その二 ぶらり旅:マヤ、頭をぶつけ、謎の男がグイグイ来る
「いてっ! くそっ!」
マヤは痛む額を押さえて、小さく毒づいた。
ごとん、とまたも汽車が揺れる。鼻まで、ずれた眼鏡をなおすと、ボンヤリした頭で隣を
マヤが座っているのは二等車の、四人掛けコンパートメント席だった。
今の言葉を聞かれてしまっただろうか?
だが、室内には誰もいなかった。
隣に座っていたはずの老婦人や、年甲斐もなくイチャイチャしていた、中年夫婦も居なくなっている。
一瞬不安にかられるも、彼女からもらったクッキーの欠片が、膝の上にひろげたハンカチの上に散らばっているのに気づき、それを手に取りマヤは息をついた。
この仄かな香り。どうやら、夢からはちゃんと覚めたらしい。
とすると、他のお客は?
マヤはバッグを探り、懐中時計を出す。昔、悪戯をして裏側に彫りつけた小さな三角形を、無意識に指でなぞる。
時刻は夜の七時を少し過ぎていた。
金色のショートカットに肉厚の眼鏡。その下の大きな目をきょろきょろと動かし、マヤは窓の外に目をやった。
街灯どころか民家の明かりも見えない。
さっきの夢の続き――暗闇に落ちていく――思いだし、マヤは窓から顔を背け、立ち上がるとうんっと伸びをした。途端にぐるるっと腹が鳴る。
ああ、そっか、もうそんな時間だ。じゃあ、みんなは――
個室のドアがゴンゴンとノックされ、ガラガラと痰が絡んだような水っぽい男の声が聞こえてきた。
「なにやら、痛そうな音がしましたが、そこの人、大丈夫ですかな?」
マヤはさっと座ると、窓を見ながら手櫛で髪の乱れを大急ぎで直す。顔が赤くなってきたのが判る。さっきの伸びを見られてしまったかな?
「お、お気づかいありがとうございます、お構いなく、ほほほ……」
途端に自分のわざとらしい笑い声に、ウンザリするマヤ。
「地元の子供が線路に石を置いたのかもしれませんなあ」とドアの外の声。
「ま、まあ、怖い……」
べたり、と何か大きなものがドアの窓に張り付く。
「お声と、シルエットから察するに、名のある
これも何かの縁、ご無礼でなければ長旅の細やかな楽しみとして、私と少々お話をしていただけませんか?」
返事も待たずに、ドアハンドルがガチャリと動く。
マヤはぎょっとして固まった。
え? ここに入って来ようとしてるの?
「い、いや、その……あた、いや、わ、
「それはいけませんな! だが、安心めされよ!
なにを隠そう、私、医学の心得がありましてね。ささ、診てしんぜよう!」
ドアがガチャリと開かれた。
マヤは、いや結構、と言いかけ、固まった。
一瞬、開いたドアの外が、夢の続きで『真っ暗な闇』に見えたからだ。
黒い服を着た、大きな男が立っていた。
ドアの上から、男の顔が覗いた。
男はにっこり笑うと、巨大な体を器用にドア枠にねじりこみ、マヤの隣にふわりと音も無く座った。
見れば、小さなトレイが膝の上に乗っており、食べかけのクラッカーや、干し肉が散らばっていた。
男は、肉厚の顔に人懐っこそうな笑みを浮かべ続け、ナプキンで口元をゆっくりと拭くと、手に持ったグラスからワインをぐびりと飲んだ。
「ほほ、失礼。さて診察をば――ふむ、失礼ながら絶景ですな! 下から見ている所為か、なんと大きな
いきなりの直球な発言に、思わずマヤはうげっと呻き、慌てて口元を抑えた。
男はナプキンを器用に片手で畳み始める。ねっとりとした視線が下から、胸にまとわりつく気がして、マヤは胸の前で腕を組む。男のにちゃりとした笑みが拡がった。
「ほっ、そうやると、胸の大きさが更に強調されますぞ! ふむ? 個室に入れてくれたことから推察しますに……もしや誘って?
……いやいや、淑女はそんな下品な事はしますまい!
