第2/8話 懲りもせずに、ご愁傷様。
三首塔よろしく、三つの首を担いで、すたこらさっさ。生首、生首、一掛け、二掛け、三掛けて、仕掛けて、如何なされる、お侍さん。剥がせば虚言。探れば真実。嘘、嘘、嘘も日々つき続ければ真実に思える。それじゃ、真実なんて作ればいいじゃありませんか、都合のいいように。虚像、偽造、それ、捏造。悪い奴らは必死なんです。それに引き換え善人面ときちゃー、無気力、無関心、無責任。それで、いいんじゃありませんか、皆さん、忙しそうですから。ほらほら、今日も真実とやらが作られてまっせ。懲りもせずに、ご愁傷様。
斎藤利三は、延暦寺の門前町、坂本寺に着いた。明智光秀、溝尾茂朝、木崎新左衛門の生首を持参して。
坂本の詰所で首実検。腐敗、酷くて、分かりません。困った困った困ったもんだ。
「利三殿にお聞きしたい。何故、首が三つあり申すのか」
「主君は山崎の戦いで深傷を負い、自らの命を絶たれた。その際、主君の命により介錯をなされたのが溝尾殿と木崎殿でした。おふたりは忠義を貫き通され、切腹なされた。哀れに思った私どもは、せめて主君と同じく葬ろうとこのようなことに」
「首級の傷みが激しく思われるが、如何に」
「一旦は土に埋め生死を隠蔽しようと思いましたが、主君が夢枕に現れこうおっしゃった。この首級を織田家に差し出すが良い。明智光秀は死んだ。願わくば、明智に関わった者への穏便な配慮がなされるように、と。命乞いではありませぬ。光秀様は無益な殺生を嫌うお方で御座います。その意を汲み取り、恥を忍んでこの場に参った次第で御座います。とは言え、悩みは致しました。憔悴仕切っていた私どもは、不覚にも幾度となく、悪路に足を取られ、このような有様に…」
「あい、相分かった。まぁ、よいは。光秀の首級があることには変わりない。山崎の戦で深傷を負われたとのこと。ならば、秀吉殿の手柄である。山岸殿、この旨、早馬にて秀吉殿に伝えられよ。今後の処置についてもな」
山岸は直様、秀吉のもとを訪れ、事の次第を解き、処置の支持を受けた。
秀吉にすれば終わったこと。自分の手柄、それでいい。五月蝿き者がピーチクパーチク。後になって目障りな。そうならぬようにと秀吉は、首実検を明智側の者にさせること。判明すれば持参した者に返し、葬らせること。明智の血を引く者は裁断定まるまで幽閉、その他の者は所払いでお咎めなしとすること。を伝えて幕引きに急ぐ。呆気にとられて山岸は、真実よりも大義名分、成り立てば良い。のかと思うのです。
「やはり、そうでしたか」
「と、申されますと」
「首謀者の首級が手元にある。その首級を明智側の者に確認させる。それで大義の面目は立ちましょう。秀吉殿の関心は、主君の仇を討った、その名誉だけが欲しい。それより他には関心はあるまい。関心どころは、最早、信長様の意を引き継ぐ手立てでありましょう。それが秀吉と言うお人ですよ」
首級の判別はつかず、結局、甲冑が決め手となった。
斎藤利三は、光秀の首級を首塚として葬った。溝尾、木崎の首級も傍に。
と、言うのが伝えられる大筋となっている。
忖度、まったく、一件落着。真実、事実、どうでもいい。大義名分立てばいい。
しかし、明智光秀は何故、謀反を起こしたのか?信長の亡骸はどこにあるのか?本能寺の変の前日、参加するはずだった徳川家康が不在だったこと。秀吉が信長の訃報を聞いて驚く速さで戻ってきたこと。そもそも手薄な茶会は何故に開かれたのか?勝者の都合で残された文献には、隠蔽、改竄された節がある。その真相の扉、ぎゅぎゅっと、こじ開けてみましょうか。それでは時を遡り、隠された謎を暴きましょう。
