その三 ぶらり旅:マヤ、ジャンに惜しみない拍手を送る

 マヤの腕がさっと伸び、ジャンの胸倉を掴んだ。

 驚いて腕を振り回すジャンの巨体を引き寄せると、マヤは迷いなく、右の拳を顔面に叩きこんだ。ぼすっと鈍い音が車内に響き、トレイが座席から転げ落ちた。


「てめぇ、頭まで贅肉がついてんのか?」

 低く冷たい声と共に、マヤは髪をかき上げた。

 何とかまとまっていた髪がざんばらになり、頭の上に、ちょこんと毛が跳ね上がる。


「ああ、鬱陶しい。やっぱりこういうのはあたしの性に合わねえや。やい、エロ親父! お前も不運だな。あたしはボクシングをやってるんだ! ちょっとばかし腕は立つぜ?」

「な……き、貴様、もしや男か!?」

「女に決まってるだろ! なんなら胸触ってみるか?」

「ああ、そりゃ是非」

「ばっ、襟に手を入れようとするな! 服の上からだよ! いや、やっぱ駄目だ! おい、きゃあ! 変態!」

 ひっひっひ、と甲高い声で笑うと、ジャンは生臭い息をマヤに吹きかけた。


「うわっ、くさっ! 何食べたんだ、お前っ、あと手を抜け!」

「成程、お前を女と認めよう! さあ、盗んだものを出せ! そうすればここから――」

「わけのわからんこと言ってるんじゃねえ! おらぁ!」

 真っ赤になったマヤの二度目のパンチを、ジャンは右手で止める。マヤは唸ると、腕をねじり、手を引き抜こうとしたところ――ジャンの手がすっぽりと抜けた。


「えっ? ……うひょぉおぉおっ!?」


 するりと取れたその手を、マヤは受け止めた。蜘蛛のように指がまだ動いていた。

 マヤは目を瞬かせ、恐る恐る顔を近づける。

 蠢く手には張りがあり、浮き出す骨や血色も作り物には見えなかった。


 ただ、匂いがした。


 キノコの匂い? いや、もっと強い……ちょっとかびのような、ツンとする酸っぱい匂いもあるような……。

 マヤの顔がほころんだ。ジャンが訝しげな顔をする。

「何がおかしいんだ田舎家出娘?」

「家出じゃないって言ってるだろ。

 あたしはマヤ・パラディール。田舎娘は正解だな。

 それにしても、よくできてるなあ!」

 マヤは蠢く手をつまんだり、つついたりし始めた。


「すごいな……機械仕掛け? 糸じゃないよね? でも妙な匂いがする……それがタネだったりするの?」

 ジャンは眉を曇らせた。

「そりゃ教えられん」

「あははは、そうだよな。いや、ごめんね手品師。返すよ」


 ジャンは目を瞬かせ、口を尖らせた。そして手を受け取ると乱暴に袖にねじ込む。指が痙攣したように伸びると、二度三度と拳を作った。

 マヤは感心したように拍手した。


「凄い! 面白い! 他には何かできないの? あ、追加料金なら払うよ! 今の腕スポは、さっきの胸サワの代金てことで水に流そう!」

 キラキラと目を輝かせるマヤに、ジャンは渋面を作った。

「なんだ、その態度は? さっきまでわた……俺はお前の悪口を言って、胸を触ってたんだがな……」

 マヤは腰に手を当てると呵々大笑した。


「あれはあれ! これはこれ! あたし面白いこと大好き! さ! 続きをお願いシルブプレ!」

「……本当に家出じゃないのか?」

「うん、違うぞ! 

 ある日、招待状が来た。で、調べたら上流階級が集う場所だときた! 

 それで、色々あって田舎からのこのこ出てきたんだけど、そういう場所ならってんで付け焼刃で淑女のふりをして、質屋で買ったドレスをまとって会場に向かってる最中だったんだ! 

 でも、あんたがさっきから言ってる泥棒じゃないよ。自分の金で旅してるよ?」

 そう言ってマヤはジャンの腹をぽんぽんと叩いた。


「でも、ま、あんたの嫌味に感謝したほうが良いかもな! 

 やっぱりこういうのは向いてない! 

 それに会場でバレたら、さすがのあたしも心折れちゃうだろうしなあ! 

 ってなわけで、あたしはあたし! 淑女は来世! さっきの下品な言葉遣いは勘弁だな!」

 そう言うとマヤは再びずれた眼鏡を両手で戻した。ジャンは何か言おうとし、結局頭を下げた。


「……すまなかった。数々の暴言を謝罪する」

 あれま、とマヤ。だが、すぐに、にかりと笑った。

「んじゃ、最悪の出会いは忘れて、ショーを見せてよ! 

 汽車の旅は暇で暇で、眠くなっていけないや」


「お嬢さん、それは睡眠薬を盛られたからだよ」


 子供の声? マヤはそちらを見た。がらんとした個室の中には相変わらず人影はない。と、座席の下から、何かがするりと現れた。


 猫だった。


 灰色の短い体毛に、緑色の瞳。ピンと伸びた髭と尖った耳。

 猫は首を傾げ、口を開いた。


「クッキーに入っていたんだ」

「ひえっ!?」

 マヤは驚き、それからすぐにジャンに向き直って拍手した。

「凄い! ブラヴォー! 本当に猫が喋ってるように見える! えーと、ジャンさんだっけ? あんた、腕があるなあ!」


 とうとう『さん』付けされたジャンは首を激しく振った。

「違う違う! そいつは俺の手品じゃあない。腹話術じゃあない。本物さ!」

 灰色の猫は座席に飛び乗ると、マヤに近づいてきた。


「自己紹介しよう。

 僕はレオンハルト・ガンマ・オイラー。

 本当の名前はガンマだけど、味気ないので数学者オイラー氏の名を借りている。

 オイラーの定数は知っているだろう? あそこからの着想でね、いや、お恥ずかしい」

 お恥ずかしい、の辺りでマヤはガンマの頭を掻き始めた。ガンマがゴロゴロと言いはじめる。


 ジャンはため息をついた。

「よりによってお前がパートナーか。ってことは面倒事が山盛りってやつか……」

「御挨拶だねジャン。僕も君と組むとは知らなかった。依頼書を持ってきたよ」

 ガンマは、うぐっげぇっと口から白い塊を吐き出した。ジャンはそれを取ると広げた。

 マヤがニコニコしながらジャンに聞く。


「なんですかそれ~……という感じのネタフリでいい?」

「だから手品じゃないと……あん?」


 ジャンはマヤに向き直った。


「お前、『ソドム』に招待されたのか!? あんな所に行く気か?」


 マヤはひゅっと息を吸いこむと、ポケットを探り、一通の封筒を取り出した。

 それは、真っ青な上質紙に、金色のおどろおどろしい、『GC』の封蝋が施されていた。

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