となると、あなたはもしや淑女ではない?」
男の勝手な物言いに、マヤは目を白黒させながら、向かい側の席の方に寄ろうとした。
男は細長い指を、さっと立てる。
「おおっと! あまり窓の方に寄るのは感心しませんな。なに、今の時期、窓が結露する事が稀にありましてな、せっかくのお召し物が大変ことになるやも!
……ところで、そのお召し物ですがね、大変高価なものですが、流行ったのは十年も前。色も褪せておりますな。
ふーむ……もしや、質屋で?」
マヤは慇懃無礼さに、むっとした。
「これは母さ……母のお古です!」
「お古? とすると、もしや家出ですか?」
「ば……失礼ですよ! 私は、ご招待を受けパーティに行く途中なのです!」
男はへえ、と小さく言うと、トレイを持ったまま立ち上がり、さっとドアを開けた。
「二等車で最初っから着替えて、パーティに行くってね?
ああ、淑女に失礼。悪い癖でして、思ってることをするっと言ってしまう性質なんですな。
謝りますよ。ですよねえ、皆さん!」
男の張り上げた声に静寂が返ってきた。
マヤの乗っている車両は先程まで、いや、眠る前まで満室だった。子供だってかなり乗っていて、通路で大騒ぎをしていたはずなのに……。
しんとした車両に、ごとんごとんと規則的な音が響く。男は干し肉を口に放り込むと、口の端を上げた。
「何処に行ったと思いますかな?」
怖がらせようとしているのだろうか? そうはいかない。マヤも口の端を上げた。
「食堂車ですわね? 夕食の時間ですわ。だから、誰もいない」
男は肩を竦めると、マヤの近くにすたすたと歩いてきた。
マヤは再び、窓の方に半歩下がろうとした。
だが、思い直して、一歩前に出た。
男が片眉を上げ、立ち止まる。
巨大な太鼓腹が、マヤの胸に触れそうになっていた。見上げれば、男の顔はマヤの頭一つ分上にあるのだ。
気持ちがすうっと、落ち着いてきたマヤは、男をじっくりと観察した。
着ている物は、真っ黒い燕尾服。そして白いシャツに赤い蝶ネクタイだ。
体もそうだが、顔も幅が広い。だが、目はくりっとつぶらで小さかった。そして太い唇と立派過ぎる鼻の間には、くるりと先端が巻いた細長い髭がある。
「となると、あなたと私はこの場で二人っきり――ということになりますかな」
男は顔をくしゃっとすると、あからさまな目をマヤの胸に向けてきた。
「実の所、あなたの事を今日の昼からずっと観察しておりました。必死に淑女のような振る舞いをする奇異な田舎娘。これはなんであろう? とね」
男は肩を震わし、くっくっと笑った。反してマヤの目は細まっていった。
「もしかして、私を馬鹿になさっているのですか?」
男はトレイを置くと、両手をひろげ、大げさに会釈した。
「いやいや、そんな! なに、長い旅の暇つぶしと言いましたでしょう!
こういう場で女性を拾って、宿でよろしくやるというわけですよ。売春宿よりも金がかからず、後腐れもない! 私の懐具合では、コーラ・パールなど、望むべくもないですからなあ!」
男はぴしゃりと、幅広い額を叩いた。
「おお! 私としたことが、自己紹介がまだでしたな!。
私、ジャン・ラプラスと申します。
手品師にして巴里のグラン・ギニョルにて脚本を書いておりまする! マッドハッタ―というペンネームですが……ご存知ですかな?」
「……ええと、存じ上げませんわね、そのような下品な劇……」
「ほう、下品な劇であるとご存知で……ま、そちらは副業、本業は手品師でしてね」
そう言うとジャンは畳んだナプキンをさっと放り投げる。
「アブラカタブラ!」
ぽんと間抜けな音がして、貧弱な万国旗がひらひらと空を舞った。マヤはそれを見ると、体を大きく震わせた。
「すっご……お、お見事な手品ですわね! ああ、だからそのように黒いお召し物を……」
ジャンは再び口の端を上げる。
「お召し物、ときましたか。
ふう……いい加減、馬鹿な演技はやめるこったな!
やれやれ! お前は家出娘だ!
間違いない!
そして何かを盗んだんだろう?
で、そんな馬鹿な扮装で逃げ回っている!
ああ、まったく、くだらん! さあ、その盗んだ聖なる物を――」
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