は暴力ごとなんて縁遠い。
気にしなければいい。無視していい。声をかけた所で私に利益はない。何て声をかければいいかも分からないし、そんなことする必要性がまず無い。大丈夫、他の人だってそうなんだから。
でも怪我してるよ。
だからなんだ。
私は、動きかけた足を止めてしまった。
あぁ、面倒くさい。
いつもそうだ。何か視界に入って、気になったら頭から離れなくて、余計なことをしたくなる。苦しいな。気づかなければよかった。スーパーなんて寄るべきではなかった。こんな面倒くさい性格、大嫌いだ。
足が前に出かけて、それでもその場に留まってしまう。けれどもやっぱり出しかけて、戻して、コンクリートの上を彷徨わせてしまう始末だ。
掌に汗をかいて、心臓が早く脈打ち始める。何となく目眩がして、気づけば口内は渇いていた。
頭の中で私の意見が忙しなく喧嘩をする。
ベンチの子なんて気にしなくていい。大丈夫、気にしなくて大丈夫。私には関係ない。
怪我をしている。絆創膏なら持っている。声をかけるだけ。大丈夫だって聞けば安心出来る。私が、安心出来る。
迷惑だったらどうする。
痛くて動けないんだったらどうする。
自己中のお節介が。
それでも見逃す奴にはなりたくない。
あぁ、嫌いだ。こんな小心者の私が。心配しなくていいことを心配する私が。私は大嫌いだ。
自分なんて微々たる力しかないのだから、何もしなくたって誰も責めはしないよ。
うるさい、人を気にかけて悪いことなんてあるもんか。気にしたまま残り一日なんて過ごせるわけがない。
奥歯を噛んだ私は、ベンチに向かう。
大丈夫、歩き出したのだから戻れない。
入口は右だ。まだ方向転換しても間に合う。
いいや途中で投げ出す方が後味が悪すぎる。決めたんだから駄々をこねるな。
でもやっぱり余計なお世話ではなかろうか。迷惑になってしまわないだろうか。心配だ。不安だ。止めとけよ胃が痛い。
風が、自転車を漕いでいる時より冷たく感じた。震える手はリュックサックから絆創膏の箱を出す。
備えあれば憂いなし。心配性は何でも備えてしまうんです。
口が勝手に弧を描き、笑みを張り付ける。
大丈夫、笑顔は正義だ。なんて、馬鹿言うなよ。
頭の中で騒ぎながらベンチに辿り着くと、同い年位の彼が私を見てきた。
ぅあ、鋭い眼光ですね。凄く切れ長だ。蛇に睨まれた蛙になってしまいそうです。いやいや、大丈夫だ落ち着け自分。
私の顔は笑みを浮かべ続けていた。
「……ぁの」
「……なに」
低い声。私の背中を冷や汗が流れた気がして、絆創膏の箱を手の中で揺らす。男の子は目の縁も殴られたように青くなっており、私は張り付きそうな喉から声を絞り出した。
「け、が、されているの、でしたら……絆創膏、い、かがで、しょう」
「……はい?」
失敗だろ。やっぱり声をかけるべきでは無かった。戻れ。帰れ。もう止めろ。
ここまで来たのに。だって怪我してるし。やっぱり手当が必要だと。
止めろ、無理だ、怒らせる。怖い。不安だ、嫌だ、逃げ出したい。
私は声が裏返らないように細心の注意を払いつつ、笑って髪を引っ張り、絆創膏の箱を再び揺らした。
「も、勿論無料です。お金なんて取りませんし、け、怪我はぜひ、手当をしなければと思う訳でして。あ、必要な分だけ取って頂いて大丈夫ですので、ぇっと、ぁの、すみません、気になってしまって。大きなお世話でしたら言っていただければと思うんです。はぃ、ぁの……大丈夫、では、ないですよね。すみません……」
何を言っているか分からなくなる。何を言いたいのかも分からなくなる。目の前が発光して気持ち悪い。冷や汗が流れるのが分かる。
どうしよう、どうしよう。やっぱり私は大きなお世話しか出来ないんだ。無駄なことをする暇があったら買い物して帰れば良かったんだ。
周りの景色が遠くなったり近くなったりして、激しく気分が悪くなる。後ずさりそうにもなったが、それだけは何とか思い留まった。
そうしたら、目の前の男の子が立ち上がる気配がするから。
肩が引き攣る。視線が定まらない。顔を上げることが出来ない。
何か言われるだろうか。殴られるだろうか。呼吸の仕方ってどうだっけ。吸って、吐いて、吐いて、違う、吸って。
きっと今の私は口だけ笑っているのだろう。目は見開いている気がする。
震える手の中から絆創膏の箱が消える。それに驚いて反射的に顔を上げると、男の子と視線が合った。
背が高いですね。成長期って素敵だ。
金髪が陽の光を受けて、輝きながら揺れていた。
「……あぁ」
彼の声が降ってきて肩が跳ねる。両手を握り合わせて息を吐くと、静かな声が鼓膜を揺らしてきた。
「怖いのに、どーも」
それは違うんですと言わなくてはいけない。