それでは、謎解きの歴史奇行列車の発車で御座います。
おやおや、町明かりと、幾多の人々が見え始めましたぞ。
門前町坂本や下坂本に、たむろする僧兵たち。
そこには、僧侶の姿なし。鳥や魚、女を漁り、欲、金、喰らう、輩と化す。
遊興費に困れば、糧米、灯油の横流し。法儀料、お布施もくすめる始末。盗っ人猛々しいとはよく言ったものだ。権威を笠に賄賂の要求、高利で貸して甘露を堪能。脅し、たかりは、当たり前。言うこと聞かぬは暴力、言ううこと聞かぬは暴君、ありとあらゆる、悪行三昧。これでは、お天道様も許しません。
織田信長、イエズス会の宣教師ルイス・フロイト、信仰に、関心なし。あるのは、異国の知識、物ばかり。利用、出来れば、何でもいい。
信長、狙う街道は、重要、多用、それ、聖地。佛への信仰、冒涜すれば、朝廷への印象、悪くする。これは、厄介、この上ない。蔓延る悪行、僧兵は、信長の思う壷。大義名分、手に入れて、高笑い。
信長は、僧兵たちの悪行全てを調べさせ、それに纏わる者を洗い出す。調べた結果は、見るも無残に荒廃し、乱れた町を炙り出す。
僧兵と繋がり、甘い汁を啜る者、旅人を喰い物にする者、僧侶にあるまじき子を設け、その子が不良と化して、群れをなし、秩序など通るはずもない。
「この町は、腐りきっておるわ。このままでは、佛の道を後ろ盾に、民衆を隷属する。更に朝廷への賄賂による支配が、まかり通るは必定。捨て置けば、腐敗政治が天下を席巻するのは明白なり」
と、信長は激高し、現状を強く、危惧していたので御座います。
当時、将軍足利義昭と織田信長は、権力争いで険悪な関係す。
義昭は、越前の朝倉、北近江の浅井に手を回し、石山本願寺と気脈を通じる。それに、比叡山延暦寺もの乗っかった。
延暦寺のある坂本付近は、岐阜から京都へ向かう時の大きな合流点。諸国大名、黙らせて、朝廷、牛耳る夢を見る。それには、街道、奪うしかない。京都進行の邪魔だから。権威を嵩に、某邪気無人。僧侶にあるまじき行いばかり。比叡山は仏様の聖地と言うよりも、腐敗の巣窟と化していた。
比叡山は、院生・堂衆・学生・公人で成り立つの四階層。腐敗の中心、最下層。それは、僧兵(公人)、糞坊主。仏の信仰、逆らえず、それを分かって、横暴三昧。常とするのは、容赦のない山領の年貢の督促。有事になれば、黒衣を纏い、白い布を頭に巻き、武器を手に手に、日吉大社の神輿を担ぎ出す。都大路を練り歩き、挙句の果てには、要求、通るまで、嫌がらせ。神仏への、恐れや尊い心、そこにはない。
比叡山領の横領に端をなし、信長、比叡山、対立する。
天台座主が朝廷に働きかけ、寺領回復を図ったが、信長、従わず、水の泡。
元亀元年(1570)6月28日、
姉川の戦いで信長は、朝倉義景を討伐。義景、浅井長政と同盟結び対抗した。8月26日、野田城・福島城の戦いで、信長、背後を取られて、苦戦する。何とか形勢、逆転し、敵をエイヤエイヤで追い込んだ。比叡山に立てこもった浅井長政・朝倉義景連合は、負けじと攻防を繰り広げます。
正親町天皇の調停により、何とか信長と和睦へと導いた。裏では、浅井長政・朝倉義景は、自らの連合に加え、甲賀の六角義賢、摂津・河内の三好三人衆と合流し、京都奪還を企てた。表で和睦、裏では反撃。何を信じて良いのやら。
石山本願寺を率いる僧・本願寺顕如(本名:大谷光佐)は、あろうことか信長のお膝元、尾張の門徒衆に号令を発し、信長打倒を狙っていた。流石に、信長、黙っておられず、この野郎と、正月早々、賀礼に訪れた細川藤孝らに向かって息を巻く。