私が怖かったのは貴方ではなく。
「め、迷惑では、ありませんでしたか」
貴方の迷惑に、なっていなかったか。
余計なお世話ではなかったか。お節介ではなかったか。それが只々怖かった。
ごめんなさい、ごめんなさい、分からないんです、ごめんなさい。
小さな声で問いかけてしまう。すると予想に反して、呆れたような声が降ってきた。
「迷惑じゃねぇよ、助かる。ありがとな」
その言葉で、どれだけ私が救われるか。
安心出来るか。
あぁ――息が出来る。
目を見開いて、今度は自然と笑ってしまう。
大丈夫、引き攣ったように笑う時間は終わったよ。
「それなら……よかった」
安堵の息を零してから慌てて頭を下げ、そそくさと
絆創膏があれば、少しは怪我の手当が出来るのではないだろうか。彼の迷惑にはなっていなかった。私がしたことは少なくとも、間違いではなかったのではなかろうか。
大丈夫、安心しよう。心配する時間は終わったよ、自分。
動悸を落ち着かせながらスーパーの卵コーナーに向かうと、特売セールに挑戦しに来た方々に揉みくちゃにされてしまった。
皆様恐ろしい。おひとり様二パックまでの筈だが私は一つしか掴めなかった。あれはもう意思を持った壁だ、波だ。一匹の蟻が挑んでも弾かれるだけですよね。足踏まれた痛い。名誉の負傷なんて言えるものでもないな。卵割れなくて良かった。
若干肩を落としながら冷蔵庫の中を思い出す。牛乳がもうすぐ無くなるし、あ、シャンプーの詰め替えが無いんだった。そうだそうだ。
重くなる籠を持ち直してレジに向かう。毎回レジ員さんの的確なレジ打ちに感心していると思ったのは、袋に買った物を全部入れ終わった時だった。
袋が二つあるので、リュックサックは背負って帰ろう。今日も晩御飯一人だな。小さいハンバーグしておいたら、お母さんとお父さん、お弁当にでも入れてくれるかな。
指先を使ってポケットから自転車の鍵を出し、駐輪場に向かう。ハンバーグを何個作ろうかと思案しながら。
「よぉ」
何故私の自転車が占拠されているかは分からないが。
いたのは絆創膏を渡した男の子。自転車に跨がって、手に絆創膏を貼りながら彼はそこにいる。
あれ、あのグレーの自転車って私のではないかしら。もしかして彼のかな。そうか、そうだな、きっと同じような自転車なんだ。笑って会釈をしておこう。
良く言えば前向き、悪く言えば逃げ腰で結論を出した時、彼が座る自転車の籠が目に入った。少し擦れている丸い角。
私の自転車も同じ部分、擦ってるんだよな。以前倒してしまった時に。
頬が痙攣しそうだったが、微笑みは勝手に維持された。
彼が座っているのは私の自転車だ。間違いない。しかし何故彼が私を待ち伏せているのかという理由については、やっぱり検討もつかなかった。
目眩がしそう。背中を冷や汗が伝う感覚がした。顔が反射的に笑みを浮かべ続けてしまうではないか。
「ん」
「ぇ、」
不意に投げられた黒い手帳。私は両手が塞がった状態でも何とか手帳を受け取り、目を瞬かせてしまった。
手の中にあるのは紛れもない私の手帳。予定とか学校の宿題とか色々書いてある物。とても大事なやつ。
それが投げ渡されたと分かった時、全身から血の気が引いた気がした。
真っ青な笑顔って傍から見たらどうなんだろう。いや今は気にするべきではないな。
「……ぁ、の、これ」
「落ちてた」
嘘だと言って。
目の前が発光して足が揺れる。
多分あの時だ。絆創膏出した時。
何で私はこんな個人情報しかないような物を落としているんだ。気づけよ馬鹿。
いやいやいや違う違う、そうではなくて。
手帳を拾ってくれたと言うことに、私の体からは緊張が抜け落ちた。
呼吸が楽になる。強ばっていた笑顔の力も抜ける。
あぁ、そうだ。焦って心配するよりも、それよりも。
私は今、確かに喜んでいるんだろうな。
だからこの感情を、きちん言葉にしなさいな。
私は苦笑を笑顔に変えて、お礼を口にする。
「ありがとうございます」
拾ってくれた。しかも、渡してくれた。通り過ぎてもいいものを見つけて、返してくれた。
この優しさはとても嬉しい。安心した顔は緩んでしまう。手帳の表紙を確かめるように指で撫でてしまう。その指先はもう、冷えていなかった。
男の子は自転車から下りて私を見下ろしてきた。
あ、絆創膏、足りるといいんですが。大丈夫でしょうか。ごめんなさい。
私がまた直ぐに別のことを心配し始めると、彼の低い声が問いかけてくる。柔らかな声だと、自然と思いました。
「名前、なんて読むんだ?」
名前。
言うんだ。ではなく、読むんだと言う言い回し。
これは見られてしまっている。手帳の最終ページに書いていた名前と学校と電話番号。
耳が熱くなるのを自覚しながら、私は笑い続けてしまうのだ。