「浅井、朝倉ども、いい気になりよって。あ奴ら、許さん。もう我慢も尽きたは。今年こそ、山門を滅ぼす」と。
1月2日には、横山城の城主の木下秀吉に命じて、大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させ、石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断する。信長の怒りは、マックス、エックス、エンドレス。
「不審な者は、殺害せよ」
5月になれば浅井軍、一向一揆と組んで姉川に。進んで、堀秀村を攻め立てる。そこに現れたのは、木下秀吉軍。これには参って、敢え無く敗退。参加した長島一向一揆の村を反逆の狼煙と、焼き放ち、これをきっかけに全軍に攻撃の命を出す信長。
「絵巻、一字も残さず、雲霞の如く、焼き払え~」
山門の人々、老若男女、右往左往。生臭坊主、金を払うから許してくれと命乞い。
影では「我らに逆らうは、仏罰が下る」と僧兵は、浅井家・朝倉家に協力し、延暦寺を拠点に民衆、脅す。この期に及んで何をする。ついに信長の激怒り。
「遺恨一切残さず、哀れ、これ一切、無用なり」
信長の強い意思は家臣に浸透し、腐りきった山門一味として、僧俗、智者、児童、上人を問わず、片っ端に首を切っていった。逃げ惑う者たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭ったが、容赦なく、焼き払った。葬った数、千五百~四千人。これが世に言う、比叡山焼き討ちで御座います。
真実はド派手な嘘が好き。そもそも、根本中堂は自焼、山王二十一社などは、既に衰退していた。更に、死骸も焼けた木片も見つからない。比叡山が、火の海と化したのなら、京都や琵琶湖周辺に赤々と立ち上る火柱や煙が確認できたはず。
街明かりのある現在でも、琵琶湖の花火大会は牛尾山越しに見えるのです。街灯などない時代、山頂付近での火事が見えないはずがない。
比叡山焼き討ちだって?記述がない、亡骸がない、焼失の痕跡もない。焼き払いなど信じるに値しない。信長に汚名を浴びせるためのフェイクニュース。目撃者のいない真実の裏側には、得てして不合理が潜んでいることも少なくないので御座います。
天皇を凌ぐ権力を振りかざし、傍若無人の振る舞い。仏法を説くことを忘れ、金、色事、欲にうつつを抜かす教団を天に代わって信長が鉄槌を下した。
誰もが仏を恐れ、手を出さなかった宗教的束縛からこの日本を解き放った瞬間だ。
信長は、戦いの処理を明智光秀に任せた。
延暦寺や日吉大社は消滅。寺領、社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分された。光秀はこの領地に、坂本城を築城する。
焼き討ち直前に、光秀は、地元国人、和田秀純などを取り組み、織田軍の湖東進路を確保するなど、懐柔工作をしていたのです。
仏法の禁に綻びがあった比叡山。生臭坊主によって女人禁制は、破られた。
南無阿弥陀仏。坊主が仏に叱られた結末でした。
時同じくして、足利義満は、武田信玄の病死により、後ろ盾をなくした。室町幕府は、義満が京都を追われて終焉を迎える。
足利義満と言う後ろ盾を失くした天皇は、新たな後ろ盾に選んだのが織田信長。最大の権力を得た信長は、独裁的な強欲さを露呈し始めたので御座います。
信長は、中国地方の毛利氏、越後の上杉氏を攻め、平定へと向かわせた。敵となるのは、四国の長宗我部元親のみ。その長宗我部元親に信長は、四国領有を容認するからと、平定を得た。この約束事が、本能寺の変、勃発の一旦となるのです。
長宗我部元親と斎藤利三は親戚関係。利三は、光秀の信頼する家臣でした。
長宗我部元親への四国領有の容認を反故にし、信長は、四国征伐を決意する。
「信長様、それでは、約束が違うではありませぬか」
と、驚愕した光秀は、直様、信長と斎藤利三を通して、長宗我部元親との関係修復に乗り出した。長宗我部元親は、信長に歩み寄る書簡を斎藤利三に託した。しかし、その思いは信長には通じなかった。天下人の道を歩む信長は、冥府魔道の末、疑心暗鬼に飲み込まれていったので御座います。
光秀は、無用な戦を好む男ではなかった。信長は、自分を脅かしそうな勢力を被害妄想よろしく敵対視する思いを抑えきれないでいた。
その筆頭に、松平元康こと後の徳川家康がいた。三河国を束ね、勢上昇中。元康は幼少時、今川家と織田家を、人質として、行ったり来たり。幼少時、14歳くらいの信長、12歳の秀吉と遊んだ過去があった。
今川義元が、京を目指していた時、桶狭間で、信長の急襲に合い戦死。今川の一部隊だった松平元康は、岡崎城に帰還。今川から独立し、清洲で織田信長と清洲同盟を結んだ。その頃、名を松平元康から徳川家康と改めたのです。
血気盛んな家康は、信長に敵対する武田信玄に無謀にも挑むが大敗。悔しさと、恥ずかしさと、戒めと。忘れぬようにと絵にした程だった。
何が功を制すか分からない。果断に挑んだ戦いは、「あやつ、威勢だけはある、見上げたものだ」と、信長や諸大名の好感を得ることになるので御座います。
その後も、事あるごとに援軍を出すなど、家康は、信長との関係を着実に深めていった。家康にとって信長、秀吉は、目指すべき兄者のような存在だったのです。
しかし、信長は勢力を付ける家康を脅威に感じ始めていた。信長の興味は家康一点に注がれていた。脅威と思っていた長宗我部元親は、平服の態を見せている。最早、牙を剥く存在ではなかったのです。
明智光秀は焦っていた。約束を約束と思わない信長に憔悴仕切っていた。
光秀には優秀な探偵がいた。探偵とは俗に言う忍者のこと。忍者は情報の収集や操作を生業としていた。探偵の武器は戦うものではなく、危険回避のもの。忍法や軽業師のような印象は、大衆演芸や読売による影響が大きい。
その探偵から近い内に、家康の暗殺、長宗我部元親に対する四国征伐が実行される報告が上がってきていた。戦に前向きな秀吉は信長の信頼を受け、戦の意義を申し立てる光秀は信長からの信頼を受けるのに欠けるものがあった。その不調和音がギシギシと音を立て信頼関係の崩れていくのを光秀は感じ取っていたので御座います。
真実とは、どうも、恥ずかしがり屋のようで、全てを語らぬもので御座います。少しは、暴露してくれていますが、まだまだ、隠しているようで。
人知れず行うことは、美徳。裏で行えば、悪徳。要領のいい真実は、悪徳を無きものにして平然と自らの手柄とするのです。では次回、その手柄とやらの外面を剥がしてやりましょうか。柔軟剤をたっぷり効かせてね。それでは、お命、大事に。
※2019/2/15投稿分 毎月5の付く日はポインデーならぬ投稿日
⇒次回は、2019/02/25予定
予告編
化かし、化かされ、馬鹿を見る。そんなこの世は、狐と狸。「あんさん、その話、尻尾が見えてますぜ」 嘘・偽りはいつかは、あばかれる。信じた者が馬鹿なのか、信じれぬ者が馬鹿なのか。知らぬが仏。知らぬは損。無関心なら怪我はしないって。そりゃぁ、あんさん、ご愁傷様。気づけば、身包み剥がされて丸裸。世間とはそう言うもので御座います。
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