大丈夫、名前を言うくらい問題ない。
「
「ふーん」
生返事をして男の子は歩き去ってしまう。多分もう興味がなくなったんだろう。気怠げな背中を見送って、肩から力が抜けてしまう。
急に荷物が重たくなった気がしたから籠に入れて、まずは手帳を仕舞おう。他に落としてる物はないね。
自転車の鍵を外して家を目指す。
さっきの子は右に行っていたから、追い越したりしないよう左の道を帰ろう。気まずい。とても。
オレンジ色に染まり始めた空は広い。夜が来るんだ。なんて、当たり前か。
それから二十分と少しぐらい漕いで、家に到着。定位置に自転車を止めて伸びをしたら、自分の影が長く地面に伸びる様が視界に入った。
少しだけ日が長くなったな。綺麗な夕焼け。これからご飯を作って、その前にお風呂の準備をして。
私は右手に買い物袋を全部持って、家の鍵を開けた。サラダは何を入れようかな。
玄関を開けて、中に視線を向ける。
「やぁ、おかえり!! 氷雨ちゃん!!」
兎。
青い。
兎。
全部の思考が停止して、何だかデジャヴを感じてしまう。と言うより、本日二度目の驚きでしょう。
私の体は石と化し、思考は即座に現実逃避へと突っ走った。
そういえばレタスがあったな、トマトもあった。それを添えてマカロニでも茹でて混ぜてみよう。ちょっとは美味しいポテトサラダになるかもしれない。ポテトと塩胡椒だけなんて味気ないもんね。
見当違いな事を考えて、手は無意識に玄関を閉める。そう言う反射だったんだろう。
私は扉に額をつけて、息を吐いた。耳の奥で鳴り響く心音がうるさい。目を何回も瞬かせてしまう。
あぁ、駄目だ。ポテトサラダではなく、今目の前にいた何かについて考えなくてはいけない。
頬が引き攣りながら笑みを浮かべる。何で笑うかな。
さて、考えろよ凩氷雨。
家に帰ったら青い兎の被り物を被った人がいた。タキシードを着た、目を見張るほど背が高い誰か。どこかで見たことある人だ。そうそうあの信号待ちの時。
え、あれ幻だったじゃん。そうだこれもきっと幻だね。バイトがちょっと大変で、スーパーで搾りカスみたいな勇気を使って、頭が疲れたんだ。
もしかしたら今私は頭が痛いかもしれない。思ったら確かに少し痛くなってきた。きっとこの微弱な頭痛が見せる幻覚だ。
声も聞こえた気がしたけれど、耳も疲れているんだと思うんだ。幻聴だ。今日は音楽を聴くのは止めておこう。
息を深く吸って、ゆっくり吐いて。
微かに手が震えているのを見て奥歯を噛み、口を結んで笑った。
大丈夫。あの信号待ちの時みたいに、開けたら何もないんだから。全部幻なんだから。笑っていよう。それがいい。笑えば不安が外に漏れることは無い。
ドアノブを握って、意を決する。
大丈夫、全部夢だ。さっさとご飯を作ってしまおうではないか。
「あ!! 開けてくれてありがとう氷雨ちゃん!! もうちょっとで扉をぶち破っちゃおうかと思ってたところだったんだ〜よかった〜!!」
いた。
間違いなく。消えることなく。青い兎はそこにいた。
笑顔が固まる。
息も止まった気がして、冷や汗が頬を伝い落ちる感覚だけは分かった。
声は出ない。出せない。悲鳴を飲み込んでしまったのは驚き過ぎたからだろう。
その日初めて、人は驚き過ぎると叫べないのだと学んだ。学びたくないことだった。
脊髄反射で玄関を閉めるけれど今度は閉まりきらなくて、見ると兎さんの足が間に滑り込んでいる。
呼吸だけでなく心臓まで止まりそうになった時、頭の上から悲鳴が聞こえた。
「いたたたたた!! 痛いよ痛い!! 足がもげちゃうよッ!!」
「ひぇ、ぁ、すみま、せ」
ドアノブにかけていた力を緩めてしまう。
あ、ドア、開く。
あれ、何で私は力を緩めたんだろう。
あぁ、そうだ。彼が痛いと言ったからだ。相手が痛いと言うことはしてはいけないって、幼稚園の先生も、小学校の先生も教えてくれたんだ。
玄関が開けられて腕を引かれ、倒れそうになりながら中に入る。
後ろで鍵が閉まる音がした。
暗くなってきてる家の中に嫌な音が響いたものだ。
「おかえり、凩氷雨ちゃん!!」
子どものように陽気な声。
見上げたら、作り物の硝子の目に、酷い笑顔を浮かべた私が映っているようだった。
自分の顔が青白くなっていくのが分かる。震える指から買い物袋が落下したけれど、そんな事はもうどうでもいい。
食材が傷むかな。いや知るか。それを食べることが出来るかすら、私には分からないんだから。
笑うしか能のない自分には、未来なんて見えない。
私は考えていた献立も、明日の予定も、思い出せなくなった。
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